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第一話
しおりを挟む諒太が取引先である西東との商談を終えたのはすでに午後六時を過ぎていた。約束の時間が遅めだったこともあり、取引先から直帰の予定でいたのだが、外は土砂降りの雨だった。
歩道を行き交う人々が傘を手に足早に目の前を通り過ぎていく。
梅雨時ということもあり雨が降るのは最近では珍しいことではないが、ここまでの大雨は久しぶりだ。
空には厚い真っ黒な雲が立ち込め、雨が止みそうな気配もない。タクシーを捕まえて帰ろうと傘を広げて歩き出したが、想像を超える雨量にすぐに着ていたグレーのスーツが黒に近い濃いグレーに色を変えた。
堪らず諒太は細い通り沿いに偶然見つけたバーに駆け込んだ。ここで軽く飲んで時間を潰し、雨脚が弱まった頃を見計らい大通りに出てタクシーを拾えばいい。
「いらっしゃい」
カウンターの中にいた中年のバーテンがずぶ濡れの諒太にタオルを差し出した。
「酷い雨だろう。遠慮なく使いな」
諒太は礼を言ってタオルを受け取ると、そのままカウンター席に腰掛けた。掛けていたスクエア型の眼鏡を外し、濡れたスーツをタオルで軽く拭きながら諒太は不自由になった視界に目を細めて辺りを見渡す。
店内は薄暗い間接照明で照らされていて、諒太と同じカウンター席に若い男が一人。奥のボックス席には二人連れの先客がいた。
「とりあえずビールを」
初めて入る店は勝手が分からず、メニューも見ずに無難なものを注文した。雨で半分ほど色が変わってしまったスーツを拭き終えると、今度は濡れた前髪から滴る雫を拭った。外した眼鏡に付いていた雨粒もついでに拭き取ったあと、元に戻った視界の中に同じカウンター席に座る若い男の視線を感じた。
普通見知らぬ他人と目が合うと無意識にその視線を逸らしてしまいがちだが、男は視線を逸らすことなく諒太を見ている。
二十代前半──といったところだろうか。サイドと後ろを短く刈り上げた今どきの若者といった感じの髪型にトップを明るく染めたワイルドな印象。
知り合い……もしくはどこかで会った客か? と思ったが、やはり男の顔に見覚えはなかった。
「どうぞ」
バーテンがコースターの上にビールの注がれたグラスをそっと置いた。
「どうも」
諒太がおずおずとグラスに口を付けても、依然男の視線は諒太に注がれたままで、正直、居心地は良くなかった。
向けられる視線が痛い──。
諒太はその居心地の悪さを紛らわすように、ビールを飲みながら指でコースターを弄んでは裏表を何度も返すようなことを繰り返していた。
早くここを出よう。
しばらく頃合いを見計らい、裏返ったコースターの上に空になったグラスを置いて、会計をするためにバーテンに声を掛けた。
支払いを終えて店を出てもまだ雨は降り続いていた。店に飛び込んだ頃に比べれば幾らかその雨脚は弱まっていたが、強い風に煽られた雨がまるで霧のように諒太に降り掛かり、掛けている眼鏡が一瞬で細かい水滴による視界不良になった。
そんなことに構ってもいられず傘を広げて歩き出すと、ふいに後ろから誰かが近づいてきたかと思うと諒太の傘を取り上げた。
「ちょ、え?」
諒太の傘を取り上げたのは、バーで諒太を見つめていた若い男。その男が黙ったまま諒太の肩を抱いた。
「は?」
何が起こっているのか分からない上に男の腕は思ったより力強くて振りほどくこともできない。
「ちょ……っ! おまえ、誰だよ。一体何なんだ!?」
その瞬間、若い男が諒太の顔を一瞥したが、依然傘を奪った状態のまま無言で大通りの方向へと歩いて行く。
「おい、何とか言えよ!」
「黙ってついて来いって。濡れるから急ぐぞ」
「は⁉」
急ぐって、どこにだよ。という抗議の言葉は再び激しく降り出した雨が傘にぶつかる音にかき消されて男の耳には届いていないようだった。
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