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奴隷姫の奏でるbig willie blues 3
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しまった。
それが海面に飛び込んだ後のテダーの一番にでた感想だった。
見えない。
なにも聞こえない。
何より、方向性がないのだ。
どちらが上か下かもわからない。
ただ、甲板からそれほど離れた位置に飛び込んだわけではなかったから、船の推進する海流の流れから多少わかる程度のものだ。
どうする?
先に飛び込んだルシールの姿はまるで見えない。
こっちだろうと思う方向に泳いでみたが、上から数体の怪物が降ってきてそれも阻害されてしまった。
このままでは怪物に呑みこまれた老紳士のように肉塊になるか、水死体になるか運が良ければどこかの岸辺にたどり着けるかもしれない。
いや、そんなことよりもまず怪物から逃れる術が必要だ。
海中では彼らの方が明らかに有利だと思われた。
いやまてよ?
その前に空気だ、息苦しくて仕方ない!
「っはあ!」
あまりにも皮肉なことに、女怪物たちの身体から発せられる光が海面を微妙な角度で知らせてくれた。
つまり、深くは潜れてなかったことになる。
むしろ、数メートル下の海面に落ち方が悪かった為、背中から打ち付ける形になり息苦しかった。
「これじゃ飛び込んだ意味がないな」
じゃあ、と息を大きく吸い込み、さきほどの女怪物たちがアリシアと戯れているのかもしれない、海面を騒がせている方へと潜水した。
(なんだ、これ…‥)
海中が暗いのは当たり前だ。
数メートルも潜れば日光だって届かないところもある。
これだけまるで海鳥がイワシの群れに群がるような事態になっているのに、海中は昼間のように明るかった。
水面に人工の物ではない光を発する列が七~八列、一定の幅を持って……。
確かにそれは光の回廊のようも見えた。
船の船体すらも照らし出すほどの光量を発しながらその列はテダーがいる場所も含めて流れて行く。
いや、それは間違いだとテダーは気づいた。
前方に流れているのではない。
光源ははるか海中、下方にありそこから海面に向けて収束された光が発せられているのだ。
その光源と女怪物たちとの中間にルシールがいて、テダーは一番、海面に近い場所にいる。
まるでそれは暗闇の深淵を覗き込んだ欲深い人間が、闇の主たる光を放つ何者かに捕らえていくような。
いや、違う。
悪意あるような光景ではない。
神秘的、と言い換えるべきだ。
光は怪しさという表現で言葉にするには闇の中を走る数陣の神の馬車が走る道のようだ。
荘厳な環境とそれに反するような不気味な何かがせり上がってくるような凄まじい大音量が海中に響き渡る。
そしてそれに向かって背中から落ちていくルシールはまさしく、奴隷姫、そう呼んでいいような美しさだった。
(ああ……)
美しい。
あの夜、ガス灯のあかりとともにガラス越しで見た横顔よりも、あの朝、港でみたショール越しの顔よりも。
何よりも美しい存在がそこにいた。
海中なんて滅多に入らない特殊な環境がそう思わせたのかもしれない。
いい女だ。
モノにしたい。
だが、いくら海中に潜ろうとあがいても女怪物たちの巻き起こす波の強さに押し戻されまったく進まない。
どうする、もう息苦しい。
そういえば、なんであいつらはあれ以上下に行かないんだ?
ルシールと女怪物たちは一定の距離を保って落ちていく。
いや、違う。
海中に沈んでいたのは途中までで、いまはルシールが浮上してきている。
女怪物たちはなんとか『ルシールの背後にいる何か』から逃れようとして必死にもがいているのだ。
まずい。
このままでは自分まで巻き添えをくらうではないか。
ここはこの怪物たちが巻き起こす波に逆らわず、なるべく遠くへと逃げたほうが賢い。
そう判断してテダーは、海面へと、なるべく遠くへと浮上できるように。
まあ、そんなことをしなくても、海中から浮上してきている何かのせいで押上げられるのだが。
「っはあ……」
「出てきた!」
甲板からバルダックの声が降ってきた。
「おい、ルガー!
やっぱ無理だって!
さっさと上がって来い」
ついでに縄梯子が落ちてよく。
タイミングいいもんだな。
そう思いながら、海中から浮上してくる何かに気を取られつつも縄梯子に片方の肘を絡ませて固定する。
あの蒸気機関車の動く音を鈍くしたような。
あの定期的にゴォンゴォンと唸るような重い何かが放つあの音はなんなんだ。
まるで心の奥底に眠る何かを呼び覚ますようなうなり声はどこから来た?
「ルガー!
早く上がって来い!!!!」
普段は声を荒げることがないバルダックが腹の底から叫んでいた。
その声にテダーは救われることになる。
はっと思考から我に帰り、船体を縄梯子を伝って登り終えそうになってきた時だ。
バルダックがテダーより大きい掌を出してきて、無理矢理テダーの腕掴むと甲板に引き上げた。
その時だ。
ドンッ!
海中よりはるかに勢いよく、威勢のよい大音量が辺りに響き渡る。
その浮上の勢いは、浮き上がってきた正体が何なのかをテダーを含む甲板にいた全員に知らしめた。
「なんだありゃ!?」
テダーもバルダックも同時に叫ぶ。
それは余り物勢いに船のマスト付近まで浮上し、そして勢いよく海中に再び沈んで再度海上に姿を現した。
凄まじい余波は高波となり船体にぶち当たり、テダーはあと少し海中にいたらどうなるかと思う程に勢いよく船体を揺らした。
同時に数体の女怪物たちもそれと共に空中に放り出され、勢いよく海中に落下していく。
「神……か?」
バルダックが呟いた。
まるでパルテノン神殿に安置されていたと言われるゼウス神像のように白磁のような艶のある白い肌、光源はその背に背負う円形の物体に均等に配置されたサーチライトのようなものだった。
神像と呼んでも遜色ないその巨人はルシールを左肩に据え置き、胸から上を海上に浮かせていた。
「神じゃないかもしれんが、あんなデカいもんがどうやって動いてるんだ?」
テダーが不思議そうにつぶやく。
いや、それよりも巨人と女怪物群の戦いの方が圧巻だった。
巨人はルシールの指揮する手振りと声掛けに答え、女怪物の一つを右手でつかむとあっさりと握り潰した。
「あれを潰すのかよ。
何て力だ……」
ふと、横を見るといつの間に甲板に来たのか、激しく揺れる甲板でバランスを取りながらマクスウェルが薄気味悪く笑っている。
こいつ……。
なにを考えているんだ、この奴隷商人は……。
そうこうしている間に、六体程いた女怪物の大半は鉄と例のオイルのようなものをまき散らしながら水面に屑となって消えゆく。
勇敢? にも一匹が左腕を駆け上がりルシールを狙うが、彼女に届く寸前で巨人の一嚙みで今夜の巨人の為の貴重な夜食に姿を変えた。
事態が余りにも常軌を逸した流れで展開していくなかで、バルダックはいいぞ、そこだ!、などの巨人への声援を送っていたし、女怪物が姿を藻屑に変える度に奴隷商人は
「そうだ、そうだ、いいぞルシール。
もっと派手に戦え。
お前の価値を見せつけるんだ」
などど叫んでやまなかった。
休むと言っていたイエニーのミスターセオや彼の部下たちも、甲板に姿を現すと眼前で繰り広げられる光景に唖然とし、そして自分たちの仲間を殺した女怪物が巨人によって消えていくたびに自国の言葉で声援を送っていた。
相変わらず戦いの中で甲板は大きく揺らぎ、このままでは誰かが海中に放り出されてもおかしくないほどだったが、それは船がゆっくりと海上戦の現場から離れていくにつれてましになっていった。
「凄まじいものですな」
ミスターセオが気持ち悪い笑い声が絶えないマクスウェルに話しかける。
「そうだろう、そうだろう?
