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偽と善 中編
しおりを挟む部長は屈み、殴った猫を眺める。
証拠を残さねば、と猫西はポケットをまさぐった。携帯を取り出した手は震え、携帯が滑り落ちていく。――ゴッ。慌ててしゃがみこんだ。
「猫西くんじゃないか。どうした?」
部長の声が降り注ぐ。何ごとも起きていなかったような、いたっていつも通りの声音。
猫西は黙って携帯を拾い、立ち上がる。割れた携帯画面に恐怖と憎悪に満ちた顔が一瞬映った。仁王立ちの部長と対峙すると、全身が固まっていく。
「これからバイトで……。部長こそ何してるんですか」
「お望みなら説明するけど」
と両手を広げてみせた。
一目瞭然だ、部長が猫を殴ったことは。
「保護部として何してるんですかってことです」
「守るためだよ」
「守る? 何を?」
「猫に決まってるじゃないか。一匹の猫を犠牲に何匹もの猫を救う。トロッコ問題だよ、猫西くん」
猫西は耳を疑った。
トロッコ問題は知っている。乗っているトロッコが暴走した際の行動を問われる問題だ。
あなたが乗っているトロッコが暴走した。何もしなければ、レールの先にいる五人が轢き殺してしまう。
一方、レバーを使ってレールの進行方向を変えることも可能だ。ただし変更先のレールには、ひとりの人間がいる。
五人のいるレールと、ひとりだけいるレール。
どちらのレールを選ぶか、という問題だ。
すなわち、五人の命を奪ってひとりの命を守るか、ひとりの命を犠牲にして五人の命を救うかの二択が問われるのだ。
多くの人はレールの進行先を切り替え、五人の命を助けるほうを選ぶ傾向にある。
「部長は、一匹の猫を犠牲に数多の猫を守っていると言いたいんですか?」
「君も知っているはずだ。この猫は病気で余命半年ほど。この猫を最後まで見守るのと、切り捨てて全体の質を担保する選択肢があったら。どちらを選択するか明白だろ」
「部費の回収と来年に向けて予算申請の見直しを」
「それができれば、とっくの昔に変わってる」
猫西は焦っていた。
部長の後ろで倒れている猫を病院に連れていきたい。だが、猫の前にいる部長を押しきるのは、体格差を考えると難しい。
「君たちはすぐ救おうとするが、大学の部活なんて中高に比べたら大きいと言うだけ。限度を知るべきだ」
部長の声が脳内で気持ち悪く響き、軽いめまいを覚える。
「部員の自費で成り立たせる組織体制は変えないといけない」
猫西は携帯を強く握り締めた。
とにかく病院を第一に。否。携帯で緊急通報すべきか。携帯はまだ生きているだろうか。
「君もその被害者だろう? 奨学金をほとんど部に使ってるって後輩から聞いたよ」
頭の片隅は猫の心配でいっぱいにもかかわらず、猫西の中心には部長が居座っていた。
「部員が苦しまない活動の実現は、猫のためにもなる」
部長の意見に賛同半分、疑問半分であった。
確かに春休みに公園で見つけた子猫は、部費が足りていれば保護することができた。
入部を諦めた今年の新入生は金銭面を理由に挙げた。
今の組織体制が組織存続を危うくさせているのは事実だと、猫西も思う。
だが、春休みのあのとき。
中年男性から子猫を守るために殴ろうとした。守ろうとする正義が、殴る悪を誘発した。
善も過ぎれば悪。
悪は善に隠される。
では、部長は。彼の行いは、善なのか。
脳内に言葉の数々が駆け回る。
『すごくないさ』
『俺が残したわけじゃない』
『守るためだよ』
『猫のためにもなる』
ために、ではなく、ためにも。……も。
「いつから。部長は、いつから、こんな、猫への暴行をはじめたんですか」
「俺が部長になってから」
「半年くらいですか。その間ずっと……」
「もしかして亡くなった猫を気にしてるのかな。そうだね、病死を除けば全部俺が関わってる。失敗して怪我で済ませてしまったこともあったが、そのあと衰弱していったな」
「……」
「でも今回は大失敗。副部長にも疑われてしまった」
部長は哀れむように微笑んだ。
