14 / 15
余炎と孤影 後編
しおりを挟む風に背を押されるように、猫西は階段を駆け降りた。
弛緩した体は軽く、見える景色はふわふわしている。体にまとわりつく汗まみれのシャツだけが不快だった。
ぼやけた意識の中、地面に足をつけたとき。
一匹の猫が近づいてきた。
足の短いミックス猫。名前はレオンと言った。
「レオン。僕、猫サークルじゃないんだよ。ご飯あげられない」
伸ばした手が小刻みに震え、拒絶を知る。
視線を落とし、おもむろに指の関節を曲げ、握りしめ、手のひらに爪を立てる。馴染みのある痛覚に安心さえ覚えた。痙攣がおさまる。
「そうだな、猫サークルのせいするのはおかしい。でも、とにかく無理なんだ」
ごめんと言ったつもりだった。しかし実際には声になっておらず、レオンはどこかへ行ってしまった。拳をポケットに突っ込む。猫西は振り返らなかった。
帰宅後、スマホに連絡がきていた。翌日のバイトが台風の影響で休みになったようだった。
雨戸を閉めに窓際へ。外は暗くてなにも見えない。猫西のほかにも住人がいるはずだが、風の音で聞こえない。
窓を閉めたあと、浴室に向かう。
ポケットに入れているスマホを取り出せば携帯が反応し、画面に日付と時計が映し出された。
「二二〇日……。公園で見かけた子猫を見捨てて、そんな経つのか」
ぼうっとしているとスマホ画面が暗転した。そのまま置き捨て浴室に入った。
シャワーを捻る。
「その間、僕は何か変わったのかよ。部を壊して、猫サークルにも迷惑かけて!」
両手で自身を抱きしめてみる。
「部長は今の僕を笑うよ。細川なら息の根を止めにくる。きっと来てくれた」
背に回った手が、爪が、皮膚を食っている。
頭から背中へと流れる水は冷たい。にもかかわらず、食われた部分だけはじくじくと熱を持ち、三日月のような爪痕ができあがる。
「けれどもう遅い。全部、過ぎたことだ」
くく、くくく。
閉じた口の端から笑いの息が漏れ出る。
見放され、否定され、救う度量がないとわかった今、忘れようとしている。
「ああ。たしかに変わった。本当の人でなしになった……!」
猫西は口を引き結び、シャワーを温水に変えて体を洗った。洗うといっても石鹸を切らしており、手短に済ませた。
風呂から上がったあとも猫西は黙っていた。ヤカンでお湯を沸かし、カップラーメンにお湯を注ぐ。三分も待たずに麺を啜った。できあがりを待つ時間よりも、食べ終わる時間のほうがはやかった。
吐き気を催すほどの深い眠気に襲われ、ベッドに横たわる。
が、うるさくて寝つけない。
雨がベランダに強く落ちる。ぼとぼと。ボトボト。風が大きなため息を吐けば、雨戸が揺れ、カタカタ。雨音は風で飛ばされ、雷が鳴り響く。
天井を眺める時間は、時間感覚を奪う。
カップラーメン、そしてエナジードリンクの空き缶の香りだけが感覚機能を刺激していた。
猫西の目に光は映らなかった。
台風が過ぎ去っても。
夜が明けても。
季節が過ぎても。
夏秋の暑さが消えたことはわかるはずだった。
しかしながら、猫西の体は涼しい季節でも火照っていた。汗をかき、意識がぼうっとして、発熱が猫西を夏に取り残していた。
目の前の文字が滑り、世界が歪む。大学へは行かなくなった。
猫西はバイトし続けた。忙しくしていると余計なことを考えなくて済んだ。クレーマーへの怒りと店長の鬱陶しさだけで頭が満たされていく。
ときどき脳が正そうと悲鳴を上げる。その日だけは睡眠時間を多めにとる。翌日には、また働いた。
そのような生活を送って三ヶ月ほど経過した。
冬の風が町を駆け回りはじめ、落葉が地面を彩る季節になっていた。
その頃になると、猫西はベッドから起き上がることができなくなっていた。
熱い。頭が痛い。体が思うように動かない。ダメになってしまったのだ。この体はいらない。必要ない。
何度も自分を呪った。
ある日、猫西はベッドで寝ていたが、力を振り絞って携帯を掴み、通話ボタンを押したのである。
『――はい。こちら法学部事務局です』
「法学部の猫西と言います。あの、退学したいんですけど、どうしたらいいですか」
『退学ですね。担当教員と面談しましたか』
「いえ、まだ……」
『ではまず面談をしてもらって――。その後、保護者の方に同意書をサインしてもらう必要がありますが、保護者とは相談されましたか』
「……すみません。少し考えさせてください」
一方的に通話を切り、猫西は沈むように布団を被った。
(押しきれよ! 意気地なし! あの職員も機械的に事務的に動きやがって。親の同意? 成人した学生に不要だろう、そんなもの!)
