橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第六章

42.

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 昨日の夜の記憶がない。部屋の感じをみる限り、暴れたり吐いたりはしてなさそうだけど、丸々記憶がないなんて初めてで、目が覚めた瞬間のあたしはなんだかとてもきもちが昂っていた。

「……いひ♡」

 いつもなら憂鬱な朝も、今日はなんだか楽しくてにこにこしちゃう。
 薬って記憶を飛ばせるんだ。ならこのまま沢山飛ばせばいい。なにもかも忘れてしまえば、きっと楽になれる。
 ええと今日は平日だから、学校に行かないと。
 あたしは制服に着替えると、軽い足取りで玄関をでた。
 多分、スキップをしていたと思う。大きく両手を振りながらるんるんと家から学校までを歩いていた。いまなら坂道をみかんが転がってきても全部キャッチできる気がする。それくらい、気分がよかった。

「おっはよー!」

 元気よく教室に入ると、まるで時が止まったかのように全体が静まり返る。

「あれ、どうしたの皆?」
「……えっと……上履きは?」
「上履きぃ?」

 クラスメイトの女子に指摘されたので足元をみると、確かに上履きを履いていなかった。

「あっは、履いてくるの忘れちゃったぁ!」

 あたしは下駄箱まで戻ると、上履きを履いて再び教室へと向かった。
 あれ、そういえばどうしてあたし、靴下だったんだろう。靴は?
 ま、いっか!
 椅子に座ると、流があたしにねぇ、と耳打ちをする。

「今日の愛莉、なんか変」

 なんか変と言われてもあたしはあたしだし。いまは耐え難い現実から逃げるために薬に頼ってるだけ。

「……誰の所為でこうなったと思ってんのよ」
「え? なに? なんか言った?」
「んーん、なんにも!」

 それもこれも、流が全然傍にいてくれないからじゃん。だからあたしは薬に頼るしかなくて、薬を飲まないと落ち着かない身体になって、それなのになんか変とか、流にだけは言われたくないんだけど。
 もやもやしてると本鈴が鳴った。一時間目の授業は国語だ。時間ぴったりにドアが開くと、鷺沼先生が教室に足を踏み入れる。

「では、教科書の三十二ページを開いてください」

 鷺沼先生はいつものように淡々と授業を進めていく。生徒の顔なんてみやしない。黒板と教科書に向かって喋るだけのロボット。
 あの人、もっと取り乱さないかな。いっつも澄ました顔してみてて退屈なんだよね。どうしたら泣いたり怒ったりするんだろう。
 ううん、泣いたり怒ったりしなくてもいいの。例えば女の顔をしてみたり、色っぽい声をだしてみたり。

『そんなの簡単じゃん。鹿児島の時みたいにすればいいんだよ』

 ふと、頭の中で愛莉が囁いた。薬を過剰摂取している所為で、愛莉との境界線が普段より緩くなっているのかもしれない。
 だけどいつもなら取り乱していたであろうこの状況を、今日のあたしはよしとした。

「ねぇ先生」
「なにかしら、橋本さん」
「さっきから何処みて喋ってんの? 先生の授業退屈だから、休憩がてらにそこで自分でシテみてよ」

 一気にざわつく教室の中、鷺沼先生の表情はまだ崩れない。
 だけどまさか生徒からの提案を無視なんてしないよね?
 自慰だって立派な授業のひとつだし。
 顔を真っ赤にしながらもしっかりと鷺沼先生を凝視し、期待に満ちた瞳をする女子達。そして、いまから鷺沼先生の公開マルマルが始まると信じてやまない馬鹿な男子達。普段は他人事な流でさえも、この時ばかりは表情が引き攣っていた。
 ああ楽しい。ほら、あとは鷺沼先生が動くだけだよ。早くしないと他クラスのギャラリーが増えるかも。ま、あたしとしてはどちらでも構わないんだけど。

「なにやってんの? 早く脱ぎなよ」

 さっきからぴくりとも動かない鷺沼先生に、あたしはエールを送った。

「……橋本さん、お兄さんがいなくなって情緒不安定なのね」
「……は?」

 こいつ、ようやく口を開いたかと思えば、いきなりなにを言ってるの?
 皆の前でお兄ちゃんがいなくなったとか言うな。
 ていうかなにその顔。同情?
 それとも馬鹿にしてる?

「可哀想な橋本さん。仕方がないからこの程度の無礼は許してあげます。いまは一人で暮らしているんですよね。毎晩、淋しくてしょうがないんでしょう」

 あたしが可哀想?
 あたしって可哀想なの?
 仕方がないからってなに?
 許してあげますってなに?
 どうしてそんなに上から目線でものを言うの?