いいぞ、これでまた金が増えるんだ。
また私に金が来るんだ」
さすがにその台詞を耳にしてからは、憐みのような、怒りにも似たような視線を投げつけてミスターセオはマクスウェルに背を向けた。
部下たちに船内に戻るように指示を出したのだろう、甲板には生き残ったロカが二名ほど。
船内に退避できず、女怪物たちに食いつくされたり、片腕をもがれたりして呻く犠牲者が数名。
あとはマクスウェルと彼の従者である税理士風の男。
テダーとルガー。
そしてミスターセオだけとなった。
「すまない、落ちた仲間を探したい。
何か方法はないか?」
セオはまだ仲間が生きていると思っているらしい。
だが、最初に襲われた地点ははるか後方に位置しているし、いまも巨人が女怪物の最後の一匹と格闘している。
その余波による荒波もすさまじく、生存を確認することも難しいと思われた。
「すまん、いまはわからん……」
「そうか……」
セオもどこかでは理解していたのだろう。
両手を後方に向けて眼前で合わすと、静かに目を閉じて一礼した。
失った仲間への、彼らなりの弔いなのだろう。
そう思ったテダーも何気なくそれを真似し、片手を眼前に添えた。
それを見てセオのそれまで硬かった表情のない顔に、少しだけなんだろうか。
笑みではないが、感謝のような。
そんな表情が見てとれた。
多分、彼らは感情を大きく外面に出さないそんな、民族なのだろう。
テダーとバルダックはそう思った。
「ありがとう」
セオが二人に礼の言葉を口にした。
「あ、いや……」
テダーが戸惑うと、横合いからバルダックが手を差し出した。
「こちらこそ、ありがとう。
さっきの戦いの時は助かった。
あんたは勇敢な男だ。仲間の人達もな」
「そうだよ。
あんたの剣が無きゃ、もっと大勢が死んでいたはずだ。
ありがとう」
素直な感謝の言葉だった。
セオは初めて気恥ずかしそうな顔をした。
「つまらない技だ。
褒められるものではないのでな……」
それより、とセオは船尾へと移動していた巨人と女怪物の現場に視線を戻す。
「あのようなものは、我が国にはないものだ。
イギリスでは、いや、ここでは当たり前のものなのか?」
いや、とテダーは首を振る。
「俺たちも知らない。
あんなものは見たことも、聞いたこともない」
「そうだな。
だが」
と、バルダックが視線をやったのはマクスウェルだ。
「俺たちの雇い主は何かを知っているようだがな」
三人からの視線を受け、マクスウェルは初めてこちらに気づいたかのような顔をした。
「なかなか、良い光景だとは思いませんか?
また、私の会社は儲かることになります」
その言葉を聞いて、バルダックが動こうとする。
多分、セオが制止しなければ海に放り込まれるのはそこらにある女怪物の破片より、マクスウェル自身だっただろう。
「おい!!!」
なんで止めるんだ、そんな声をバルダックが上げる。
セオは静かに首を振った。
「一命を賭けるに等しい金子は頂いている。
ここで主に手をかけるは不義だ」
「だが……」
「バルダック殿。
我らはあのような怪物になってはならぬ。
我らは知性ある、ヒト、だ」
女怪物の首を指差してセオは言う。
それは仲間を失いつつも、金という対価を受け取った契約を守るべきだと。
それとともにこの状況を更に悪化させるべきではないという意味にも取れた。
「バル……。
この中で一番、犠牲者が多かったのはミスターセオとロカたちだ。
俺たちは生きていただけでも良かったと思うことにしようぜ?」
テダーは他者に聞こえないようにそっとバルダックに耳打ちする。
「アメリカにつけば裁くチャンスはあるさ」
それを聞いて、バルダックも矛を収めた。
場の雰囲気が和んだのを確認したかのように、税理士風の男が初めて口を開いた。
「今夜の働きについてはそれぞれ賃金をはずませて頂きます。
また、明日からは無いでしょう。
これだけの成果があれば、充分です」
マクスウェル商会が何を言ってるのか、それはそこにいた参加者には真意がまったくわからなかった。
何より、この残骸と被害者、負傷者をどうするのか……。
「なんだ……」
ロカの一人が下手な英語で何かを言う。
見ると、戦いは終わり、巨人は海面に姿を消していた。
海中から照らし出す光の列が船ではない方向、はるか後方へと流れていき一堂はそれで事態が終わったのかと思ったが違った。
「見ろ、光の列が」
船尾から見える光列は今度はこちらに向けて発せられていた。
巨人が緩やかに荒波を立てないように泳ぎながら、こちらに向かっている様だった。
「ば、ばけもんだ……」
ロカたちは明らかにおかしかった。
落ち着きのない、そう平常ではない人間のように見えた。
無理もない、あれほどの残虐な事態を目の前で当事者として被害を受けたのだ。
まだ、落ち着きを保てているテダーやルガー、ミスターセオの方が異常と言われてもおかしくなかった。
「まさか、こんどは俺たちを……」
ロカの生き残りは三人。
どれもまだ若く、10代のように見えた。
怯え切っていて、その場にいたくない。
そんな感じに見受けられた。
「おい、落ち着けって……」
テダーが声をかけてみるが、三人は床にへたり込んでしまい抱き合ってこちらを見ようとしない。
このままほっておくしかないか。
どうしてやればいいのかがわからなかった。
ほっておくのがいいのか。
船内に連れていき、看病してやるべきか。
だが、いまはそれよりも巨人の放つ光の列が船尾に近付いてきたことが見てとれてテダーの思考を中段させた。
船上から見る巨人はさきほどと同じく左肩にルシールと呼ばれた奴隷女を乗せ、右手に何かを掴んでいた。
それは最初何かわからなかったが、巨人が船においつき、静かにその右手を開いたとき明らかになった。
「ムラナカ、タカイシ!!!」
セオが目を見開いて、甲板にそっと置かれたイエニーの二人に駆け寄った。
そして、ルシールと呼ばれた奴隷女も巨人からゆっくりと甲板に降り立った。
「おお、ルシール!
ご苦労だった! よくやったぞ!!!」
マクスウェルが歓喜の声を上げた。
それは二人のイエニーを運んできたことにではなく、戦果を挙げたことによるものだったが、ルシールはそれでも主人に対して感謝を告げた。
「ありがとうございます。旦那様に誉めて頂き光栄でございます。
時間がかかり、申し訳ございません」
「ふん。
まあ、いいだろう。
戻るがいい」
主人たる風格をもって大義そうに言い放つこの豚人間をその場にいた誰もが海中に放り込み、海の藻屑にしたいだろうと思わせる態度だった。
だが、ルシールはそれでも頭を下げ、
「ありがとうございます。旦那様」
と、あくまで使用人としての分を弁えていた。
巨人は静かに海中にその身を沈めて姿を消し、辺りは彼が放っていた光も薄くなりつつあった。
ルシールは甲板を移動するとセオに近寄り、二人の現状を告げた。
「大丈夫、まだ生きています。
意識を失っているだけ」
それを聞いて、イエニーの男は初めて感情といえる感情を露わにした。
甲板に座り込み、深々と頭を下げる。
「すまぬ……まことにかたじけない……」
光があれば見えたであろう涙の端を滴らせ、彼は声をうわずらせて感謝を述べた。
「いいえ、彼らが強かったのです。
ありがとうございます」
何に対するありがとうなのか、それはテダーにはわからなかった。
数人のマクスウェル商会の使用人たちが消えていた光を甲板の闇の中に灯し始めた。
「良かったな」
バルダックがセオに声をかけ、倒れているイエニーの一人を抱え上げる。
「ああ、すまぬ」
セオもまた、もう一人を抱えようとして顔を上げた。
「お?」
セオが視界の端に何かを見つけたように顔色を変え、座した姿勢から勢いよくルシールの眼前に飛び出した。
三回。
乾いた音が辺りに響いた。
「どけよ…」
先ほどのロカの一人が拳銃を両手に握りしめ、ルシールに向けて発砲したのだった。
「セオー!?」
バルダックが抱えた男を甲板に起き走る。
だが、それよりも残弾を打とうとするロカの若者の方が早かった。
テダーは拳銃を持っていないことを後悔した。
バルダックと変わらぬタイミングでロカの若者に駆け寄るが間に合わない。
三発のうち数発を受けたであろうセオの身体は崩れ落ち、ルシールを守る者は誰も間に合わない。
マクスウェルは甲板から船内に戻ろうとするその一歩手前で射撃音を聞き、後ろを振り返り凍りついていた。
税理士風の男もまた何もできないまま、その場に立ち尽くしていた。
「魔女……。
この魔女のせいで……!!!」
ロカの青年が叫び、銃口からは発せられた弾がルシールを貫いた。
か、の様に思えた。
だが。
鈍い何かを切り裂くように銀光が閃いた。
残り発砲された二発の弾丸はルシールの前、一度は体を崩したセオの剣先により両断され甲板のどこかに飛び散った。
一瞬の光景だった。
セオは体を崩したものの、ロカの青年が再び発砲するのを見るやその軌道を叩き切っていた。
ついで、方膝をついた状態から駆け出すとロカの青年に余りにも凄まじい駿足で駆け寄ると、刀を片手に持ち替え、それをロカの青年の両手で握りしめられた腕の合間にテコのように柄を突き入れ、どこから出したのかと思うような気合いの声とともに甲板に叩きつけた。
「はやく!
