忘れてしまえたらいいのに(旧題「友と残映」)

佐藤朝槻

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余炎と孤影 後編

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 風に背を押されるように、猫西ねこにしは階段を駆け降りた。
 緩した体は軽く、見える景色はふわふわしている。体にまとわりつく汗まみれのシャツだけが不快だった。

 ぼやけた意識の中、地面に足をつけたとき。
 一匹の猫が近づいてきた。
 足の短いミックス猫。名前はレオンと言った。


「レオン。僕、猫サークルじゃないんだよ。ご飯あげられない」


 伸ばした手が小刻みに震え、拒絶を知る。
 視線を落とし、おもむろに指の関節を曲げ、握りしめ、手のひらに爪を立てる。染みのある痛覚に安心さえ覚えた。痙攣けいれんがおさまる。
 

「そうだな、猫サークルのせいするのはおかしい。でも、とにかく無理なんだ」


 ごめんと言ったつもりだった。しかし実際には声になっておらず、レオンはどこかへ行ってしまった。拳をポケットに突っ込む。猫西は振り返らなかった。

 帰宅後、スマホに連絡がきていた。翌日のバイトが台風の影響で休みになったようだった。
 雨戸を閉めに窓際へ。外は暗くてなにも見えない。猫西のほかにも住人がいるはずだが、風の音で聞こえない。

 窓を閉めたあと、浴室に向かう。
 ポケットに入れているスマホを取り出せば携帯が反応し、画面に日付と時計が映し出された。


「二二〇日……。公園で見かけた子猫を見捨てて、そんな経つのか」


 ぼうっとしているとスマホ画面が暗転した。そのまま置き捨て浴室に入った。
 シャワーを捻る。


「その間、僕は何か変わったのかよ。部を壊して、猫サークルにも迷惑かけて!」


 両手で自身を抱きしめてみる。


「部長は今の僕を笑うよ。細川なら息の根を止めにくる。きっと来てくれた」


 背に回った手が、爪が、皮膚を食っている。
 頭から背中へと流れる水は冷たい。にもかかわらず、食われた部分だけはじくじくと熱を持ち、三日月のような爪痕ができあがる。


「けれどもう遅い。全部、過ぎたことだ」


 くく、くくく。
 閉じた口の端から笑いの息が漏れ出る。
 見放され、否定され、救う度量がないとわかった今、忘れようとしている。


「ああ。たしかに変わった。本当の人でなしになった……!」


 猫西は口を引き結び、シャワーを温水に変えて体を洗った。洗うといっても石鹸せっけんを切らしており、手短に済ませた。

 風呂から上がったあとも猫西は黙っていた。ヤカンでお湯を沸かし、カップラーメンにお湯を注ぐ。三分も待たずに麺をすすった。できあがりを待つ時間よりも、食べ終わる時間のほうがはやかった。

 吐き気を催すほどの深い眠気に襲われ、ベッドに横たわる。
 が、うるさくて寝つけない。
 雨がベランダに強く落ちる。ぼとぼと。ボトボト。風が大きなため息を吐けば、雨戸が揺れ、カタカタ。雨音は風で飛ばされ、雷が鳴り響く。
 天井を眺める時間は、時間感覚を奪う。
 カップラーメン、そしてエナジードリンクの空き缶の香りだけが感覚機能を刺激していた。

 猫西の目に光は映らなかった。
 台風が過ぎ去っても。
 夜が明けても。
 季節が過ぎても。

 夏秋の暑さが消えたことはわかるはずだった。
 しかしながら、猫西の体は涼しい季節でも火照っていた。汗をかき、意識がぼうっとして、発熱が猫西を夏に取り残していた。
 目の前の文字が滑り、世界がゆがむ。大学へは行かなくなった。

 猫西はバイトし続けた。忙しくしていると余計なことを考えなくて済んだ。クレーマーへの怒りと店長の鬱陶しさだけで頭が満たされていく。
 ときどき脳が正そうと悲鳴を上げる。その日だけは睡眠時間を多めにとる。翌日には、また働いた。

 そのような生活を送って三ヶ月ほど経過した。
 冬の風が町を駆け回りはじめ、落葉が地面を彩る季節になっていた。

 その頃になると、猫西はベッドから起き上がることができなくなっていた。
 熱い。頭が痛い。体が思うように動かない。ダメになってしまったのだ。この体はいらない。必要ない。
 何度も自分を呪った。

 ある日、猫西はベッドで寝ていたが、力を振り絞って携帯をつかみ、通話ボタンを押したのである。


『――はい。こちら法学部事務局です』

「法学部の猫西と言います。あの、退学したいんですけど、どうしたらいいですか」

『退学ですね。担当教員と面談しましたか』

「いえ、まだ……」

『ではまず面談をしてもらって――。その後、保護者の方に同意書をサインしてもらう必要がありますが、保護者とは相談されましたか』

「……すみません。少し考えさせてください」


 一方的に通話を切り、猫西は沈むように布団を被った。

(押しきれよ! 意気地なし! あの職員も機械的に事務的に動きやがって。親の同意? 成人した学生に不要だろう、そんなもの!)

