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故郷と夕立 後編
しおりを挟む猫西は慎重に言葉を選びながら、猫の保護活動に参加する理由を語った。それは自身の半生でもあった。
小学生の頃に出会った野良猫を友達として迎えたいと思ったが、叶わなかったこと。
それを機に、大きくなったら野良猫を助ける活動に参加すると決めていたこと。しかしそれを人に話せないでいたこと。
大学で保護部に入り、猫の保護活動をはじめたこと。
保護部が現在、実質の解体状態にあること。
大学猫を死なせないために里親探しをしていること。
猫サークルが保護部を引き継いだため、今回が最後の里親探しであること。
親の多英は、すでに大学猫のミルクを引き取ってもらっており、二匹目を迎えるのは難しいこと。
多英が細川の母と繋がりがあり、今日ここに来てもらっていること。
「細川さんがフォースを本当に引き取ってくれるなら、根気強く育ててもらうことになると思う。大学猫は人馴れしているけど、家みたいな狭い環境に慣れていないから」
話しながら、意識は細川に注がれる。
細川は床を見つめていた。その姿は猫西の言葉に傾聴し、真剣そのものだ。だというのに目はまったく違った。どこか上の空、心ここにあらずといった具合である。
少しして、細川は老婆のように前方に屈み、太ももの上に肘を乗せて頬杖をついた。そうして、ため息を吐く。ただのため息ではない。深く、長くて、意味ありげなため息。
緊張感が走る。細川のそばで固唾を飲む音がする。それが猫西自身の音だと気づいた頃、窓にあたる雨音が激しくなってきていた。バチバチ。バチバチバチ。
細川は黙って立ち上がり、窓を閉める。
猫西のほうに振り向いた彼女は真顔だった。
「猫西くんは変わらないね」
「……」
「聞こえなかった? あのときから変わってないって言ったんだよ」
細川の声色は軽蔑を含んでいた。
「猫西くん、もう一度訊くね。どうして猫を守りたいの? 猫を守りたくて、どうして部活なの? 本当に守りたいなら、まず獣医でしょ、普通。里親探しも部活では難しいこと、やる前からわかるでしょ」
少しでも早く野良猫を救う活動に関わりたかったから、模試で合格判定の低かった獣医学部を捨てた。
里親探しも同じ。部活の建て直しに時間をとるくらいなら、里親という協力者を探せば多くの大学猫を助けられると考えたから。
灰青の猫に出会ったときを除き、最善を選んできたと猫西は考えてきた。実際、未熟さを棚に上げれば、常に最善を選んできた。
「言い返してこないのは図星だからよね。それってすごく、最低だよ」
彼女の言い方は、放課後ふたりきりになった日の面影を感じさせる。
返事を急かすように、遠くで雷が轟いた。
「……細川さんの指摘は至極まっとうだと思う。それでも仕方なかった」
「なんそれ」
肩を押され、猫西はベッドに背を預けるようにして倒れた。長い黒髪に光を奪われ、ふたりの空間は夜と見紛うほどの闇となる。
「仕方なかったってなんだよ。変に達観して、神様にでもなったつもり?」
「選択肢は限られていた」
弁明した途端、猫西は息苦しくなる。細川の手に喉を摘ままれ、首もとをゆるく絞められていた。
「少しくらい痛い目を見ないとわかんない?」
細川の声は耳朶によく響いた。
「これが友達の話だったら同情したと思うよ。うちのまわりにも猫サー入って後悔してる友達いたし。でも、うちら友達じゃない」
猫西は答えることができなかった。身を捩っても呼吸は安定せず、息は上がり鼓動も速まり、シャツには汗がしみていく。顔をしかめても彼女に同情の色は滲まない。それどころか、その日本人形みたいな漆黒の瞳は闇の中で鈍く輝いている。