残りの二人を!」
セオはそれ以上は動けないようだった。
彼の声に止まっていた時間が動きを取り戻し、周囲の人間が取るべきこうどうにはしった。
使用人たちとテダーが残り二人を抑えつける。
セオの一連の動きはまさに、鬼神の如き働きだった。
「セオ……」
バルダックがセオが抑えつけていたロカを代わりに体重を持って抑えつける。
ロカの青年は甲板に叩きつけられた衝撃で気絶していた。
「大丈夫だ……」
弾は彼の胴体には当たっていなかった。
左肩を貫通し、それ以外はルシールの方向にもいかなかった。
「彼が射撃が下手で良かった……」
痛みを誤魔化すようにセオが苦笑いをする。
「まったく、あんたなんて奴だよ!
悪運まで最高だぜ!」
この時、甲板でセオの働きを見て今後、彼に喧嘩を売ろうと思うものはいなくなった。
ついでに、あまりにも凄まじい剣気と気合に満ちた行動は周りのものたちに何がしかの勇気を与えた。
この凄惨な殺戮の夜に、ようやく落ち着ける瞬間が訪れたときでもあった。
「あの方は……?」
セオがルシールの方を見る。
銃口を向けられ、発砲を受けてさすがに彼女の顔からも血の気が引いていた。
そこに立っていられたというだけ、まだロカの青年よりは気丈だったというべきか。
「大丈夫、のようだが、な……」
バルダックがどうだろうな、とルシールの方に声をかける。
「あんた、どうなんだ?
大丈夫なのか?」
彼女が答えるより早くマクスウェルの悲鳴が辺りに響いていた。
「ルシール! ルシール! ルシール!
私の宝が、私の未来がー!!!」
それは全て儲けという言葉を含んでいるんだろう、そうその場にいた人間は思ったに違いない。
豚人間でも走れるんだな。
テダーがあきれるほどの速さで、マクスウェルは奴隷に駆け寄った。
税理士風の男も後に続き、彼女の無事を確認すると二人は安堵したかのように奴隷姫を連れて甲板を降りようとした。
「待ってください、旦那様」
「なんだ、どこか痛いのか?」
いえ、とルシールは目を伏せて顔を横に振る。
「ならなんだ?」
マクスウェルはまったくわからないという顔をする。
早くこの場を去らなくては。
そんな風に見てとれた。
「あの方にお礼を……。
お願い致します」
「んー?」
まるで、いたのか、というようにセオに視線を投げやるマクスウェルは、まあいいだろう、と手ぶりで示した。
許可を受けて、ルシールはマストの一つに背を預けて座り込み、バルダックに手伝ってもらって左肩の傷口を手当てしているセオに駆け寄る。
「あの…‥」
「ああ、其方。
良かった。無事でしたか」
本当に良かったと、そんな笑顔でセオは答える。
自分の傷のことなどどうでもいい、という風情だった。
本当に爽やかな男だな、とバルダックは思った。
これなら、あの海に落ちた二人も、女怪物との戦闘中に彼の指示を受けて躊躇なく怪物の腹下に潜り込んだ二人の剣士も彼に従うわけだ。
よくよく見ると、セオの髪は後ろでまとめていたのがほどけてしまい、天然ようなカールのひどい恰好になってしまっていた。
癖の強い髪なんだな。
後から何かまとめるものを、マクスウェルの豚野郎に用意させようとバルダックは思った。
「ありがとうございました。なんとお礼を……」
ルシールは懇願するように言う。
セオは笑顔で首を振った。
「あの二人。
彼らを救って頂いた。
あなたには大きな借りができてしまった。
それの破片をお返ししただけです」
あれだけの働きをしてなお、このセオという男はカケラという言葉を使う。
どれほど、義理などというものに厚い民族なのだろうとテダーとバルダックは思った。
「本当に……」
まだ続けようとするルシールだが、マクスウェルの使用人がその肩を叩いた。
戻れという主人の合図だった。
瞳を伏せ、軽く会釈するとルシールはマクスウェルとともに船内に姿を消した。
数時間後。
夜明けも近い時間になり、ようやく霧も晴れつつあった。
テダーとバルダック、そしてセオと彼の仲間の六人。
二人は船内で休ませているようだ。
計八人は甲板で、女怪物の残骸を片付けたり、かつて人であったモノの肉塊を移動したり、死体をまとめる作業にマクスウェルの使用人たちと追われていた。
ロカの三人は縛り上げられ、翌朝に護衛の軍艦に罪人として渡される予定でマストに繋がれていた。
ようやく作業が一段落し、そこらに転がっていた酒瓶をいくつか集めて、彼らは弔いというなの酒宴を行っていた。
とはいっても大した量がなかったため、テダーが密やかに船倉の酒蔵から数本のワインだのテキーラだのをがめてきたことは秘密だったが…。
「動きのか、その腕?」
バルダックが瓶ごと酒を呷りながらセオに問う。
セオは傷口にウォッカを注ぎ消毒すると、問題ないと答えた。
「故国ではこんな戦いは日常茶飯事だった」
「イイさぁ……」
イエニーの一人が口を挟む。
「国で戦争があったのか?」
テダーがイエニーの一人が発した単語の意味がわからず問いかける。
セオは仲間をきつく一瞥した。
「すんもはん……」
部下は発音の変な彼の故国の言葉だろう。
謝罪したようだった。
「もう何年も前のことだ。
気にしないでくれ」
そうか、とテダーは告げる。
陽光が差してくるにつれ、バルダックはセオの額に大きな古傷があることに気づいたが、それも彼の勲章なのだろう。そう思ってそれには触れなかった。
「しかし、摩訶不思議なことばかりだ。
この航海が始まって初めてのことだが……」
セオは続ける。
「護衛はどこにいたんだろうな、か?」
テダーが先に言葉にした。
バルダックもうなづく。
「あの、巨人ってのか?