これは善じゃない。俯く猫西の顔から汗が滴る。
「結局、目的達成のために僕や保護部を利用したいんですね」
「利用じゃなく協力だよ」
「猫の保護活動が部員の負担になっているのは事実だと思います。でも、それは猫を傷つけた説明になっていない」
言葉を紡ぐ息が熱い。頭の芯が溶け、意識が朦朧としてきた。頭が痛い。
「部にお金がない問題と目の前の猫を傷つけることは別の話です。四回生からはじめたあたりも、部長の憂さ晴らしにしか見えません」
「……はー、参ったな。馬鹿は納得してくれるのに」
猫西の顔色は激昂に染まる。奥歯を噛み締め、顎を引く。鼻から漏れる息は、唸り声のように強く吐き出された。
「怒っているのだろ」
部長は片手で制しながら、静かに発した。
「馬鹿は俺だと言いたいのだろう」
ペットに躾でも施すように差し出された片手が、猫西の怒りを沈めていった。
「それでも、結果がほしいのさ。歴代部長の誰よりも、輝かしいものがほしい。だから組織改革。あとはストレス発散。君が言う言葉だと、憂さ晴らしか」
部長の手を下ろされたが、猫西は絶句していた。
「でも残念だ。猫西くんも猫狂い止まりなのか」
「……猫狂いじゃないです」
「じゃあ何」
「過去の間違いを繰り返さないため」
「猫好きですらない? はっ、可笑しいな。そんな人生さっさとやめたほうがいい」
猫西は、またも閉口する。
「猫西くん、人生の先輩として教えてあげよう。幸福っていうのは、誰かに不幸を肩代わりしてもらうことだ。肩代わりしてくれる存在がないなら擦り付けるまで。そうすれば、生涯背負うのは幸福だけさ」
部長の表情は崩れ、目が血走る。沈黙してしばし。口許に手をやった。支配したと確信しながら、笑みがこぼれる口許を撫で、真顔を演じる。
もっとも、猫西も負けじと自我を保っていた。
汗や涙が放出され、干上がり、猫西は顔を赤くしていった。それはさながら給食のパンが口の中の水分を奪う具合に、心と体の乾きをもたらした。
これからとる行動は、善か?
目で、心で、体で、五感で、考える。
「全く賛成できないです。そんな幸福、空虚でくだらない」
「……へぇ。自己犠牲か。滑稽だな」
「好きに言ってください。部長の理屈なら、僕は不幸で構わないのです」
屈伏させようものなら、ここで迎え撃つ。
簡単に引き下がらない態度を選んだことが、猫西を勇敢にさせた。
部長は目を細め、
「つまらないな」
と手を伸ばしてきた。
猫西は咄嗟に身を躱す。
だが、これはフェイク。
部長の目的は、地面に転がる警棒を拾うことだった。
部長は警棒で猫西の携帯を叩き落とし、蹴った。携帯がカラカラと音を立てながら茂みに消える。通報するには、あと一秒足りなかった。
猫西の鼓動は速い。警棒にやられたら、と思うと息が上がった。いよいよ灰青色の野良猫を見捨てた罪の裁きが下されるのだ、と待ちわびた思いが湧き水のように、ちろちろと内から溢れるのだった。
じりっ。靴が地面を擦る音がした。
部長は猫のほうへと歩きだす。
猫西は羽交い締めを試みるが、部長の肘で顔面を殴られた。呻くも、止まってはいけないと直感する。
もともと気弱な猫西が猫との触れあいで培ったもの。それは野性的嗅覚であった。洞察力にしては拙く、センスと呼ぶには優れていない。稀に危機を嗅ぎわける感覚、生存本能とも言うべきそれを、今この瞬間に感じ取った。
猫西が後ろに飛んだとき、警棒のひと振りが目の前を掠めていった。
互いの距離が開く。
部長は、肩で息をする猫西を冷笑し、背を向けた。一方的な試合放棄だった。
瞬間、猫西の感情は爆発する。
怒りと恨み。壊れた信頼。悲しみ。猫への懺悔。あらゆる感情の矛先が部長に向かった。
猫西は大股で一歩二歩三歩と前進し、部長を再び追いかける。疲れはない。それどころか前進するたび軽くなっていった。前へ。はやく、前に、進め!
応援ありがとうございます!
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