橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第十三章

92.

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 そうだよ、あたし淋しがり屋さんなの。だから構ってくれなきゃ拗ねちゃうよ。
 あたしはそれから三十分くらい、ケイさんと電話で談笑をした。やっときもちが落ち着いてきたのか、電話を切る頃には空腹を感じていた。
 夜はよく眠れたと思う。夢はひとつもみなかった。スマホをみれば、ケイさんからおはようときていたのでほっとする。

『おはよう』
『今日は学校に行くの?』
『うん』
『何時におわる?』
『内緒』

 この人はまたあたしに会おうとしているのだろうか。学校まで迎えにこられても困るから、おわる時間は教えない。ああでもあたしが何処の高校に通ってるかなんて、向こうは知らないんだった。なら大丈夫かな。
 学校に行けば高松がいる。今日もまた、声をかけられるかもしれない。怖いけど行かなくちゃ。いつまでも逃げてばっかじゃいられないし。
 教室に入ると鹿児島さんはいなかった。あんたに逃げ道はないんだよって、言われてるみたいで傷ついた。
 鹿児島さんはいないのに高松はいた。目が合うと立ち上がる高松をみて、あたしはすぐに視線を逸らす。

「橋本、おはよう」
「橋本、どうして返事してくれないの?」
「昨日学校休んだでしょ。具合でも悪かった?」
「橋本」
「橋本」
「橋本」

 高松の声が頭の中で響いて気持ち悪い。前はこんなことなかったのに。

「橋本? どうしたの?」

 あたしは口元を手で押さえながらふらふらと教室をでると、その場でぺたんとしゃがみ込んだ。
 本当に気持ち悪い。

「橋本? 具合悪いの? 保健室まで連れていこうか?」
「……触らないで……」
「え、でも立てないとかやばくない? 先生呼んでこようか?」
「なにもしなくていいから、喋らないで」
「え?」
「あんたの声聞いてると吐き気がする」

 ようやく理解してくれたのか、高松が黙っていた。ふと後ろをみるといなくなっていたので、やっぱり鹿児島さんがいないなら帰ろうと思い立ち上がる。
 高松の声がしなくなった途端、本当に吐き気がなくなった。あたし、高松のこと生理的にむりになったんだ。
 立ち上がるとそのままきた道を戻っていき、下駄箱で靴を履き替える。このまま病院に行って薬を処方してもらおう。そう思っていると、目の前にケイさんがいた。

「あれ、もう帰るの?」
「……どうしてケイさんが此処にいるの?」
「会いたくてきちゃった。きみの制服、此処の高校だよね」

 迂闊だった。まさか制服で特定されるなんて。

「ま、待ち伏せとかやめてください。警察に通報しますよ」
「うん、会えたからもう帰るよ。だから通報しないでくれると嬉しいな」
「は?」

 この人はわざわざあたしを一目みるためだけに此処まできたのだろうか。もしあたしが途中で帰ろうとしなかったら、この人は此処で何時間も待つつもりでいた?

「じゃあまた連絡するね。ばいばい」
「ま、待って」
「うん?」
「ど、どうしてあたしに会いたいと思ったの?」

 理由によっては許そうと思った。だけど暇だったからとか言うんなら話は別だ。その時は一発ぶん殴ろう。

「きみが僕のことを忘れないように」
「え?」
「ねぇ、きみはどうして学校にきたの? 昨日、僕と話せたからまた頑張ろうって気になってきたんじゃない?」
「なに言って」
「きみだって僕に会いたかったはずだよ。ああ、正確に言えば違ったね。きみは僕に触れたかったはずだよ」
「は?」
「きみはまた、僕の動画をみたいと思ってるよね。あの日以来ちっとも送ってくれなくてもやもやしてる。それどころかそんな雰囲気にもならない。動画がみれないなら会いたい。会って触れたいし触れてほしい。きみはいま、欲求不満なんだ」

 この人はいったいなにを言っているのだろうか。確かにまた、動画が送られてこないかなって期待した。だからといって欲求不満になってるわけでもないし、触れたいとか触れてほしいなんて考えてない。

「いいよ、きみが望むなら触れてあげる。きみが僕に触れたいなら触れてもいい。きみはもう帰るんだろう? どうせ帰ったらまた一人だ。なら、その一人でいる時間を有意義に使おうよ」
「……ケイさんと触れ合うことが、有意義な時間の使い方なんですか?」
「そうだよ。それに触れ合いがなければいつまで経っても次のステップに進まない。きみと僕は、いつまで経ってもセックスができないからね」

