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余炎と孤影 中編
しおりを挟む猫西はコーヒーを喉が焼ける勢いで飲み干し、研究室を後にした。
確かに風は強い。前髪は飛ばされ、薄暗い世界に気力が削がれる。
けれども猫西の足は風に逆らい、部室棟のほうに向かって進みだした。
片手はポケットに突っ込まれ、帰っては駄目な理由に触れる。
ある。ここに責任が眠っている。
責任。
その二文字が猫西の前に進む気持ちを強くした。
道すがら猫とすれ違うたび、彼女らの言葉が脳裏をよぎる。
『次はサークルの代表として対応せざるを得ません』
『二度と猫に関わらないで』
劣化した写真のごとき色彩を失った映像。
先刻言われたと錯覚しかねない生々しい声音が心臓からドクドクと駆け巡る。
「……これが最後だ」
猫西は走るように部室棟の階段を駆け上がり、保護部の部室前に立った。
インターホンに手を伸ばしかけて引っ込める。
室内から声が聞こえる。おそらくサークル部員だろう。華やかな声、鮮やかな雰囲気が、猫西を躊躇わせる。
「猫西先輩?」
室内ではない。猫西と同じ通路側から声がする。首を曲げる。
大栗がいた。
大栗のストレートな茶髪は、以前よりも神の生え際に黒が増えていた。
紺のノースリーブワンピースが彼女をくるぶしまで覆い、彼女そのものがブラックホールに思えた。が、目を細めてみれば星座の柄が至るところに入っている。
彼女の腕は灰色のカーディガンが包み隠すも、風が吹けば、奥から白い二の腕が猫西の視界に映った。
「どうして猫西先輩がここに」
「さっき法学部棟の前で猫にご飯あげてる学生がいて、その、あれは猫サークル?」
「どうでしょう。ダメって言ってるので違うと思いたいんですけど」
「……そっか」
猫西は言及をやめた。
大栗の言葉が本当だと信じたかった。
「一応、注意しておきます。それで、猫西先輩はどうしてここに?」
猫西が答える前に、部室の扉が開かれた。
中肉中背の男子学生――小柄な猫西にとっては高慎重に見えるのだが――が現れた。男はドアノブを握ったまま、猫西を凝視した。
大栗が「あの」と猫西と彼の間を割って入ってくる。
「こちら、猫西先輩」
大栗の紹介を受け、猫西は会釈する。
「はじめまして。猫西です。二回生です」
「あ、はじめまして。ぼくは猫サークルの副代表です。一回生です」
「あの、これは、その」
「わかってる。大栗が呼んだんじゃない。ただ、この人が突然来ただけのこと」
と彼は、微笑で彼女の焦りを受け流した。そして、猫西を見下ろす。
「見たところ、保護部の人ですよね?」
彼の放った言葉が、扉の奥を静かにさせた。
猫西が室内のほうを覗くと、学生は次々とこちらを見、冷ややかな目付きに変えるのだった。彼らの中には、先ほど加瀬谷に叱られていた女子大生ふたりの姿もあった。
はやく終わらせたい、と猫西は彼に視線を戻す。
彼は困り顔ながら口角を上げていた。
「猫サークルは立ち上げたばかりで正式な部室が割り振られていないんです。保護部が実質解体状態と聞いて、今借りさせてもらってます。ご迷惑でしたか?」
「さあ……。僕は決められる立場にないよ。保護部の顧問にひとこと言っておけば問題ないんじゃないかな」
「そうですか」
彼は目を細めた。その笑顔は歪で、嫌悪感が表に出ていた。
「大栗には確認したんですけど、どなたに尋ねればいいか困っていたもので。いや助かりました」
大栗は気まずそうに俯いた。
猫西は暫時、彼らを見つめてから、ポケットにある鍵を取り出した。
「大栗に、これを」
大栗は水をすくうように両の手のひらを差し出してきた。
猫西は、彼女の小さな手のひらに鍵を乗せる。
「部室の左奥のキャビネットの扉、これで開けてくれ。引き継ぎが遅くなって悪かった」
大栗はハッとし、鍵を優しく両手で包み込んだ。
台風接近による湿った空気と強い風が吹く。空は曇り、部室の明かりも玄関口までは届かない。
彼女の瞳は、しかし違う。
目を伏せ、ものの数秒後。
表をあげた彼女の瞳に太陽が見えた。
大栗が目を見開き、部室に入っていくまで、猫西の目は彼女を追いかけた。
副代表の彼は理解が追い付かず、「引き継ぎ?」と怪訝な眼差しを向け、猫西に説明を求める。
猫西は黙殺した。
大栗に渡した鍵は、部室の鍵付きキャビネットを開けるものだ。そこには、保護部が独自に作成したマニュアルブックが入っている。
大学猫の管理方法や大学猫をつれていく病院リスト、連携している保護団体リストなどの確認が主たる利用である。
一方で、ゴシップノートと呼ばれる秘密のノートもある。
例えば、法学部の加瀬谷教授は猫アレルギーである。
例えば、職員の近藤は自分が飼っていた猫を大学に放って懲戒処分を受けたことがある。
キャンパス内の猫にまつわるゴシップが詳細に記録されている。これをもとに保護部は、代々、暗黙ルールを作ってきたそうだ。
副部長の失踪後、猫西はこっそり鍵を持ち出した。
しかし猫サークルがある今、持つべきは代表の大栗である。
元保護部でサークルの立ち上げにも携わった大栗なら大丈夫だ、と猫西は渡しにきたのだ。それゆえに副代表の彼に事情を話す道理がなかったし、話したくなかった。
「とにかく、ありがとうございましたー」
と、お辞儀する副代表の彼。
「メンバーが困ってる様子だったんで何かあったのかと思っちゃいましたけど、もう大丈夫そうっすねー。ね、先輩?」
「……うるさいな」
痺れを切らした猫西の、ぽろっと出た本音と睨み。
副代表の表情は怯えを浮かび上がらせた。
猫西は無言で立ち去った。間抜けな男にフォローするのが心底バカらしかった。
虚勢は張れても、振りきれないようでは頼りない。大栗が代表になるのも納得だ。可哀想に。保護部の部長はもっと堂々としていた。もっとも、迷わず猫殺しを遂行した部長と比較するほうが酷ではある。
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