あいつの光が周囲を照らしても、船影はどこにも見当たらなかった。
一隻もだ」
「そうだ。
まるで、何かを試しているかのように消えたな。三隻とも」
だがー、とテダーは言う。
「戻ってくる、そうだな」
「そうだ」
セオとバルダックが頷く。
「もし、三隻が無傷で戻ってきたなら。いや、並走していた形を取り続けるなら」
バルダックが続ける。
「俺たちは、大きな駒なのかもな。
海上っていう名の大きなチェス盤のさ」
テダーが言う。
「生き残れるか?」
イエニーの一人が言った。
八人、それは誰にもわからなかった。
ただ、今夜のことが翌日も、これから入港までずっと続くなら生存する確率は低いだろう。
それだけは、全員が一致する見解だった。
「どうする?」
バルダックが言う。
「そうだな……。
多分、だが。
可能性は幾つかある。手段もな。
1つは、罪人となって軍艦に移ることだ。なに、容疑はなんでもいい。
酒泥棒でもな」
テダーにむかって意地悪気にバルダックが言った。
「なっ……。
それを言うなら、全員、同罪だろ?」
「間違いないな」
一堂に笑いが起こる。
「だが、そうなると船内の二人。
そして、あのお嬢さんを残して行くことになる」
バルダックの問いに、イエニーは全員が首を振った。
「それは出来ぬ。
恩を仇で返すことになる」
「そうだ。
我らは恥知らずではない」
セオとその他数人が叫ぶように言った。
「それは俺もバルダックも同じだよ。
何より、あんなん見てしまったら今更、去ることなんてできないしな。
もう金を貰ってしまっている」
「そうだな……」
それから朝が来るまで彼らは可能性について意見を飛ばした。
「入港まではあと数日のはずなんだ。
というか、今日明日でもおかしくない。
予定ではそうだったはずだ」
テダーが思い出したように言う。
「そうだな。
となると、最低、今夜をどう乗り切るか、だな」
素手や拳銃じゃあなあ、とバルダックが言う。
「我らも、銃を扱えないわけではない。
ただ……。故郷で使っていたものと数段変わっているのでな。
扱いと練習する時間が少しあればそれは可能だ」
セオが言う。
「武器がいるな。
この船倉には大量の武器を運んだしなあ……」
ロカの数人が落として割れた木箱の中身がこんな時に役立つとは、とテダーは皮肉気に笑った。
「なあ、それはいいんだが。
最初、俺たち聞いたよな。奴隷商人マクスウェル、ってさ」
バルダックが不思議なことを言い出す。
「それが何か?」
セオが不思議そうに聞いた。
「出港の時に朝早くから集まったんだ。それ以前から、船内にいたってことか?」
「だから、何がだ?」
セオは合点がいかないという顔をする。
「運び込んだのは大半が、武器と弾薬の木箱だったと思う。
船倉には限りがあるし、客船でもないから人がいられる場所も限られてるはずだ。
だが、船室には大半が昨日死んだ連中、商人や娼婦やらがいた。
じゃあ、本当の商品はどこにいる?
まさかあの、お嬢さん一人ってことはないだろう?」
バルダックがテダーを見る。
「なあ、思い出したか?
あのお嬢さんを初めて見た朝のこと。
あの船には少なくとも、百人近い奴隷がいたよな?」
あ、とテダーははっとなる。
確かに、奴隷用の出入り口から降りてきた人数は多かった。
「つまり何か?
この船にはまだわれらが知らない場所があり、そこに奴隷たちがいると?」
セオがテダーの考えを代弁した。
「だけど、そんな場所。
どこにあるんだ?」
バルダックが親指で海面を差す。
「下?」
「違う、ルガー。
軍艦だ」
「軍艦?
だが、あっちには貴族様がいるはずだろ?」
「ああ、そしてそれだけじゃないと思うぜ」
「昨夜の怪物、か」
イエニーの一人が言う。
「そうだ」
バルダックが返事を返した。
「あの三隻。
一隻は軍艦かもしれん。
だが、残り二隻のうち一隻からはこの数週間の間に、何回も食糧や水の補給を貰った。
それは俺らも手伝ったからわかるはずだ」
「なるほど。
つまり、肝心な商品は別の船に載せて、この船は囮、と?」
イエニーの一人が問う。
「いや、それは違うな」
セオが否定した。
「囮なら、マクスウェル殿やお嬢さんが乗る意味がない。
それに昨夜を思い出してみろ。
彼は、あれだけ我らを手こずらせた怪物を怖がってなかった」
「そうだ。
何より、金になると喜んでたな……」
テダーが海中に飛び込んだ後の会話をセオとバルダックが思い返してみる。
「どういうことだ?
仮にあの巨人とお嬢さん、ルシールさんといったか。
彼女を商品として戦闘で価値を確認するとしても、それならば我らは必要ないはずだ……」
セオがまったく意味がわからないという顔をする。
「まるで、ロンドンで噂の私立探偵が扱うような話になってきたな……」
シャーロック・ホームズだったか?
新聞にその事件譚が載るたびに世間は沸き立っていた。
だが、いまテダーたちが直面している事態も変わらない奇妙な状況のように、テダーは思った。
「ホームズがいれば難事件も解決なんだろうが……」
バルダックが嫌味気に言う。
彼は名探偵という異名を持つあの奇人をあまり好きではなかった。
たまに、ポーターに身を扮して事件の匂いを嗅いでいるあの男を。
「そのような御仁がいるのならば、是非、この奇妙な事態を解明して頂きたいが生憎、いまはいないようだな」
セオも皮肉気に言う。
イエニーたちも興味はあるが、いまはいないことを残念に思ったのか頭を振った。
「まあいい。
それよりも、これからどうするかだ」
バルダックが空になった瓶を海に向かって放り投げた。
「そうだな。
だけど、俺たちはマクスウェルの言い分から考えるとあの怪物の襲撃は予測できてたことになる。
ルシールさんの実力だけでは足りない可能性があるから、護衛として雇われた可能性もある。
なんにせよ、今夜は船内にいるのが賢いな。
その前に、武器がいる」
「その必要はありませんよ」
いきなり後方からかけられた声に全員が振り返った。
そこには税理士風の男がいた。
「怪物のことなど、まあお忘れ頂きたい。
皆さんには、それなりの報酬をお支払いしているはず。
ここで見たことは、お酒でも飲んでお忘れ頂くのが良いかと存じます」
「忘れるのはかまわんさ。
だが、武器はいるだろ?
今夜、もし、またあいつらが来たらどうするつもりだ?」
バルダックがきつめの口調で言う。
「ですから、その心配はありませんよ。
今夜は陸上ですから。
ほら、離れていた方々も集まって来られました」
見ると、税理士風の男が指差す方に三隻の軍艦が現れた。
「良いですね、皆さん?
昨夜のことはお忘れください。
皆さんにはあと数日、上陸し、移動する間の護衛をして頂ければ結構。
いや、観光でもする気分でいて下さっても結構です。
護衛は、アメリカ連合国陸軍が行いますのでね……」
どこまでも読めない深い闇を背負ったような、深みのある声で税理士風の男が言い終わり去った後、テダーたちはどうしようもない、という結論に達した。
まずは、生き残るようにしようと。
軍艦と合流し、怪我人たちと罪人のロカの青年三人、この船に残りたくないと叫ぶ乗客たちを軍艦は引き受けると、そのまま昼には目的地である港に入港した。
奇妙なことに、テダーたちは港町の中にあるマクスウェルの手配したホテルで一泊するように部屋をあてがわれた。
商船の積み荷の多くを占めていた木箱は、連合国陸軍を名乗る兵士たちによって運びだされ、その多くは馬車に摘まれて消えていった。
マクスウェルと税理士風の男、ルシールと使用人たちは商会が所有する館へと移動したようでその夜は会うことはなかった。
そして、一つの疑問が消えることがあった。
バルダックとセオの予想通り、百人を越える黒人や中東風の奴隷たちが軍艦二隻から吐き出されるように出てきた。ただ、彼らの多くは馬車も何も移動手段がないのに、いつのまにか港の船着き場から消えてしまった。
テダーたちだけが、それを異様だと感じたまま、翌朝を迎えることになった。
それが海面に飛び込んだ後のテダーの一番にでた感想だった。
見えない。
なにも聞こえない。
何より、方向性がないのだ。
どちらが上か下かもわからない。
ただ、甲板からそれほど離れた位置に飛び込んだわけではなかったから、船の推進する海流の流れから多少わかる程度のものだ。
どうする?