熱に浮かされた猫西は、うわ言を吐露する。
「落ち着けよ、お前。拗ねれば拗ねるほど親への説得が困難になるだけだ。保護部に入りたくて選んだ大学を、建前を並べて説得したんじゃなかったか。偏差値が高いとか就職率が高いなどと、パンフレットから得た薄っぺらい情報を捲し立てたじゃないか」
両親の忠告を無視して選んだのに、今になって間違っていたと手のひらを返し、舐め腐った発言をするのだ。最低限の礼儀はいる。冷静にならねばならない。
「また、建前を考えるか……。嫌々。今回ばかりは建前と呼べる代物ではない。これは嘘だ。裏切りだ。冒涜だ」
うわ言が耳の鼓膜を揺らし、動悸がする。
また、熱が上がる。
息苦しくなり、逃げ惑った体がベッドの上を転がって落ちた。床の冷たさが心地よくて、打ちつけた痛みは感じないほどであった。だが見開いた眼を覆うように涙が溢れ、熱で熟れた頬に伝った。
目蓋を下ろしてからの猫西は、現実と夢の間を行き来した。
悪夢にうなされていると思ったら喉が渇き、水をのんだはずなのに気づけば悪夢の中にいる。そして目を覚ますと悪夢を忘れた。
スマホが振動し、焦点の合わない目で画面を覗き込んだ。事務局からメールだった。
『まず担当教員かカウンセラーと相談してみることを薦めております』
相談って何を――。
猫西は吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。
便器に吐き出した。
灰青の猫が去っていく後ろ姿を。
否定できなかった部長の野望を。
細川の蔑視を。
大栗の眼差しを。
脳内に深く刻み込まれている記憶とともに、すべて吐き出してしまいたかった。記憶がフラッシュバックするたび寒気が止まらない。
猫西は、ひとりごとで対抗した。はじめは喚き、文句、泣き言、懇願をぶつぶつと呟いていたが、途中からタガが外れて叫んでいた。吠えながら涎を垂らす姿は、まるで獣。
浮遊感を覚えながら、喉が痛いなあ、疲れるなあ、と他人事のように考える。客観的に自分をとらえたところで人間に戻る術を知らない。
そうしているうちに吐くものもなくなり、部屋に戻った。
椅子に腰を下ろし、力なく俯いた。痰が絡んだときのような湿り気でむせて、咳き込んだ。浅い呼吸を繰り返した。
顔を上げると、机の上にスマホがあった。
スマホに手を伸ばし、速報ニュースが目に留まる。
二十三歳無職の男性が包丁で刺されて病院に搬送。重症。刺したのは同居している二十四歳女性。彼女は犯行を認め、警察は取り調べ中とのこと。
男女の名前に見覚えがある。
退学した噂は本当だったようだ。
男性の名前に笑いがこみあげた。ちっとも笑えない内容なのに、笑いを引っ込めるのは失敗して、鼻で笑ってしまえば止められなくなった。ひ、ひ、ひ。気が晴れるまで笑い、肺に痛みを覚える。長く酸っぱいため息を吐くことだ、ようやく笑いがおさまった。
「なにが不幸の肩代わりだ。ざまあみろ」
残響するひとりごとが、不快感を腹から胸、喉へとせり上げる。風船が割れるみたいに、あっという間に異臭が広がる。
よろよろと重い腰をあげ、窓を開ける。
冷たい夜風。
何ら香りのない空気。
くしゃみした。鼻をかむのも面倒に思われ、鼻水を吸い込み、口で息を吐いた。風船がしぼむように楽になって、呼吸は安定する。顔面にあった涙の跡はなくなった。
夜風は窓の向こうの黒をいつまでも見せる。純粋な黒は一瞬、魅惑的に感じられた。理も咎も見分けつかぬ色は猫西を拒まない。
冷気を浴び、鋭い感覚が目覚めてくる。そうすると恐怖と不安を覚えはじめた。ガチガチと歯をならし、完全に体内の熱を失ってしまう前に窓を閉めた。
あちらに行ってはいけない。
床に散らばる汚物を掃除している間、猫西が発した唯一の言葉である。
布団に潜り込むと、その擬似的な黒い空間にさえも不安で揺らいだが、今度こそ眠りについた。深い眠りだった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる