理不尽な理由で毎夜夫に浮気されていると思っていた新婦ですが、訳あって彼をのんびりと待つことになりました。真実の愛を下さいね、愛しの旦那様?

星ふくろう

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第一章

第一話 春雨の夜 1

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 五月。
 外の陽気が室内を照らし、暖かさを醸し出してくれる侯爵家の書斎。
 執事は階下の自分の部屋から、侯爵の代理として業務をこなしているアンナのいるその部屋へと入ってきた。 
 言いにくそうに書類を差し出されて、アンナはどうしたの? 
 そう問いかける。
 返事は意外なものだった。

「奥様。
 ちょっとこれは御容認いたしかねるかと‥‥‥」
「あら。
 だめ?」
「だめ、と申しますか。
 さすがにこの内容は‥‥‥王国の会計院に請求書を上げかねます」

 ああ、なるほど。
 アンナは執事が持ってきた、夫の遊び代の明細が問題なのだと理解した。
 彼は申し訳なさそうに、それでもこれを上に通すと侯爵家の名誉が汚れると思っているのだろう。
 どうしたものかと迷いに迷ってここに来たのね。
 侯爵夫人はいったい、どの遊び代の件だったかしらとその紙を受け取ると、中味を確認する。

「あら?
 こんなもの、あったかしら。
 ねえ、グレアム。いつのもの?」
「そうですな、この春のものかと思われます」
「春‥‥‥?
 ああ、あの三月の頭にあった事件のものね。
 旦那様が珍しく、そう。
 珍しく、自分で清算なされたあの件。
 ふうん‥‥‥」

 王都の北区。
 あの色街の犯罪者を闇で狩る役割を担う夫が関わった一件。
 珍しく彼――レザルタス侯爵マクスウェルは、妻を頼らなかった。

 居残りをさされたはずなのに、喜んでその店にとどまっていたのだ。
 一週間も家を空けたことはそれまでになく、連絡も来ない。
 こんなことは今までになかったから、アンナは生きているのかどうか不安になったものだった。

「旦那様が御自身で清算なさったものですから、それを王国に請求すると悪い噂が立ちかねません。
 あくまで侯爵家が捜査費用を一次的に肩代わりする、という取り決めですので」
「うん、それはそうね。
 これを会計院に回したら我が家は、当主の夜遊びを公認し放置している。
 そうなってしまうもの。
 令息ならまだいいけど、当主は不味いわね。
 貴族院のお偉い方々に知られたら、公務だって言えなくなるもの」
「左様でございます。
 まあ、唯一の救いは‥‥‥」
「マクスウェルが自分で清算してくれたことね。
 そこを取っても、夫が作った借金程度も払わない冷たい妻、なんて言われそうだけど。

 いろいろとこれは揉めそうな請求書だった。
 仕方ないか。
 そう呟くと、アンナはその紙を書斎のテーブルの上に置かれたロウソクの炎で燃やしてしまった。
 金貨十枚。
 一般的な市民の家庭なら、四人家族がらくに半年は生活できる金額。
 
「あんまり記憶にいい事件じゃなかったような気がする。
 もう忘れたけど、ね?
 グレアム?」

 執事のほほを、ひとすじの汗がつうっと流れて落ちた。
 その件にふれてはいけない。
 彼の侯爵家につかえた半世紀にちかい経験が、そう告げていた。
 
「は?
 いえ、奥様。
 わたくしも最近、どうも老化がはげしくなりましたのか‥‥‥物覚えがひどくなりまして。
 はい」
「あら、そうなの?
 あなたもお孫さんがこの前、嫁がれたのだったかしら。
 そろそろ暇が必要かもしれないわねー」
「あ、いえ。
 そこまでお気遣いいただくことは‥‥‥孫にも小遣いをやりたいですし」
「うん、いいわよね、子供。
 わたし、そろそろ十か月が来るけど、結婚してね?
 まだ子供もいないの。
 寂しいな、ねえ、グレアム。
 旦那様があの夜に救った彼女。
 幸せそうだったわね‥‥‥」

 ああ、これは踏み込んではいけない話だ。
 執事は冷静に分析する。
 どうにかしてこの場から逃げなければならない。
 こんな時に一番の八つ当たりを受けるべき主人は――また、色街に潜伏していた。

「左様でございましたかな‥‥‥?
 奥様がお気になさることでもないかと、ええ。
 あれは色街の出来事ですし」
「ええ、殿方はいつもそうやって逃げるのよ。
 旦那様もそう。
 戻って来てもいつもいつも、疲れただの、眠たいだの。
 他の女の匂いやお酒の匂いばっかり。
 まあ‥‥‥」

