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表参道の通りに面したガラス張りの建物。
控えめなゴールドのロゴで刻まれた muse の文字が、昼の光を受けて静かに輝いていた。
自動ドアが開いた瞬間、空気が変わる。 ほのかに甘く、清潔感のある香り。
ヒールの音、ドライヤーの低い風音、スタッフ同士の短い確認の声——すべてが心地よいリズムで流れている。
足を踏み入れた私たちに気づくと、数人のスタッフが一斉に顔を上げた。
「あ、オーナー。お疲れ様です」
「おはようございます」
揃った声に、思わず背筋が伸びる。
愛梨さんは軽く手を上げるだけで、 「おはよう。空席、少しだけ使うわね」 と短く告げる。
「了解です。こちら空いてます」
すぐに一席が整えられる。
無駄な動きは一切なく、全員が“次に何をすべきか”を分かっている空気だった。
「まどかちゃん、ここ座って」
促されて腰を下ろすと、鏡越しにサロン全体が見える。
天井は高く、自然光がたっぷり入る設計。
床は大理石調で、白とゴールドを基調にした内装は洗練されているのに、どこか温かい。
椅子やワゴン、道具類に至るまで、すべてが丁寧に手入れされているのが分かった。
(……すごい)
思わず息をのむ。
(愛梨さん、こんな場所を……)
テレビで見る“成功した人”の世界が、急に現実のものとして目の前に広がった気がした。
スタッフの一人が私の顔をちらりと確認し、声を落として愛梨さんに耳打ちする。
「……髪、無理やり切られた感じですか」
「ええ。だから今日はケア重視で私がやるわ」
愛梨さんはそう答えて、私の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫。今日はね、外に出られる顔と気持ちにしてあげる」
愛梨さんは迷いのない手つきでケープをかけ、カウンターからハサミを取った。
その金属音が、きん、と耳に響いた瞬間——
脳裏に、あの瞬間がよぎる。
ハサミが振り下ろされた感触。
息が詰まり、心臓が跳ね上がる。
どくん、どくん、と鼓動が早まるのが自分でも分かった。
「……大丈夫?」
愛梨さんが、すぐに気づいて声を落とす。
「顔色、ちょっと悪いわよ。気分悪くなったら、すぐ言って」
「……大丈夫です」
深く息を吸って、ゆっくり吐く。
「お願いします」
ハサミが、髪に入る。
でもそれは——
あのときの、乱暴で冷たい感触とはまるで違った。
一定のリズムで、軽やかに。
引っ張られることもなく、痛みもない。
指先が髪をすくい、整えながら、優しく形を作っていく。
少しずつ、胸の奥のこわばりがほどけていった。
「だいぶ短くなるけど……」
愛梨さんが鏡越しに笑う。
「ちゃんと似合うようにするから、任せなさい」
カットが終わり、シャンプー台へ移動する。
温かいお湯と、心地いい指の動きに、自然と肩の力が抜けた。
ブローされ、最後に軽くスタイリングされて——
鏡に映ったのは、見慣れない自分だった。
顎のラインがすっきりして、目元がはっきりしている。
ショートヘアの、少し幼くなった自分。
「……どう?」
一瞬、言葉が出なかった。
「……すごい」
やっと、そう呟く。
「ありがとうございます……」
「でしょ?」
愛梨さんは満足そうに頷いた。
「まどかちゃん、ショートも似合うのよ。ほんと、可愛い」
ケープを外され、肩に落ちる軽くなった髪に触れながら、私は小さく息を吐いた。
レジに向かおうとすると、愛梨さんがひらりと手を振る。
「あ、お金はいいのよ」
「え……そんなわけには……」
「その代わりね」
愛梨さんは楽しそうに笑って続ける。
「あとで蓮にインスタで宣伝してもらうから。その方が儲かるわ」
ぱちん、とウィンク。
そのやりとりを聞いていたのか、近くにいたアシスタントの女の子が、ためらいがちに口を開いた。
「……蓮って、もしかして……佐伯蓮、ですか?」
一瞬、空気が止まる。
「そうよ」
愛梨さんは即答した。
「この子、佐伯蓮の彼女。可愛いでしょ?」
次の瞬間、周囲がざわっと揺れた。
「えっ……!?」
「あの週刊誌に出てた……」
「年上彼女って、この人……?」
視線が一斉に集まって、思わず俯く。
すると、愛梨さんがすっと近づいて、私の耳元で囁いた。
「大丈夫」
「ここ、芸能人の子も普通に来るし、みんな慣れてる」
「変に縮こまらないで。堂々としてなさい」
その一言で、背中に入っていた力が少し抜けた。
顔を上げると、鏡の中の私は、昨日より少しだけ強そうに見えた。
