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第二章 黒川巽の場合
黒川巽の場合②
しおりを挟む平日の客の入りはぼちぼちといったところで、夕方五時半を過ぎると、会社帰りのサラリーマンが一杯ひっかけるついでにうちで腹ごなしをしていく。もちろん昔──、親父たちの代の頃から足繁く通ってくれる常連客たちも多く、そういう人たちに支えられてなんとかやっている。
カラカラ……と格子戸が開いて、見知った顔が暖簾をくぐってひょっこり顔をのぞかせた。
「らっしゃーせー」
学生バイトの富永が威勢のいい声をあげた。
「うっす! たっちゃん。とりあえずビール」
「あれ。タケさん、平日顔出すなんて珍しいすね」
「今夜、うちのかぁちゃんホテルのディナーショー行ってんだよ」
「へぇ。ディナーショー? ああいうの結構するんでしょう。豪華でいいすね」
「だっろー? 俺はここでのんびり贅沢飯ってわけさ。そーいや、シゲちゃんたまには店来んの?」
タケさんは、親父の友人。親父がここに店を出して以来の常連客で、巽自身も小学生の頃から顔見知り。親父が店を退いた後も変わらず顔を出してくれている。
「来ますよ。やっぱ譲った店とはいえいろいろ気になるらしい」
「ははっ。親っちゅーもんは子供がいくつんなってもそういうもんだ」
「来週、日曜あたり店に顔出すって言ってたからタケさん暇なら寄ってやってよ」
そう言って冷えたビールで満たされたジョッキをタケさんの目の前に置くと、タケさんがそれを受け取り嬉しそうに微笑んだ。
「おう。日曜な?」
「親父にも言っとく」
ありがたいと思う。普通は代が変わればその繋がりも薄れていくものだ。こんな繋がりも親父たちが残してくれたもの。それをできるだけ守っていきたい、そう思う。
平日は客足が落ち着くのも早い。さっきまで機嫌よく飲んでいたタケさんも帰り、午後九時を過ぎた店内でバイトの富永があと一組だけ残っている客の目を盗んでは小さな欠伸をする。
「富永くん。今日もうあがっていいぜ。このあと予定あんだろ?」
「え? マジいいんすか?」
「さすがにもう客来ねぇだろうし」
「あざっす! んじゃ、お先っす」
そう返事をした富永がいそいそと帰り支度をはじめ、店をあとにするのを見送った。言葉遣いなどはイマドキだが、真面目で頭の回転も速い。彼がこの店に来てもう二年ほどになるが、ほとんど毎日夕方からシフトに入ってくれて、とても助かっている。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございましたー」
最後の客も帰った午後九時半。小さく息を吐き、表の暖簾を降ろそうと外に出た瞬間「うぉっとー!」と聞き慣れた声に顔を上げた。
へらっ、とこちらを見て笑うスーツ姿の若干くたびれた男。以前勤めていた会社の同僚の赤松。同期で配属部署も同じだったことからよくつるむようになった。特別馬が合うわけでもないが、なんだかんだで今も友人関係継続中。
「……んだよ。おまえか」
「何、その冷たい反応。ちょっとは歓迎しろや」
「──ったく、いつもこの時間狙って来んだろ」
「あ。バレてら」
「家帰んなくていいのかよ」
「知ってんだろ? いま離婚協議中」
店に入った赤松が着ていたスーツのジャケットを脱いで、いつものカウンター席の背もたれにそれを掛けた。
「協議、進んでんのかよ?」
「まー、それなりにつつがなく」
詳しい離婚に至るまでの経緯は知らないが、赤松が結婚して七年。妻は赤松の八つ年下。子供はいないがそれなりに幸せそうに見えた。どこで何がどうなったのか……人生は何が起こるか分からない。
一見軽く見えるが、本来真面目な性格。出会って十五年以上経つが、それこそ欠点と言う欠点は見当たらない。
とは言え、夫婦の事はその夫婦にしか分からない。余計な詮索をせず、ただ見守ることが俺のできる唯一の事。
「ビールでいいんだろ?」
「おー、サンキュ」
閉店後の店内。そのへんにある適当なグラスにビールを注いで手渡すと、赤松がそれを一気に飲み干した。ここ最近、店にやってくる頻度が高い。この男が俺の顔を見にやって来るときは大抵心に何かを抱えている時。