先に飛び込んだルシールの姿はまるで見えない。
こっちだろうと思う方向に泳いでみたが、上から数体の怪物が降ってきてそれも阻害されてしまった。
このままでは怪物に呑みこまれた老紳士のように肉塊になるか、水死体になるか運が良ければどこかの岸辺にたどり着けるかもしれない。
いや、そんなことよりもまず怪物から逃れる術が必要だ。
海中では彼らの方が明らかに有利だと思われた。
いやまてよ?
その前に空気だ、息苦しくて仕方ない!
「っはあ!」
あまりにも皮肉なことに、女怪物たちの身体から発せられる光が海面を微妙な角度で知らせてくれた。
つまり、深くは潜れてなかったことになる。
むしろ、数メートル下の海面に落ち方が悪かった為、背中から打ち付ける形になり息苦しかった。
「これじゃ飛び込んだ意味がないな」
じゃあ、と息を大きく吸い込み、さきほどの女怪物たちがアリシアと戯れているのかもしれない、海面を騒がせている方へと潜水した。
(なんだ、これ…‥)
海中が暗いのは当たり前だ。
数メートルも潜れば日光だって届かないところもある。
これだけまるで海鳥がイワシの群れに群がるような事態になっているのに、海中は昼間のように明るかった。
水面に人工の物ではない光を発する列が七~八列、一定の幅を持って……。
確かにそれは光の回廊のようも見えた。
船の船体すらも照らし出すほどの光量を発しながらその列はテダーがいる場所も含めて流れて行く。
いや、それは間違いだとテダーは気づいた。
前方に流れているのではない。
光源ははるか海中、下方にありそこから海面に向けて収束された光が発せられているのだ。
その光源と女怪物たちとの中間にルシールがいて、テダーは一番、海面に近い場所にいる。
まるでそれは暗闇の深淵を覗き込んだ欲深い人間が、闇の主たる光を放つ何者かに捕らえていくような。
いや、違う。
悪意あるような光景ではない。
神秘的、と言い換えるべきだ。
光は怪しさという表現で言葉にするには闇の中を走る数陣の神の馬車が走る道のようだ。
荘厳な環境とそれに反するような不気味な何かがせり上がってくるような凄まじい大音量が海中に響き渡る。
そしてそれに向かって背中から落ちていくルシールはまさしく、奴隷姫、そう呼んでいいような美しさだった。
(ああ……)
美しい。
あの夜、ガス灯のあかりとともにガラス越しで見た横顔よりも、あの朝、港でみたショール越しの顔よりも。
何よりも美しい存在がそこにいた。
海中なんて滅多に入らない特殊な環境がそう思わせたのかもしれない。
いい女だ。
モノにしたい。
だが、いくら海中に潜ろうとあがいても女怪物たちの巻き起こす波の強さに押し戻されまったく進まない。
どうする、もう息苦しい。
そういえば、なんであいつらはあれ以上下に行かないんだ?
ルシールと女怪物たちは一定の距離を保って落ちていく。
いや、違う。
海中に沈んでいたのは途中までで、いまはルシールが浮上してきている。
女怪物たちはなんとか『ルシールの背後にいる何か』から逃れようとして必死にもがいているのだ。
まずい。
このままでは自分まで巻き添えをくらうではないか。
ここはこの怪物たちが巻き起こす波に逆らわず、なるべく遠くへと逃げたほうが賢い。
そう判断してテダーは、海面へと、なるべく遠くへと浮上できるように。
まあ、そんなことをしなくても、海中から浮上してきている何かのせいで押上げられるのだが。
「っはあ……」
「出てきた!」
甲板からバルダックの声が降ってきた。
「おい、ルガー!
やっぱ無理だって!
さっさと上がって来い」
ついでに縄梯子が落ちてよく。
タイミングいいもんだな。
そう思いながら、海中から浮上してくる何かに気を取られつつも縄梯子に片方の肘を絡ませて固定する。
あの蒸気機関車の動く音を鈍くしたような。
あの定期的にゴォンゴォンと唸るような重い何かが放つあの音はなんなんだ。
まるで心の奥底に眠る何かを呼び覚ますようなうなり声はどこから来た?
「ルガー!
早く上がって来い!!!!」
普段は声を荒げることがないバルダックが腹の底から叫んでいた。
その声にテダーは救われることになる。
はっと思考から我に帰り、船体を縄梯子を伝って登り終えそうになってきた時だ。
バルダックがテダーより大きい掌を出してきて、無理矢理テダーの腕掴むと甲板に引き上げた。
その時だ。
ドンッ!
海中よりはるかに勢いよく、威勢のよい大音量が辺りに響き渡る。
その浮上の勢いは、浮き上がってきた正体が何なのかをテダーを含む甲板にいた全員に知らしめた。
「なんだありゃ!?」
テダーもバルダックも同時に叫ぶ。
それは余り物勢いに船のマスト付近まで浮上し、そして勢いよく海中に再び沈んで再度海上に姿を現した。
凄まじい余波は高波となり船体にぶち当たり、テダーはあと少し海中にいたらどうなるかと思う程に勢いよく船体を揺らした。
同時に数体の女怪物たちもそれと共に空中に放り出され、勢いよく海中に落下していく。
「神……か?」
バルダックが呟いた。
まるでパルテノン神殿に安置されていたと言われるゼウス神像のように白磁のような艶のある白い肌、光源はその背に背負う円形の物体に均等に配置されたサーチライトのようなものだった。
神像と呼んでも遜色ないその巨人はルシールを左肩に据え置き、胸から上を海上に浮かせていた。
「神じゃないかもしれんが、あんなデカいもんがどうやって動いてるんだ?」
テダーが不思議そうにつぶやく。
いや、それよりも巨人と女怪物群の戦いの方が圧巻だった。
巨人はルシールの指揮する手振りと声掛けに答え、女怪物の一つを右手でつかむとあっさりと握り潰した。
「あれを潰すのかよ。
何て力だ……」
ふと、横を見るといつの間に甲板に来たのか、激しく揺れる甲板でバランスを取りながらマクスウェルが薄気味悪く笑っている。
こいつ……。
なにを考えているんだ、この奴隷商人は……。
そうこうしている間に、六体程いた女怪物の大半は鉄と例のオイルのようなものをまき散らしながら水面に屑となって消えゆく。
勇敢? にも一匹が左腕を駆け上がりルシールを狙うが、彼女に届く寸前で巨人の一嚙みで今夜の巨人の為の貴重な夜食に姿を変えた。
事態が余りにも常軌を逸した流れで展開していくなかで、バルダックはいいぞ、そこだ!、などの巨人への声援を送っていたし、女怪物が姿を藻屑に変える度に奴隷商人は
「そうだ、そうだ、いいぞルシール。
もっと派手に戦え。
お前の価値を見せつけるんだ」
などど叫んでやまなかった。
休むと言っていたイエニーのミスターセオや彼の部下たちも、甲板に姿を現すと眼前で繰り広げられる光景に唖然とし、そして自分たちの仲間を殺した女怪物が巨人によって消えていくたびに自国の言葉で声援を送っていた。
相変わらず戦いの中で甲板は大きく揺らぎ、このままでは誰かが海中に放り出されてもおかしくないほどだったが、それは船がゆっくりと海上戦の現場から離れていくにつれてましになっていった。
「凄まじいものですな」
ミスターセオが気持ち悪い笑い声が絶えないマクスウェルに話しかける。
「そうだろう、そうだろう?