 熱に浮かされた猫西は、うわ言を吐露する。


「落ち着けよ、お前。ねれば拗ねるほど親への説得が困難になるだけだ。保護部に入りたくて選んだ大学を、建前を並べて説得したんじゃなかったか。偏差値が高いとか就職率が高いなどと、パンフレットから得た薄っぺらい情報をまくし立てたじゃないか」


 両親の忠告を無視して選んだのに、今になって間違っていたと手のひらを返し、め腐った発言をするのだ。最低限の礼儀はいる。冷静にならねばならない。


「また、建前を考えるか……。嫌々。今回ばかりは建前と呼べる代物ではない。これはうそだ。裏切りだ。冒とくだ」


 うわ言が耳の鼓膜を揺らし、動がする。
 また、熱が上がる。
 息苦しくなり、逃げ惑った体がベッドの上を転がって落ちた。床の冷たさが心地よくて、打ちつけた痛みは感じないほどであった。だが見開いた眼を覆うように涙があふれ、熱で熟れた頬に伝った。

 目蓋を下ろしてからの猫西は、現実と夢の間を行き来した。
 悪夢にうなされていると思ったら喉が渇き、水をのんだはずなのに気づけば悪夢の中にいる。そして目を覚ますと悪夢を忘れた。

 スマホが振動し、焦点の合わない目で画面をのぞき込んだ。事務局からメールだった。

『まず担当教員かカウンセラーと相談してみることを薦めております』

 相談って何を――。
 猫西は吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。
 便器に吐き出した。
 灰青の猫が去っていく後ろ姿を。
 否定できなかった部長の野望を。
 細川ほそかわの蔑視を。
 大栗おおぐりの眼差しを。
 脳内に深く刻み込まれている記憶とともに、すべて吐き出してしまいたかった。記憶がフラッシュバックするたび寒気が止まらない。

 猫西は、ひとりごとで対抗した。はじめは喚き、文句、泣き言、懇願をぶつぶつとつぶやいていたが、途中からタガが外れて叫んでいた。えながらよだれを垂らす姿は、まるで獣。

 浮遊感を覚えながら、喉が痛いなあ、疲れるなあ、と他人事のように考える。客観的に自分をとらえたところで人間に戻る術を知らない。

 そうしているうちに吐くものもなくなり、部屋に戻った。
 椅子に腰を下ろし、力なくうつむいた。たんが絡んだときのような湿り気でむせて、き込んだ。浅い呼吸を繰り返した。

 顔を上げると、机の上にスマホがあった。
 スマホに手を伸ばし、速報ニュースが目に留まる。
 二十三歳無職の男性が包丁で刺されて病院に搬送。重症。刺したのは同居している二十四歳女性。彼女は犯行を認め、警察は取り調べ中とのこと。

 男女の名前に見覚えがある。
 退学したうわさは本当だったようだ。
 男性の名前に笑いがこみあげた。ちっとも笑えない内容なのに、笑いを引っ込めるのは失敗して、鼻で笑ってしまえば止められなくなった。ひ、ひ、ひ。気が晴れるまで笑い、肺に痛みを覚える。長く酸っぱいため息を吐くことだ、ようやく笑いがおさまった。


「なにが不幸の肩代わりだ。ざまあみろ」


 残響するひとりごとが、不快感を腹から胸、喉へとせり上げる。風船が割れるみたいに、あっという間に異臭が広がる。

 よろよろと重い腰をあげ、窓を開ける。
 冷たい夜風。
 何ら香りのない空気。
 くしゃみした。鼻をかむのも面倒に思われ、鼻水を吸い込み、口で息を吐いた。風船がしぼむように楽になって、呼吸は安定する。顔面にあった涙の跡はなくなった。

 夜風は窓の向こうの黒をいつまでも見せる。純粋な黒は一瞬、魅惑的に感じられた。理もとがも見分けつかぬ色は猫西を拒まない。

 冷気を浴び、鋭い感覚が目覚めてくる。そうすると恐怖と不安を覚えはじめた。ガチガチと歯をならし、完全に体内の熱を失ってしまう前に窓を閉めた。

 あちらに行ってはいけない。
 床に散らばる汚物を掃除している間、猫西が発した唯一の言葉である。
 布団に潜り込むと、その擬似的な黒い空間にさえも不安で揺らいだが、今度こそ眠りについた。深い眠りだった。
 
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