 セックスという甘美な響きにまんまと誘われたあたしは、ケイさんについていくことにした。決して欲求不満なわけじゃない。ただ、ケイの言うスローセックスがどんなものなのかという興味があっただけ。
 学校をでてちょっと歩くと、突然ケイさんが立ち止まる。

「ちょっとバスに乗ろっか」

 わざわざバスに乗るなんて、いったい何処に行くつもりなんだろう。
 タイミングがよかったのか、バスはすぐにきた。ケイさんが一番後ろの席の右側に座ったので、あたしも隣に座る。

「あの、何処に行くんですか?」
「じゃあ終点まで行ってみよっか」

 じゃあってまるで、行先を決めてないみたい。不審に思いつつもバスが動き始めると、ケイさんの手があたしの太股に触れていた。

「ケイさん?」
「うん?」
「あの、手が」
「内緒だよ」
「え?」




(背後注意)

 ケイさんの手があたしの太股をゆっくりと撫でている。もしかしてバスで何処かに行くんじゃなくて、最初からこっちが目的だったりして。ケイさんの企みに気がついたあたしは、ケイさんの手の動きを肌で感じていた。手はスカートの下にあるので、外からみただけじゃ誰も気がつかないだろう。
 しばらくすると、太股を撫でていた手が下着の上から何処をとは言わないが、撫で始めた。これはちゃんと場所をわかってて触っているのだろうか。そこばかり執拗に撫でられると困る。
 ピンポイントに刺激を与えられたあとは、下の窪みの方に指が移動した。そこはそこで色々とまずい。

「痛い?」
「い、いえ」

 痛くはない。痛くはないけどこっちはいつばれるんじゃないかとヒヤヒヤするし、身体がビクつかないように気を張っているので変に力が入っちゃうんだよ。あたしのきもちなんて知らないと思うけど。
 バスが止まってまた動きだすと、ケイさんの手が下着の隙間から入ってくる。
 まさかこんなところで直に触れるつもり?
 ちょんちょん、と指の腹で窪みに触れられると、自分が既に濡れていることに気がついてしまう。
 下着の上からちょっと撫でられただけなのにもう濡れてるの?
 自覚がなかっただけに、なんだかとても恥ずかしかった。
 それからケイさんの指は本当に浅いところで動いていて、それがあたしには焦れったくてしょうがなかった。
 だってもういくつバス停を通り過ぎた?
 終点まであとどのくらいで着くのかもわからないけど、もしかしてこのままでおわりじゃないよねぇ?

「あっ」

 流石にそれはなかったようで、いきなり指が少しだけ深く入ってきた。感覚的には、第一関節の半分辺りから、一気に第二関節まで入ったような感覚だ。いくら油断してたとはいえ、いまの声は怪しまれたかもしれない。

「なに? 忘れ物でもした?」
「い、いえ。違ったみたいです」

 ケイさんナイスフォロー。やっぱりこういうのに慣れているのかな。顔色ひとつ変えずに誤魔化すの。誤魔化しのプロ。

「お昼なに食べる?」
「あっ、たしは、なんでも」

 さり気ない会話をしながらも、ケイさんの指の動きは止まらなかった。いくらなんでもあたしに喋らせようとするのはだめじゃない?
 ちらりとケイさんの方に視線を向けると、何故か紳士的な笑顔を向けられてしまった。
 ドキッとしてる場合じゃないって。
 思わず顔が赤くなる。

「やっぱり次で降りよっか」
「え?」

 ケイさんは窓際にあるボタンを押すと、あたしから手を離して此処で降りるように促した。
 なにか怒らせるようなことをしちゃったのかな。
 不安を感じながらもバスを降りると、ケイさんと目が合った。