いいぞ、これでまた金が増えるんだ。
また私に金が来るんだ」
さすがにその台詞を耳にしてからは、憐みのような、怒りにも似たような視線を投げつけてミスターセオはマクスウェルに背を向けた。
部下たちに船内に戻るように指示を出したのだろう、甲板には生き残ったロカが二名ほど。
船内に退避できず、女怪物たちに食いつくされたり、片腕をもがれたりして呻く犠牲者が数名。
あとはマクスウェルと彼の従者である税理士風の男。
テダーとルガー。
そしてミスターセオだけとなった。
「すまない、落ちた仲間を探したい。
何か方法はないか?」
セオはまだ仲間が生きていると思っているらしい。
だが、最初に襲われた地点ははるか後方に位置しているし、いまも巨人が女怪物の最後の一匹と格闘している。
その余波による荒波もすさまじく、生存を確認することも難しいと思われた。
「すまん、いまはわからん……」
「そうか……」
セオもどこかでは理解していたのだろう。
両手を後方に向けて眼前で合わすと、静かに目を閉じて一礼した。
失った仲間への、彼らなりの弔いなのだろう。
そう思ったテダーも何気なくそれを真似し、片手を眼前に添えた。
それを見てセオのそれまで硬かった表情のない顔に、少しだけなんだろうか。
笑みではないが、感謝のような。
そんな表情が見てとれた。
多分、彼らは感情を大きく外面に出さないそんな、民族なのだろう。
テダーとバルダックはそう思った。
「ありがとう」
セオが二人に礼の言葉を口にした。
「あ、いや……」
テダーが戸惑うと、横合いからバルダックが手を差し出した。
「こちらこそ、ありがとう。
さっきの戦いの時は助かった。
あんたは勇敢な男だ。仲間の人達もな」
「そうだよ。
あんたの剣が無きゃ、もっと大勢が死んでいたはずだ。
ありがとう」
素直な感謝の言葉だった。
セオは初めて気恥ずかしそうな顔をした。
「つまらない技だ。
褒められるものではないのでな……」
それより、とセオは船尾へと移動していた巨人と女怪物の現場に視線を戻す。
「あのようなものは、我が国にはないものだ。
イギリスでは、いや、ここでは当たり前のものなのか?」
いや、とテダーは首を振る。
「俺たちも知らない。
あんなものは見たことも、聞いたこともない」
「そうだな。
だが」
と、バルダックが視線をやったのはマクスウェルだ。
「俺たちの雇い主は何かを知っているようだがな」
三人からの視線を受け、マクスウェルは初めてこちらに気づいたかのような顔をした。
「なかなか、良い光景だとは思いませんか?
また、私の会社は儲かることになります」
その言葉を聞いて、バルダックが動こうとする。
多分、セオが制止しなければ海に放り込まれるのはそこらにある女怪物の破片より、マクスウェル自身だっただろう。
「おい!!!」
なんで止めるんだ、そんな声をバルダックが上げる。
セオは静かに首を振った。
「一命を賭けるに等しい金子は頂いている。
ここで主に手をかけるは不義だ」
「だが……」
「バルダック殿。
我らはあのような怪物になってはならぬ。
我らは知性ある、ヒト、だ」
女怪物の首を指差してセオは言う。
それは仲間を失いつつも、金という対価を受け取った契約を守るべきだと。
それとともにこの状況を更に悪化させるべきではないという意味にも取れた。
「バル……。
この中で一番、犠牲者が多かったのはミスターセオとロカたちだ。
俺たちは生きていただけでも良かったと思うことにしようぜ?」
テダーは他者に聞こえないようにそっとバルダックに耳打ちする。
「アメリカにつけば裁くチャンスはあるさ」
それを聞いて、バルダックも矛を収めた。
場の雰囲気が和んだのを確認したかのように、税理士風の男が初めて口を開いた。
「今夜の働きについてはそれぞれ賃金をはずませて頂きます。
また、明日からは無いでしょう。
これだけの成果があれば、充分です」
マクスウェル商会が何を言ってるのか、それはそこにいた参加者には真意がまったくわからなかった。
何より、この残骸と被害者、負傷者をどうするのか……。
「なんだ……」
ロカの一人が下手な英語で何かを言う。
見ると、戦いは終わり、巨人は海面に姿を消していた。
海中から照らし出す光の列が船ではない方向、はるか後方へと流れていき一堂はそれで事態が終わったのかと思ったが違った。
「見ろ、光の列が」
船尾から見える光列は今度はこちらに向けて発せられていた。
巨人が緩やかに荒波を立てないように泳ぎながら、こちらに向かっている様だった。
「ば、ばけもんだ……」
ロカたちは明らかにおかしかった。
落ち着きのない、そう平常ではない人間のように見えた。
無理もない、あれほどの残虐な事態を目の前で当事者として被害を受けたのだ。
まだ、落ち着きを保てているテダーやルガー、ミスターセオの方が異常と言われてもおかしくなかった。
「まさか、こんどは俺たちを……」
ロカの生き残りは三人。
どれもまだ若く、10代のように見えた。
怯え切っていて、その場にいたくない。
そんな感じに見受けられた。
「おい、落ち着けって……」
テダーが声をかけてみるが、三人は床にへたり込んでしまい抱き合ってこちらを見ようとしない。
このままほっておくしかないか。
どうしてやればいいのかがわからなかった。
ほっておくのがいいのか。
船内に連れていき、看病してやるべきか。
だが、いまはそれよりも巨人の放つ光の列が船尾に近付いてきたことが見てとれてテダーの思考を中段させた。
船上から見る巨人はさきほどと同じく左肩にルシールと呼ばれた奴隷女を乗せ、右手に何かを掴んでいた。
それは最初何かわからなかったが、巨人が船においつき、静かにその右手を開いたとき明らかになった。
「ムラナカ、タカイシ!!!」
セオが目を見開いて、甲板にそっと置かれたイエニーの二人に駆け寄った。
そして、ルシールと呼ばれた奴隷女も巨人からゆっくりと甲板に降り立った。
「おお、ルシール!
ご苦労だった! よくやったぞ!!!」
マクスウェルが歓喜の声を上げた。
それは二人のイエニーを運んできたことにではなく、戦果を挙げたことによるものだったが、ルシールはそれでも主人に対して感謝を告げた。
「ありがとうございます。旦那様に誉めて頂き光栄でございます。
時間がかかり、申し訳ございません」
「ふん。
まあ、いいだろう。
戻るがいい」
主人たる風格をもって大義そうに言い放つこの豚人間をその場にいた誰もが海中に放り込み、海の藻屑にしたいだろうと思わせる態度だった。
だが、ルシールはそれでも頭を下げ、
「ありがとうございます。旦那様」
と、あくまで使用人としての分を弁えていた。
巨人は静かに海中にその身を沈めて姿を消し、辺りは彼が放っていた光も薄くなりつつあった。
ルシールは甲板を移動するとセオに近寄り、二人の現状を告げた。
「大丈夫、まだ生きています。
意識を失っているだけ」
それを聞いて、イエニーの男は初めて感情といえる感情を露わにした。
甲板に座り込み、深々と頭を下げる。
「すまぬ……まことにかたじけない……」
光があれば見えたであろう涙の端を滴らせ、彼は声をうわずらせて感謝を述べた。
「いいえ、彼らが強かったのです。
ありがとうございます」
何に対するありがとうなのか、それはテダーにはわからなかった。
数人のマクスウェル商会の使用人たちが消えていた光を甲板の闇の中に灯し始めた。
「良かったな」
バルダックがセオに声をかけ、倒れているイエニーの一人を抱え上げる。
「ああ、すまぬ」
セオもまた、もう一人を抱えようとして顔を上げた。
「お?」
セオが視界の端に何かを見つけたように顔色を変え、座した姿勢から勢いよくルシールの眼前に飛び出した。
三回。
乾いた音が辺りに響いた。
「どけよ…」
先ほどのロカの一人が拳銃を両手に握りしめ、ルシールに向けて発砲したのだった。
「セオー!?」
バルダックが抱えた男を甲板に起き走る。
だが、それよりも残弾を打とうとするロカの若者の方が早かった。
テダーは拳銃を持っていないことを後悔した。
バルダックと変わらぬタイミングでロカの若者に駆け寄るが間に合わない。
三発のうち数発を受けたであろうセオの身体は崩れ落ち、ルシールを守る者は誰も間に合わない。
マクスウェルは甲板から船内に戻ろうとするその一歩手前で射撃音を聞き、後ろを振り返り凍りついていた。
税理士風の男もまた何もできないまま、その場に立ち尽くしていた。
「魔女……。
この魔女のせいで……!!!」
ロカの青年が叫び、銃口からは発せられた弾がルシールを貫いた。
か、の様に思えた。
だが。
鈍い何かを切り裂くように銀光が閃いた。
残り発砲された二発の弾丸はルシールの前、一度は体を崩したセオの剣先により両断され甲板のどこかに飛び散った。
一瞬の光景だった。
セオは体を崩したものの、ロカの青年が再び発砲するのを見るやその軌道を叩き切っていた。
ついで、方膝をついた状態から駆け出すとロカの青年に余りにも凄まじい駿足で駆け寄ると、刀を片手に持ち替え、それをロカの青年の両手で握りしめられた腕の合間にテコのように柄を突き入れ、どこから出したのかと思うような気合いの声とともに甲板に叩きつけた。
「はやく!