控えめなゴールドのロゴで刻まれた muse の文字が、昼の光を受けて静かに輝いていた。
自動ドアが開いた瞬間、空気が変わる。 ほのかに甘く、清潔感のある香り。
ヒールの音、ドライヤーの低い風音、スタッフ同士の短い確認の声——すべてが心地よいリズムで流れている。
足を踏み入れた私たちに気づくと、数人のスタッフが一斉に顔を上げた。
「あ、オーナー。お疲れ様です」
「おはようございます」
揃った声に、思わず背筋が伸びる。
愛梨さんは軽く手を上げるだけで、 「おはよう。空席、少しだけ使うわね」 と短く告げる。
「了解です。こちら空いてます」
すぐに一席が整えられる。
無駄な動きは一切なく、全員が“次に何をすべきか”を分かっている空気だった。
「まどかちゃん、ここ座って」
促されて腰を下ろすと、鏡越しにサロン全体が見える。
天井は高く、自然光がたっぷり入る設計。
床は大理石調で、白とゴールドを基調にした内装は洗練されているのに、どこか温かい。
椅子やワゴン、道具類に至るまで、すべてが丁寧に手入れされているのが分かった。
(……すごい)
思わず息をのむ。
(愛梨さん、こんな場所を……)
テレビで見る“成功した人”の世界が、急に現実のものとして目の前に広がった気がした。
スタッフの一人が私の顔をちらりと確認し、声を落として愛梨さんに耳打ちする。
「……髪、無理やり切られた感じですか」
「ええ。だから今日はケア重視で私がやるわ」
愛梨さんはそう答えて、私の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫。今日はね、外に出られる顔と気持ちにしてあげる」
愛梨さんは迷いのない手つきでケープをかけ、カウンターからハサミを取った。
その金属音が、きん、と耳に響いた瞬間——
脳裏に、あの瞬間がよぎる。
ハサミが振り下ろされた感触。
息が詰まり、心臓が跳ね上がる。
どくん、どくん、と鼓動が早まるのが自分でも分かった。
「……大丈夫?」
愛梨さんが、すぐに気づいて声を落とす。
「顔色、ちょっと悪いわよ。気分悪くなったら、すぐ言って」
「……大丈夫です」
深く息を吸って、ゆっくり吐く。
「お願いします」
ハサミが、髪に入る。
でもそれは——
あのときの、乱暴で冷たい感触とはまるで違った。
一定のリズムで、軽やかに。
引っ張られることもなく、痛みもない。
指先が髪をすくい、整えながら、優しく形を作っていく。
少しずつ、胸の奥のこわばりがほどけていった。
「だいぶ短くなるけど……」
愛梨さんが鏡越しに笑う。
「ちゃんと似合うようにするから、任せなさい」
カットが終わり、シャンプー台へ移動する。
温かいお湯と、心地いい指の動きに、自然と肩の力が抜けた。
ブローされ、最後に軽くスタイリングされて——
鏡に映ったのは、見慣れない自分だった。
顎のラインがすっきりして、目元がはっきりしている。
ショートヘアの、少し幼くなった自分。
「……どう?」
一瞬、言葉が出なかった。
「……すごい」
やっと、そう呟く。
「ありがとうございます……」
「でしょ?」
愛梨さんは満足そうに頷いた。
「まどかちゃん、ショートも似合うのよ。ほんと、可愛い」
ケープを外され、肩に落ちる軽くなった髪に触れながら、私は小さく息を吐いた。
レジに向かおうとすると、愛梨さんがひらりと手を振る。
「あ、お金はいいのよ」
「え……そんなわけには……」
「その代わりね」
愛梨さんは楽しそうに笑って続ける。
「あとで蓮にインスタで宣伝してもらうから。その方が儲かるわ」
ぱちん、とウィンク。
そのやりとりを聞いていたのか、近くにいたアシスタントの女の子が、ためらいがちに口を開いた。
「……蓮って、もしかして……佐伯蓮、ですか?」
一瞬、空気が止まる。
「そうよ」
愛梨さんは即答した。
「この子、佐伯蓮の彼女。可愛いでしょ?」
次の瞬間、周囲がざわっと揺れた。
「えっ……!?」
「あの週刊誌に出てた……」
「年上彼女って、この人……?」
視線が一斉に集まって、思わず俯く。
すると、愛梨さんがすっと近づいて、私の耳元で囁いた。
「大丈夫」
「ここ、芸能人の子も普通に来るし、みんな慣れてる」
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顔を上げると、鏡の中の私は、昨日より少しだけ強そうに見えた。
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