「なに、言って」
「あの時は可哀想だからお金を恵んであげましたけど、いくら天涯孤独だからってなにをしても許されるなんて思わないことね」
「……は? あんた、天涯孤独の意味わかってんの?」
「ああ、貴女には確か血の繋がりのない妹がいたわね。まぁ、その子もいまとなってはいないも同然……いえ、いてもいなくても同じでしょう」

 いてもいなくてもって、それもしかして柚留ちゃんのことを言ってんの?
 なんにも知らないくせにどうしてそんなふうに言えるかな。教師として。ううん、人としてその発言はどうかと思うよ。

「……はぁ?」

 それは生まれて初めてだしたかのような、低い低い声だった。女の子でもこんなに低い音がだせるんだ。
 だって不快なんだもん。この女、柚留ちゃんを侮辱した。許せない。絶対に公衆の面前で辱めてやる。
 あたしの中にどす黒いきもちが渦巻いていると、頭上でパン、と軽い音がした。

「はぁ? それが教師に向かって言うセリフかぁ?」

 ふと見上げると、そこにはいつの間にか鷺沼先生が立っていた。手には片手で持ちやすいようにくるくると丸めた教科書を持っている。
 こいつ、もしかしていま、これであたしの頭を叩いたの?
 嘘でしょ?
 教師のくせに生徒の頭を叩くなんて。
 しかもなによその言い方。さっきまで敬語だったくせに、急に口調が悪くなったりして意味がわかんないんだけど。
 鷺沼先生のあまりの言動に言葉をなくしていると、追い討ちをかけるように丸めた教科書でぽんぽんと軽く頬を叩かれた。

「橋本さん? そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔してどうしたの?」
「え……ぁ……あんたいま、たたい」
「まさかとは思うけど、この程度で体罰だとでも言うつもり? こんなの、貴女が私にしようとしたことに比べれば、どうってことないでしょう?」
「……は?」

 さっき発したばかりの低くて怪訝な声とは一変、今度は間抜けな声が口からぽろりと零れだす。

「こんなの、行儀の悪い生徒を軽く小突いただけじゃない」

 鷺沼先生ってこんな表情もできるんだ。もの凄く意地悪で人を馬鹿にしたような顔。もしかしてこっちが本性なのかな。
 なんだ、こいつもあたしとそんなに変わらないじゃん。性悪女。地獄に堕ちろ。
 あたしは調子に乗ってる鷺沼先生を鼻で笑った。

「……ははっ」

 そんなあたしの態度が気に食わなかったのか、一瞬怪訝そうな顔をする鷺沼先生。あたしはそれが可笑しくてまた笑っていた。

「あははっ、やだなぁ鷺沼先生。あたし、行儀悪くなんてないですよ? むしろいいこすぎて褒めるところしかないっていうかぁ」

 大丈夫。今日のあたしはなんだって笑い飛ばせるよ。

「……そうね。橋本さんはいい子だから、休憩がてらにそこで自分でシテみてよ、なんて下品な発言しないわよね?」

 成人女性らしからぬ言葉を聞いたあたしは、ここぞとばかりにわざとおどけてみせた。

「ええっ? 鷺沼先生ってば、なにを言ってるの? そんな下品な言葉をあたしが言うわけないじゃないですかぁ!」

 あんたと同じ言葉なんて言うわけないじゃん。そんな子供騙しに騙されるのは幼稚園児までだっつうの。
 あたしは下品なんかじゃないし、そんな挑発に乗ったりしない。いくら薬を過剰摂取してるからって、そんなヘマはしないわよ。

「そうよね貴女はしないわよね。でも、私は貴女じゃなくて橋本さんに言ってるの。ねぇ、聞こえているんでしょう、橋本さん」

 こいつ、もしかしてわざと煽るような発言をして愛莉をこっちに呼び戻そうとしてる?
 だけどなんのために。

「私は橋本さんと話しがしたいのに、貴女が邪魔で話せないの。私の言いたいこと、わかります?」

 ああそうか、こいつはサークルクラッシャーなんだ。愛莉がクラスの空気を乱すから、それが楽しくてあたしに愛莉と変わるように言ってるんだ。

「貴女はこのクラスに必要ないのよ。だからとっとと消えなさい」

 いまの録音しとけばよかった。これは立派なモラハラだ。いや、パワハラだったかな。もうどっちでもいいや。
 いまからでも録音して全校生徒にばら撒けば、こんな女、すぐにこの学校から消すことができるだろう。邪魔な奴は消せばいい。あたしはあたしの平穏を守るんだ。流と鹿児島さんと、いつか三人で笑って暮らせる平穏な日々を送るために。

「……いひひっ、ばぁか、死ね!」
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