残りの二人を!」
セオはそれ以上は動けないようだった。
彼の声に止まっていた時間が動きを取り戻し、周囲の人間が取るべきこうどうにはしった。
使用人たちとテダーが残り二人を抑えつける。
セオの一連の動きはまさに、鬼神の如き働きだった。
「セオ……」
バルダックがセオが抑えつけていたロカを代わりに体重を持って抑えつける。
ロカの青年は甲板に叩きつけられた衝撃で気絶していた。
「大丈夫だ……」
弾は彼の胴体には当たっていなかった。
左肩を貫通し、それ以外はルシールの方向にもいかなかった。
「彼が射撃が下手で良かった……」
痛みを誤魔化すようにセオが苦笑いをする。
「まったく、あんたなんて奴だよ!
悪運まで最高だぜ!」
この時、甲板でセオの働きを見て今後、彼に喧嘩を売ろうと思うものはいなくなった。
ついでに、あまりにも凄まじい剣気と気合に満ちた行動は周りのものたちに何がしかの勇気を与えた。
この凄惨な殺戮の夜に、ようやく落ち着ける瞬間が訪れたときでもあった。
「あの方は……?」
セオがルシールの方を見る。
銃口を向けられ、発砲を受けてさすがに彼女の顔からも血の気が引いていた。
そこに立っていられたというだけ、まだロカの青年よりは気丈だったというべきか。
「大丈夫、のようだが、な……」
バルダックがどうだろうな、とルシールの方に声をかける。
「あんた、どうなんだ?
大丈夫なのか?」
彼女が答えるより早くマクスウェルの悲鳴が辺りに響いていた。
「ルシール! ルシール! ルシール!
私の宝が、私の未来がー!!!」
それは全て儲けという言葉を含んでいるんだろう、そうその場にいた人間は思ったに違いない。
豚人間でも走れるんだな。
テダーがあきれるほどの速さで、マクスウェルは奴隷に駆け寄った。
税理士風の男も後に続き、彼女の無事を確認すると二人は安堵したかのように奴隷姫を連れて甲板を降りようとした。
「待ってください、旦那様」
「なんだ、どこか痛いのか?」
いえ、とルシールは目を伏せて顔を横に振る。
「ならなんだ?」
マクスウェルはまったくわからないという顔をする。
早くこの場を去らなくては。
そんな風に見てとれた。
「あの方にお礼を……。
お願い致します」
「んー?」
まるで、いたのか、というようにセオに視線を投げやるマクスウェルは、まあいいだろう、と手ぶりで示した。
許可を受けて、ルシールはマストの一つに背を預けて座り込み、バルダックに手伝ってもらって左肩の傷口を手当てしているセオに駆け寄る。
「あの…‥」
「ああ、其方。
良かった。無事でしたか」
本当に良かったと、そんな笑顔でセオは答える。
自分の傷のことなどどうでもいい、という風情だった。
本当に爽やかな男だな、とバルダックは思った。
これなら、あの海に落ちた二人も、女怪物との戦闘中に彼の指示を受けて躊躇なく怪物の腹下に潜り込んだ二人の剣士も彼に従うわけだ。
よくよく見ると、セオの髪は後ろでまとめていたのがほどけてしまい、天然ようなカールのひどい恰好になってしまっていた。
癖の強い髪なんだな。
後から何かまとめるものを、マクスウェルの豚野郎に用意させようとバルダックは思った。
「ありがとうございました。なんとお礼を……」
ルシールは懇願するように言う。
セオは笑顔で首を振った。
「あの二人。
彼らを救って頂いた。
あなたには大きな借りができてしまった。
それの破片をお返ししただけです」
あれだけの働きをしてなお、このセオという男はカケラという言葉を使う。
どれほど、義理などというものに厚い民族なのだろうとテダーとバルダックは思った。
「本当に……」
まだ続けようとするルシールだが、マクスウェルの使用人がその肩を叩いた。
戻れという主人の合図だった。
瞳を伏せ、軽く会釈するとルシールはマクスウェルとともに船内に姿を消した。
数時間後。
夜明けも近い時間になり、ようやく霧も晴れつつあった。
テダーとバルダック、そしてセオと彼の仲間の六人。
二人は船内で休ませているようだ。
計八人は甲板で、女怪物の残骸を片付けたり、かつて人であったモノの肉塊を移動したり、死体をまとめる作業にマクスウェルの使用人たちと追われていた。
ロカの三人は縛り上げられ、翌朝に護衛の軍艦に罪人として渡される予定でマストに繋がれていた。
ようやく作業が一段落し、そこらに転がっていた酒瓶をいくつか集めて、彼らは弔いというなの酒宴を行っていた。
とはいっても大した量がなかったため、テダーが密やかに船倉の酒蔵から数本のワインだのテキーラだのをがめてきたことは秘密だったが…。
「動きのか、その腕?」
バルダックが瓶ごと酒を呷りながらセオに問う。
セオは傷口にウォッカを注ぎ消毒すると、問題ないと答えた。
「故国ではこんな戦いは日常茶飯事だった」
「イイさぁ……」
イエニーの一人が口を挟む。
「国で戦争があったのか?」
テダーがイエニーの一人が発した単語の意味がわからず問いかける。
セオは仲間をきつく一瞥した。
「すんもはん……」
部下は発音の変な彼の故国の言葉だろう。
謝罪したようだった。
「もう何年も前のことだ。
気にしないでくれ」
そうか、とテダーは告げる。
陽光が差してくるにつれ、バルダックはセオの額に大きな古傷があることに気づいたが、それも彼の勲章なのだろう。そう思ってそれには触れなかった。
「しかし、摩訶不思議なことばかりだ。
この航海が始まって初めてのことだが……」
セオは続ける。
「護衛はどこにいたんだろうな、か?」
テダーが先に言葉にした。
バルダックもうなづく。
「あの、巨人ってのか?