「あ、あの。終点まで行かないんですか?」
「行かないよ。あんな顔して乗ってたんじゃ怪しまれるからね」
「え?」

 そんなに顔にでてただろうか。ドキッとしたのは、ケイさんがあたしに笑いかけたからなのに。

「ばれる前に退散しただけだから気にしないで。これが賢い遊び方。人目につくところで性的な接触をするのは御法度だよ」

 確かに、こんなことで朝から警察に捕まっていてはどうしようもない。ケイさんはいままでもこうやって、捕まるスレスレのラインで色んな女性と遊んできたんだろうな。

「それはわかりましたけど、こんなところで降りてどうするんですか?」
「ねぇ、その敬語は壁なの?」
「え?」
「きみはまだ僕に壁を作ってるの?」
「……そんなつもりは」
「そんなつもりだよ。それとも健忘症かなにか? 僕と過ごした時間を忘れちゃうの?」
「ち、違います」
「じゃあ昨日は何時から何時まで僕と電話したか覚えてる?」
「そ、れは」
「覚えてないんだ?」
「い、いちいち時間なんてみないから」
「じゃあ僕となにを話したか覚えてる?」
「あ、あたしの名前を呼んでくれた」
「そう。きみにはそれが一番印象に残ってるんだね。僕は一語一句、覚えてるよ」
「嘘」
「本当だよ。嘘だと思うなら言ってあげようか?」『……はい』
『よかった、でてくれた』
『……なんの用ですか?』
『言ったじゃん、会いたいって』
『あたしは会いたくないです』
『だからなんで敬語なの? 僕、きみを怒らせるようなことした?』
『僕がなにかしたなら謝るよ。だけどそれは言ってくれなきゃわからない。きみはなにに対して怒る人なのか、教えてくれなきゃ対処できない』
『まただんまり。そんなに僕と話すのが嫌ならいますぐ電話を切ればいいよ。それをしないってことは、僕になにか言いたいことがあるんじゃないの?』
『ねぇ、なんで僕の電話にでたの? 僕からの電話だってわかってたよね?』
『僕の声が聞きたかったの?』
『本当は会いたかった?』
『ねぇ、あいりちゃん』
『……もう一回言って』
『うん?』
『あたしの名前、もう一回言って』
『あいりちゃん』
『……ケイさん、あたし、いま自分の家にいる』
『うん』
『ずっと一人で、誰もいなくて、あたしがどんなに暴れても叫んでも、誰も止めてくれないの』
『あいりちゃんは、淋しがり屋さんなんだね』
「ねぇ、まだ続ける? 僕が電話を切るその瞬間まで言ってほしい?」
「い、いいです、もう充分わかりましたから」

 気持ち悪いほど、ケイさんはあたしとのやりとりを覚えていた。記憶力がよすぎる。まるで一度見聞きしたことは覚えてしまう、瞬間記憶能力みたい。
 あたしが引いてると思ったのか、ケイさんがにこりと笑ってみせる。

「大丈夫だよ。僕は人間だ」

 普通ならそんなの当たり前だと思うのに、お兄ちゃんの前例がある所為であたしには笑えなかった。実はケイさんもロボットとか宇宙人とかだったらどうしようって、一瞬でも思ってしまう自分が嫌でなにも言えない。

「ああそうだ、まだきみは僕に触れてなかったね。さぁどうぞ。いまなら誰もいない。次のバスがくるまでまだ時間はあるしね」

 ケイさんは、「何処でも好きなところを触ってどうぞ」と言わんばかりに両手を広げてみせたので、あたしはケイさんに抱きついた。

「……なにしてるの?」
「触っていいって言った」
「こういう時は普通、下半身に触れるものだよ?」

 あたしは無言を貫いた。さっきの指はきもちよかったけど、それだけじゃなくてもっと人としての繋がりがほしいと思ったの。あたしは誰かに愛されたい。ただそれだけなんだってたったいま気がついた。

「スローセックスなんてしなくていい」
「え?」
「あたしは普通にケイさんと関わりたい」
「……指だけじゃお気に召さなかったかな?」
「そうじゃなくて、あたしはケイさんと」
「普通に関わりたいってなに? 僕はいつだって普通に関わってるつもりだけど。これが普通じゃないならなに? 僕ときみの関係は普通じゃないの?」
「普通じゃないよ。こんな、セフレみたいな関係、嫌だよ」
「じゃあきみはどうしたいの? 友達にでもなりたいのかな?」
「あたしはケイさんと」

 友達よりももっと先。

「……ううん。ケイさんを、好きになりたい」

 あたしはまた人を好きになりたい。ケイさんがそう、気づかせてくれた。あたしを変えてくれたんだ。

「はぁ? 僕に壁を作ってるくせに僕を好きになりたい? 矛盾してんじゃん。なに、もしかして僕に命を救われたからって、神様のように思ってんの? そういうの重いからむり」