「大丈夫か?」
「何が? 俺は絶好調だっつーの」
弱みは決して見せない。かれこれ十五年、結構長い付き合いだと言うのに。
何かを抱えているのが分かっていながら何もできないのはやはり歯痒いものだが、この男の出した結論を俺はただ黙って見守るしかない。
「そーいやさ。この間どうしたよ?」
「あ?」
「青ちゃん潰れた日。結局ここ泊めたんだろ? 彼女」
そう言われて思い出した。赤松が来るのはあの日以来ということか。
先月だったか、近所の常連客である青野日南子を店に泊めてやったことがあった。親父たちが店をやっていた頃から週に二回ほどの頻度で顔を出すいわば常連中の常連。巽の作る食事を誰よりも美味しそうに口に運ぶ若い女の子。よく食べ、よく笑い、よく話す。勝手にこんなふうに思う事を本人には嫌がられるかもしれないが、なんというか妹のような存在。
「べつに、どーもねぇよ。普通に朝まで上で寝かしてやっただけ」
その答えに赤松が不満げに、顎を突き出す。
「……何だよ、その顔は」
「あんな可愛い子の無防備な寝顔とか見て久々にムラムラしちゃったりしなかった?」
何を言い出すかと思えば、なんという、ゲスな質問。
「……あのなぁ!」
「青ちゃん、可愛いよなぁ?」
「……まぁ、そだな」
確かに可愛らしいのは認めるけども。巽にとってそういう対象ではない。
「いくら可愛いっつっても、あの子はそういうんじゃねぇしな」
「あの子に限らずだろ、お前の場合。いつまで亜紀に縛られてるつもりだよ?」
「アホか。亜紀は関係ねぇ」
「ほんっとムカつくな、お前」
「何がだよ?」
「全部一人で抱え込みやがって。俺に弱いトコ見せもしねぇ」
どっちがだよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
お互い様だ。俺がこいつの前で弱みを見せられないように、こいつも俺の前で決して弱みを見せない。男というものは変なところでプライドが高く、厄介で扱いにくい生き物なのだ。
「おまえさ、いい加減前見ろや。いつまでもそうしてたって、亜紀が戻って来るわけじゃないだろ?」
赤松が呆れたように言った。そんな事は言われなくとも分かっている。過ぎさった過去を元には戻せない事も。いつまでも同じ場所に立ち止まったままではいられない事も。
「怖がんなよ。誰か好きんなること」
「……別に怖がっちゃいねーよ」
「この先ずっと一人でいいのかよ」
「一人じゃねぇし。親父もお袋も未だピンピンしてるし、おまえみてーなウゼー連れもいる」
「この面倒臭せぇどアホが。そう言うこと言ってんじゃねぇの分かってんだろー?」
「……」
分かってはいる。赤松の言葉が俺を心配しての事だということくらいちゃんと分かっている。誰よりも俺と亜紀の関係性を知っているからこその言葉だということも。だが、正面切って痛いところを突かれるのにはやはり弱い。
縛られているわけじゃない。けれど、ある日突然行き場を失った想いを、無理のない速度で風化させるにはそれなりの時間がかかる。
「ははっ。離婚協議中のお前にだけは言われたかないわ」
「いい歳なんだから、ちゃんと考えろっつってんの」
「だから。おまえだけには言われたかない」
何があったか知らないが、いい歳して、離婚とか。ちゃんと考えろってその言葉、出来ることならそっくりそのまま返してやりたいところだが。
余程の事なのだろうと思う。この歳になって出した答えが“離婚”というカタチなのならば。
「俺はいーんだよ。今更愛だの恋だのって柄でもねぇし。この店だけ、守っていけりゃあ」
「相変わらず、じじむせぇな。黒川」
「ほっとけや」
赤松がグラスの中のビールを一気に飲み干して、カウンターにそれをコツと置いた。ふいに聞こえてきた雨音に、窓ののほうを眺めると、それに気づいた赤松も窓の方を見た。
「この梅雨明けたら、また夏が来るな……」
夏が来る。大事なものを手に入れて、そして失ってから三度目の夏が──。
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