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第二章 黒川巽の場合
黒川巽の場合①
しおりを挟む広い庭に咲き乱れる紫陽花を眺めながら懐かしい縁側で煙草を咥える。昨日一日降り続いていた雨は止み、雲の隙間から薄日が差し込んでいる。
「たっちゃん! 礼服皺になるから着替えたらー? そろそろ食事届くから」
「ああ」
「着替えたらテーブル出すの手伝って」
「はいよ」
奥の居間から声を掛けてきた叔母にそう返事をして、叔父が未だ愛用している古い昔ながらの陶器の灰皿で煙草を揉み消した。
今日は朝から父方の祖母の十三回忌の法要で、何年かぶりに隣町の叔父の家に来ている。
大きくなるにつれこの家に顔を出すこともなくなったが、昔従兄弟たちと遊んだ広い庭をやはり懐かしいと感じた。
礼服から普段着に着替えて奥の居間に顔を出すと、親父やお袋が親戚連中と話に花を咲かせている。同じように集まった従兄弟たちは、まだ幼い自身の子供の相手で近所の公園に出払っている。唯一独身者の巽が、こういう場で使われるのはいつもの事だ。
「テーブルどこ出すって?」
「ああ。あっちのお仏壇ある部屋。ついでに座布団も用意してやって」
「ああ」
古い昔ながらの家。二間続きの広い和室に大きなテーブルを移動させ、人数分の席を作る。仕事柄こういったことは得意なほうだ。
「巽くんごめんねー。使っちゃって」
「いいって。暇なの俺くらいだし」
奥から出て来た従兄弟の嫁が手際よくテーブルを拭いて行く。明るくお喋り好きな彼女とは昔から顔を合わせればよく話をした。
「お父さんたちのお店継いでもう何年?」
「二年ちょい」
「巽くん、確かいい会社勤めてたでしょう? 脱サラしてお店継ぐなんてビックリしちゃった」
「はは。まぁね」
「順調なの? なんか週末バー営業もしてるんだってね? 人気の店ってタウン誌に載ってたの見たよ」
「……人気かどうかはわかんねーけど、細々やってる」
「そっか!」
巽が隣町で営んでいる定食屋“くろかわ”は元々は両親の店。一人っ子だった巽は小さい頃から、大きくなったら自分がこの店を継ぐのだろうと漠然と思っていた。まさか反対を受け遠回りする羽目になるとは思いもしなかったのだが。
小学校に入る頃にはすでに店に出て両親の手伝いをしていた。手伝いと言っても小学生の巽にできることなどたかが知れていたが、店に集まる常連達に可愛がられ、子供ながらに楽しい時間を過ごしていた。
店で仕事をしている両親の姿が好きだったし、店に集まる人たちの笑顔が好きだった。
高校は市内の公立校に入り、いざ進路を──という段階で両親の反対を受けた。今思えばその反対が息子の将来を案じての事だったというのは理解できる。
まだ十代半ば、両親を説得できるほど自分の将来に対する見通しもない。一旦視点を切り替え、両親に従って大学に進学し、その後有名企業にも就職した。
両親の喜ぶ顔を嬉しく思いつつも、捨てきれずにいた店への思い。仕事をしながら資格を取り、両親を説得できるだけの材料を集めることに必死だった。
ただ、好きだった。この店で笑う両親の顔が。常連客の笑顔が。
それを守り受け継いで行きたいと思った。
「食事の準備できたわよー」
やがて食事が届き、叔母の声掛けの元、親戚連中がこちらの部屋へとやって来た。久しぶりに集まった親戚たちは、相変わらず楽しそうに昔話に花を咲かせている。俺たちが子供の頃はよく皆で集まったものだが、大きくなるとそういう機会もおのずと減っていくものだ。実際、仲の良かった従兄弟たちともいまでは年に一度正月に顔を合わせる程度だ。
「おい、巽。おまえ、いくつになったんだっけ?」
「……もうすぐ三十八」
「嫁さんまだか?」
叔父が訊ねた。覚悟はしていたものの、親戚が集まると必ずこういった話題になる。従兄弟たちは結婚してすでに独立している。こういう場でそんな話題になるのは仕方ないとは思いつつ、巽は仕方なしに相手をする。
「──まだだよ。俺にその手の話期待すんなって言ってんだろ」
「父ちゃん母ちゃんに孫の顔みせてやりたくねぇのか?」
「いや……そこは悪いとは思ってるけど、相手がいなきゃ話になんねーし」
「この際、見合いでもすっか? 最近じゃ、相談所とか婚活とかいろいろあるらしいじゃねぇか」
“婚活”という最近よく耳にするフレーズに、近所に住む常連客の顔を思い出した。
「いや。いいよ」
もう若くはないといえ、べつに恋愛や結婚に全く興味がないわけではない。いつか、そうしたいと思える相手に会えたら考えないこともない。
ただ、今は店の経営で手一杯。恋愛などにうつつを抜かしている余裕もなければ、結婚など考えることもなかった。
この歳で、そんな悠長な事を言っている場合ではないのも分かっているが、このまま一人でもそれはそれで悪くないと思っている。
「ふく子さん、前に溢してたぜ? 『あとはそういうご縁があればねー』って」
「……」
それに関して正直息子として胸が痛まないわけではない。口には出さずとも、両親がいずれ巽が家庭を持つ事を望んでいるのは見ていれば分かる。
「昔、たっちゃん付き合ってた子。亜紀ちゃんだっけ? いい子だったよなぁ。俺はてっきりあの子と結婚するもんだとばかり──、そういう話も出てたんだろ?」
「叔父さん。──その話はもう」
堪らなくなって叔父の言葉を遮った。全ては過去の話だ。
「……あんな事さえなきゃ今頃はなぁ、」
「……俺、酒取ってきます」
これ以上この話を続けられるのが耐えきれず、巽は思わず席を立った。
「巽。どこ行くのー? あんた食事は?」
部屋を出たところの廊下ですれ違った母が訊ねたが、
「悪い。ちょっと仕事の電話。戻ったら食う」
そう嘘吹いて誰もいない台所へと逃げ込んだ。古い換気扇の下まで行き、ポケットから煙草を取り出し火をつける。煙草を口に咥えながら掛けていた眼鏡を外して息を吐いた。
亜紀──というのは、かつて巽の恋人だった。以前勤めていた職場で出会い、五年ほど付き合って将来をも意識し合っていた仲だった。実際、そういう話も出て来た中で、彼女が盆休みに田舎に帰省した時のことだった。
忘れられない出来事。
突然、彼女が俺の前からいなくなった──。
*
「巽? あんた平気なの?」
ふいに後ろから声を掛けられ、驚いて振り向くと、そこに立っていたのは母だった。小さな手が遠慮がちに巽の背中に触れる。
「勝叔父さんに何か言われたんでしょう? 叔父さんも悪気はないのよ。ただ、あんたのこと心配でいろいろ言って来るだけでねぇ……」
「分かってる。戻れよ、何でもねぇから」
こういう時の母親の勘というのは厄介だ。隠そうとしても大体の事は見抜かれている。
「あんたまだ亜紀ちゃんのこと──」
「そうじゃない。大丈夫だよ。もういろいろ整理ついてるし」
咥えた煙草を口元から離し、何でもないというふうに静かに灰色の煙を吐き出した。古い換気扇が、外の風を受けて時折ウィイインと重たげな音を立てる。
「……ならいいけど。忘れろなんて言わないけれどいつまでも引きずってちゃ」
「──分かってるから。みんな変に思うからもう行けって」
少し語尾を荒げてしまったことを瞬時に反省した。
「……はいはい。分かったわよ。片付かないからちゃんと食べに来なさいよ?」
母は小さく息を吐いて皆の集まる部屋へと戻って行った。
「……ってんだよ。んなこたぁ」
ゆらと立ち上る煙を見つめて呟いた。
忘れようとしても、幾度となく思い出す。ふとした匂いや景色、色や音。五感で感じることの全てがそれらを思い出す引き金となる。身体に刻み込まれた記憶とはそういうものだ。
頭では分かっている。亜紀が二度と俺の目の前に現れることがないことも、どんなに想ってもその想いが二度と彼女に伝わることがないことも。
分かっていても、また前を向いて歩き出すのには勇気がいる。
この先また誰かを好きになれる日は来るのだろうか──。
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