 ケイさんはあたしから離れると、早口であたしを拒絶し始めた。

「好きになっちゃいけないの? あたしがまた誰かを好きになっちゃだめ?」
「だからぁ、それが僕である必要はないよねぇ? ちょっと僕に触れてもらっただけで恋愛脳だしてくるのやめてくれない? そんなんだから元彼に振られるんだよ」
「……加賀さんは、そんなんじゃない……」
「は?」
「加賀さんは、確かにあたしをみてはくれなかったけど、ずっとずっと優しかった。あたしがお兄ちゃんに彼女がいるって知った時も心配して追いかけくれた。確かにあたしがプロポーズを断ったから加賀さんを傷つけた。だけどケイさんがあたしを救ってくれた。わざわざあたしを探しだしてみつけてくれた。知らない世界をみせてくれた。だからケイさんとなら、先に進めると思ったの。ケイさんだから、好きになりたいと思ったの」
「やめてくれよ気持ち悪い、僕達はただのセフレだろう?」
「違う」
「なにが違うんだよ、僕の動画で興奮したくせに」
「ど、動画では確かに興奮した。たけど、あたしがケイさんを好きになりたいと思ったのは本当だよ」
「それって吊り橋効果ならぬ、煩悩効果じゃね? 煩悩がドバドバでた所為で脳が勝手に性欲と愛情を結びつけてるだけ。きみが興奮する度に、僕を好きだと勘違いしてるんだ」
「違う」
「違くないよ。だってきみは敬語だったじゃないか。それが急に口調が砕けた。きみはいったい誰なんだ? 人格障害でもあるのかな?」

 ある意味、人格障害だ。あたしは愛莉じゃないんだから。だからあたしの言葉は響かない。偽物の言葉なんか響かない。

「……あたし、記憶がないの……」
「え?」
「車に轢かれて記憶がなくなって、あたしはあたしが何処からきたのかわからないんだよね。この身体に元いた橋本愛莉はあたしがいるから消えちゃった。だからいまはあたしが橋本愛莉のふりしてる。あたしは誰、なんてそんなの、あたしが一番知りたいよ」

 あたしは誰?
 いったい何処からきたの?
 あたしはもう死んでるの?
 どうして愛莉を追いだしたの?
 この身体はあたしのじゃないのに。

「……そうか、だからきみは死にたがってたのか。それを僕が助けてしまった。なら、責任は僕にある」
「え?」
「よし、ついてきて!」
「え、ど、何処に行くんですか?」
「何処って、きみは死ぬんだよ! 今度こそ屋上から飛び降りるんだ!」
「え?」
「助けてしまって悪かった! いまからでも遅くない、行こう!」

 嬉々としてあたしの腕を引っ張るケイさんは、あたしの知るケイさんではなかった。こんな形で死ぬなんて嫌だ。あたしはやっと、ケイさんと関係を作っていこうと思ったんだ。それなのにどうしてそんなに嬉しそうに笑うの?
 あたしは死ぬべきだって言いたいの?
 そうだよね。あたしは死ぬべきだよね。お兄ちゃんも加賀さんもいない、鹿児島さんもいない、高松はむり、あたしの生きる意味なんてもう何処にもない。あたしを愛してくれる人なんてもう。
 待って。
 あたしにはまた、流がいる。
 まだ死ねない。まだ死にたくない。流が学校に戻ってくるまでは。
 あたしはケイさんの腕を振り払うと、「あたしはまだ死にたくない!」と叫んでいた。

「え、な、なんで?」
「あたしはまだ死にたくない! あたしはまだ生きるんだ!」
「いや、だってきみははしもとあいりじゃないんでしょ? きみがいるからはしもとあいりは消えたんでしょ? だったらきみがそこからでていくべきだよ。ほら、漫画やドラマでもあるでしょ。記憶喪失になったって、最後は必ず元に戻るんだ」

 元に、戻る?
 元に戻ったらあたしは何処に行くの?
 この記憶はどうなるの?
 死にたくない、死ぬのは怖い、誰からも忘れられるなんて嫌。
 放心状態になってしまったあたしに、「もうきみとは連絡取らないよ、連絡先も消す」と言って、目の前で連絡先を削除された。ケイさんだけでなくあたしのスマホからも、連絡先が削除された。

「ごめんね、あの日助けちゃって」

 そう言って、ケイさんはあたしの前から去っていった。
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