あいつの光が周囲を照らしても、船影はどこにも見当たらなかった。
一隻もだ」
「そうだ。
まるで、何かを試しているかのように消えたな。三隻とも」
だがー、とテダーは言う。
「戻ってくる、そうだな」
「そうだ」
セオとバルダックが頷く。
「もし、三隻が無傷で戻ってきたなら。いや、並走していた形を取り続けるなら」
バルダックが続ける。
「俺たちは、大きな駒なのかもな。
海上っていう名の大きなチェス盤のさ」
テダーが言う。
「生き残れるか?」
イエニーの一人が言った。
八人、それは誰にもわからなかった。
ただ、今夜のことが翌日も、これから入港までずっと続くなら生存する確率は低いだろう。
それだけは、全員が一致する見解だった。
「どうする?」
バルダックが言う。
「そうだな……。
多分、だが。
可能性は幾つかある。手段もな。
1つは、罪人となって軍艦に移ることだ。なに、容疑はなんでもいい。
酒泥棒でもな」
テダーにむかって意地悪気にバルダックが言った。
「なっ……。
それを言うなら、全員、同罪だろ?」
「間違いないな」
一堂に笑いが起こる。
「だが、そうなると船内の二人。
そして、あのお嬢さんを残して行くことになる」
バルダックの問いに、イエニーは全員が首を振った。
「それは出来ぬ。
恩を仇で返すことになる」
「そうだ。
我らは恥知らずではない」
セオとその他数人が叫ぶように言った。
「それは俺もバルダックも同じだよ。
何より、あんなん見てしまったら今更、去ることなんてできないしな。
もう金を貰ってしまっている」
「そうだな……」
それから朝が来るまで彼らは可能性について意見を飛ばした。
「入港まではあと数日のはずなんだ。
というか、今日明日でもおかしくない。
予定ではそうだったはずだ」
テダーが思い出したように言う。
「そうだな。
となると、最低、今夜をどう乗り切るか、だな」
素手や拳銃じゃあなあ、とバルダックが言う。
「我らも、銃を扱えないわけではない。
ただ……。故郷で使っていたものと数段変わっているのでな。
扱いと練習する時間が少しあればそれは可能だ」
セオが言う。
「武器がいるな。
この船倉には大量の武器を運んだしなあ……」
ロカの数人が落として割れた木箱の中身がこんな時に役立つとは、とテダーは皮肉気に笑った。
「なあ、それはいいんだが。
最初、俺たち聞いたよな。奴隷商人マクスウェル、ってさ」
バルダックが不思議なことを言い出す。
「それが何か?」
セオが不思議そうに聞いた。
「出港の時に朝早くから集まったんだ。それ以前から、船内にいたってことか?」
「だから、何がだ?」
セオは合点がいかないという顔をする。
「運び込んだのは大半が、武器と弾薬の木箱だったと思う。
船倉には限りがあるし、客船でもないから人がいられる場所も限られてるはずだ。
だが、船室には大半が昨日死んだ連中、商人や娼婦やらがいた。
じゃあ、本当の商品はどこにいる?
まさかあの、お嬢さん一人ってことはないだろう?」
バルダックがテダーを見る。
「なあ、思い出したか?
あのお嬢さんを初めて見た朝のこと。
あの船には少なくとも、百人近い奴隷がいたよな?」
あ、とテダーははっとなる。
確かに、奴隷用の出入り口から降りてきた人数は多かった。
「つまり何か?
この船にはまだわれらが知らない場所があり、そこに奴隷たちがいると?」
セオがテダーの考えを代弁した。
「だけど、そんな場所。
どこにあるんだ?」
バルダックが親指で海面を差す。
「下?」
「違う、ルガー。
軍艦だ」
「軍艦?
だが、あっちには貴族様がいるはずだろ?」
「ああ、そしてそれだけじゃないと思うぜ」
「昨夜の怪物、か」
イエニーの一人が言う。
「そうだ」
バルダックが返事を返した。
「あの三隻。
一隻は軍艦かもしれん。
だが、残り二隻のうち一隻からはこの数週間の間に、何回も食糧や水の補給を貰った。
それは俺らも手伝ったからわかるはずだ」
「なるほど。
つまり、肝心な商品は別の船に載せて、この船は囮、と?」
イエニーの一人が問う。
「いや、それは違うな」
セオが否定した。
「囮なら、マクスウェル殿やお嬢さんが乗る意味がない。
それに昨夜を思い出してみろ。
彼は、あれだけ我らを手こずらせた怪物を怖がってなかった」
「そうだ。
何より、金になると喜んでたな……」
テダーが海中に飛び込んだ後の会話をセオとバルダックが思い返してみる。
「どういうことだ?
仮にあの巨人とお嬢さん、ルシールさんといったか。
彼女を商品として戦闘で価値を確認するとしても、それならば我らは必要ないはずだ……」
セオがまったく意味がわからないという顔をする。
「まるで、ロンドンで噂の私立探偵が扱うような話になってきたな……」
シャーロック・ホームズだったか?
新聞にその事件譚が載るたびに世間は沸き立っていた。
だが、いまテダーたちが直面している事態も変わらない奇妙な状況のように、テダーは思った。
「ホームズがいれば難事件も解決なんだろうが……」
バルダックが嫌味気に言う。
彼は名探偵という異名を持つあの奇人をあまり好きではなかった。
たまに、ポーターに身を扮して事件の匂いを嗅いでいるあの男を。
「そのような御仁がいるのならば、是非、この奇妙な事態を解明して頂きたいが生憎、いまはいないようだな」
セオも皮肉気に言う。
イエニーたちも興味はあるが、いまはいないことを残念に思ったのか頭を振った。
「まあいい。
それよりも、これからどうするかだ」
バルダックが空になった瓶を海に向かって放り投げた。
「そうだな。
だけど、俺たちはマクスウェルの言い分から考えるとあの怪物の襲撃は予測できてたことになる。
ルシールさんの実力だけでは足りない可能性があるから、護衛として雇われた可能性もある。
なんにせよ、今夜は船内にいるのが賢いな。
その前に、武器がいる」
「その必要はありませんよ」
いきなり後方からかけられた声に全員が振り返った。
そこには税理士風の男がいた。
「怪物のことなど、まあお忘れ頂きたい。
皆さんには、それなりの報酬をお支払いしているはず。
ここで見たことは、お酒でも飲んでお忘れ頂くのが良いかと存じます」
「忘れるのはかまわんさ。
だが、武器はいるだろ?
今夜、もし、またあいつらが来たらどうするつもりだ?」
バルダックがきつめの口調で言う。
「ですから、その心配はありませんよ。
今夜は陸上ですから。
ほら、離れていた方々も集まって来られました」
見ると、税理士風の男が指差す方に三隻の軍艦が現れた。
「良いですね、皆さん?
昨夜のことはお忘れください。
皆さんにはあと数日、上陸し、移動する間の護衛をして頂ければ結構。
いや、観光でもする気分でいて下さっても結構です。
護衛は、アメリカ連合国陸軍が行いますのでね……」
どこまでも読めない深い闇を背負ったような、深みのある声で税理士風の男が言い終わり去った後、テダーたちはどうしようもない、という結論に達した。
まずは、生き残るようにしようと。
軍艦と合流し、怪我人たちと罪人のロカの青年三人、この船に残りたくないと叫ぶ乗客たちを軍艦は引き受けると、そのまま昼には目的地である港に入港した。
奇妙なことに、テダーたちは港町の中にあるマクスウェルの手配したホテルで一泊するように部屋をあてがわれた。
商船の積み荷の多くを占めていた木箱は、連合国陸軍を名乗る兵士たちによって運びだされ、その多くは馬車に摘まれて消えていった。
マクスウェルと税理士風の男、ルシールと使用人たちは商会が所有する館へと移動したようでその夜は会うことはなかった。
そして、一つの疑問が消えることがあった。
バルダックとセオの予想通り、百人を越える黒人や中東風の奴隷たちが軍艦二隻から吐き出されるように出てきた。ただ、彼らの多くは馬車も何も移動手段がないのに、いつのまにか港の船着き場から消えてしまった。
テダーたちだけが、それを異様だと感じたまま、翌朝を迎えることになった。
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