 おや?
 執事は気付いた。
 どことなく物憂げな顔をする女主人に。
 寂しさや恋しさではなく、安堵したような表情にはどこか安らぎが見て取れた。

「‥‥‥いいわ。
 生きて戻ってくれたのだから。
 あの時の戦いはそれはもう、凄かったもの。
 旦那様お一人で十数本の剣の雨の中を縫うように走り、切り伏せ、敵をなぎ倒し‥‥‥。
 まるで、伝説にある勇者のような活躍だったもの」
「あの、奥様‥‥‥???」

 そう呟いているとアンナは夢から引き戻されてしまう。
 ここにいたのがグレアムで良かった。
 記憶の中のマクスウェルはまさしくヒーローだった。
 侍女のステラに聞かれた日には、あとあとまでいじられるに決まっている。

「なんでもないの。
 戻っていいわよ、グレアム。
 お疲れ様」
「はあ、さようで。
 ではこれで一度、下がらせていただきます」
「‥‥‥ああ、待ってちょうだい」
「はい、何か?」
「まだ戻らないけど、請求書はまだ来ないの??」

 おや?
 嫉妬に怒っているかと思いきや‥‥‥?
 この確認は、どちらなのか。
 夫の心配か、それとも、侯爵に怒りを吐き出すための確認か。

 二月のある時にステラにだけ見せたはずの爪が折れた一件。
 あれを執事もひそやかに知っていた。
 もし、今回もあんな怒りが爆発したら前回よりひどくなることは目に見えていたから、執事はなるべくそっと逃げたかった。

 巻き添えにするならステラに押し付けなければ!!
 執事はそう思いながら、そっと祈るのだった。
 自分に八つ当たりが来ませんようにと。

「はい、まだ来ておりません。
 もしかしたらそろそろかとも思いますが‥‥‥ステラが静かですからまだですな」
「そう‥‥‥色街のどこでなにをされているのかしら。
 マクスウェルったら‥‥‥ステラもこんな時に役に立たないんだから」
「はは‥‥‥。
 いつも外におられるのも、問題、ですな。奥様」
「まったくだわ。
 あれ?
 ねえ、グレアム。
 隣のレザロは戻っているみたいよ?」
「‥‥‥は??
 あ、いえ、それは――」

 これはマズイ。
 執事の背中には冷や汗が大量に吹き出していた。
 隣のブルーノ男爵家第二令息のレザロ。
 彼は年齢も近く、元海軍の憲兵だった過去を買われて、マクスウェルの悪友という設定で色街の捜査を担当する捜査官の一人に抜擢されていた。

「だって、ほら。
 あの下手なチェロの音色はレザロに違いないわよ。
 いつもいっつも、練習してるはずなのに音程が狂ってる。
 確かめたいけど、出来ないのが辛いわね‥‥‥」
「奥様‥‥‥。
 お気持ちは察しいたします。
 旦那様のお役目は秘密のものですから」
「わたしが行ってレザロに確認してもいいけど‥‥‥旦那様に迷惑がかかるのは嫌だわ。
 でも、変ね。
 上官の主人が戻って、部下のレザロが自宅にいるなんておかしいと思わない。
 ねえ、グレアム?」
「なにか旦那様のお考えがあってのことかもしれません。
 大きな悪を見つけて探っているという可能性もありますから」
「大きな悪。
 あなたもそう言って、ステラのようにわたしの不安をあおるのね」
「奥様。
 どうお返事をすれば宜しいのですか?」

 困り果てた執事を見て、アンナは思案する。
 夫に迷惑をかけずに安全かどうかを確かめたいがそうもいかない。
 ただ黙って待つのは冬の間は我慢もできた。

 腰ほどまでに積もる雪が帰宅する障害になるとおもえばそれで気が楽になるし、いろいろと理由をつけれたからだ。
 しかし、いまは春から夏に変わろうとしている。
 おまけにあのレザロの調子はずれの音色が妙にアンナを苛立たせる。

「いいわ、グレアム。
 あなた確認していらっしゃい」
「奥様、そっそんな――!?」
「騎士として密やかにひみつを共有したいと言えばいいのよ。
 任せましたよ?」

 最悪の役割を任されてしまった。
 こんなときにあの騒がしい侍女は現れない。
 なんて運がいいのだろうとステラに怒りを向けながら、執事はしかたなく男爵家の門を叩いたのだった。

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