「前科があるんだ。どうせ猫西くんが悪いんでしょ。違うなら反論してみてよ。全部否定してあげる」
それでも怯まず、猫西は凝視し続けた。
フォースの鳴き声が、ふたりの空気を引き裂く。細川に隙が生まれたその一瞬を猫西は見逃さない。彼女の手首を掴み上げる勢いのまま起き上がり、彼女を壁に押さえつけた。
「ここまでだ。僕を殺して捕まりたくはないだろ」
息も絶え絶えに言うと、細川は上目遣いで見ながら下卑た笑みを浮かべた。
「捕まるなら殺人罪?」
「殺していたら傷害致死かと思ったけど、自白?」
「ううん。わかんない。さすが優等生は詳しいね」
「……」
「で、どうする。うちを警察につきだす?」
猫西は少しの間を置いてから、かぶりを振った。
「そっ。なら放して」
「……できない」
「放せって言ってんの!」
「フォースの面倒をみると約束してくれるまでは放せない!」
しまった、と猫西は口を閉ざした。感情が乱れ、声が少し震えてしまった。目を伏せ、平静さを取り戻す。
「広くて静かで、そよ風の吹く場所で寝るのが好きなフォースが、ここにいていいはずないんだ。なあ、あいつに家を与えてやってくれよ。安全な場所がどんなところか教えてやってくれよ。こんなのに構ってないで。な。僕にはできないことだ」
猫西はベッドから降りた。
細川は虚を衝かれたような顔をしたまま視線を落とし、手を握ったり開いたりしていた。そして猫西を見、「自己陶酔も、いい加減にしなよ」と言う。
「猫じゃなく自分のためってことじゃん? 最低を通り越して最悪」
チャイムが鳴った。細川の母だと名乗る声が聞こえた。
細川は部屋から出ていき、キャリーバックを手に戻ってきた。スムーズにフォースをキャリーバッグに移して立ち上がる。
「二度と猫にかかわらないで」
細川は、そう言い残して一階へと降りていった。
時間を置いてから、猫西も階段を降りた。
リビングでは、細川が遅れてやってきた彼女の母にフォースを紹介していた。その後は細川、細川の母、多英と談笑したが、奥深くで響く耳鳴りのせいで彼らの会話を聞き取ることができなかった。フォースただ一匹だけが猫西を見つめていた。
細川親子が帰る頃、雨はすっかり止んで晴れていた。
外に出ると、雨上がりの湿った空気が猫西の肺に侵入する。目に見えぬ水に暑さが混ざって気持ち悪い。
それでも夕立晴れは美しかった。目の奥まで突き刺す目映い黄金が広がっていた。灰色の曇を穿つように。
猫西は目を細め、空の終わりを探した。灰青の猫がいるであろう、はるか先まで見つめ続けた。細川の車がいなくなっていることにも気づかず……。体感一時間ほど眺めていた。
身を翻し、家に戻る。
視界に庭が入ると、夕焼け色をした花が咲いていた。
ルドベキアだ。唇のごとき花は雨に濡れている。しゃがみ、花の縁をなぞれば日を浴びながら発光するから、すぐに手を引っ込めてしまった。火傷したように指先が熱く感じられたのだ。花はしとやかに揺れ、踊り、そうして雫を落とした。
家に戻った猫西は、片づけを手伝った。洗い終わった皿をタオルで拭き、もとの場所に戻していく。
「こんなこと、もうやめてちょうだいね」
食器棚に皿を戻す猫西の背後で、多英は呟いた。
「親に恩を感じろだなんて言わないわ。けれど、お母さん、息子が自分を大切にしてくれなかったら、つらいわ。命あっての正義。正義で命は守れないのよ」
「……うん。もうしない。心配かけてごめん」
「子どものことは心配するものです。親だからね」
振り向くと、目に涙を浮かべながら微笑む多英の姿があった。
「疲れたから寝るよ」
猫西が微笑めば、「ゆっくり休んで」と返ってくる。
その後、自室にこもって荷物をまとめ、翌日の始発に間に合うように家を出た。
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