歌声は恋を隠せない

三島 至

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過去・グラジオラス③

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 中年の女性――女主人らしい――は、グラジオラスの言葉に「はい?」と間抜けな声を出す。

「聞こえなかったか。この女性はいくらだ」

 女主人は、はっとして、「いえいえ、お客様! 買うなら、もっといい子がいますよ! この子じゃ満足されないかと……」と言い出したが、グラジオラスは途中で遮る。

「ここで一晩買いたいわけじゃない。買い取って、連れて帰りたい。まだ誰の手もついていないのだろう?」

 自然と底冷えするような声が出ていた。
 自分でも、何故こんなことを言っているのか分からない。
 理由があるとすれば……期待を裏切られたからだろうか。
 生きていて、再会できて、嬉しいはずなのに。
 迎えに行けば、助け出せば、アザレアが喜んでくれるとでも思っていたのだろうか。
 アザレアは、グラジオラスを見ても驚かなかった。
 自分がここに来ることを、予想していたはずはない。彼女はグラジオラスを見ても何も思わなかったのだろう。
 無関心すぎる。
 グラジオラスのことを覚えているのかさえ、微妙なところだ。
 散々人に言われて、自分の顔は印象に残るだろうと思っていたが、余りの滑稽さにむなしくなる。
 素直に、会いたかったとは言えなかった。

 グラジオラスは手持ちの金を、女主人に握らせた。
 相場よりもかなり多いはずである。

「足りないか?」

 グラジオラスが単調な声で言うと、その迫力に女主人は言葉も出なかったようで、激しく首を横に振った。
 恐らく「滅相も無い!」と言いたいのだろう。

 女主人を退けると、グラジオラスはアザレアに近づいた。
 会話は聞こえていただろうに、この期に及んでも、彼女は何も言わない。
 妙な自尊心が邪魔をして、自分の事を覚えているかどうか、尋ねることが出来なかった。
 グラジオラスは、抱きしめたい気持ちを誤魔化すように、アザレアを横抱きにして持ち上げた。
 こうすれば、自然と彼女に触れられると思ったのだ。

「では、この人は買い取った。私の好きにさせてもらう」

 それは女主人に向けた言葉だったが、アザレアに言い聞かせる言葉でもあった。


 グラジオラスは、オーキッドの前では割合素直だが、基本的には捻くれ者だ。
 アザレアを前にして、気のきいた言葉など言えるはずも無い。

 店を出て、アザレアを抱えたまま歩く。
 少し離れた商業地に、予め宿を取ってあった。ひとまずそこへ連れて行くつもりだ。

「あの店で働くのがどういうことか、分かっているのか」

 つい責めるような口調になる。
 アザレアは小さく頷いた。
 一応反応があったことに安堵して、グラジオラスは続ける。

「不特定多数を相手にして、少ない額を稼ぐくらいなら、金払いのいい一人に絞れ」

 実際どう思っているかはともかく、グラジオラスは勝手に、アザレアが「どういう意味だ」と疑問に思っているだろうと、説明を付け加えた。

「私が君を買ってやる」

 それは愛人にすると言っているのと同じだったが、素直になれないグラジオラスの気持ちを代弁するならば、「好きだから一緒にいてくれ」という意味であった。

 アザレアは何も言わなかった。

 旅程の全ては、アザレアと過ごすための時間だ。
 宿の寝台で、アザレアはグラジオラスを拒まなかった。
 女主人は、アザレアが客をとるのを嫌がったというような事を言っていたが、グラジオラスが触れても、嫌がる素振りは全く見せない。
 かといって、喜んでいる様子もまるでなかった。
 アザレアの気持ちが分からない。
 グラジオラスだからなのか、それとも、すべて諦めているのか。
 前者なら良かった。そこに好意があれば、こんなに嬉しいことは無い。
 だがアザレアの態度は、投げやりになっているように見える。
 グラジオラスだから受け入れたのではなく、一人を相手にしたほうがましだと、グラジオラスが言ったとおりに受け取ったのだろうか。
 好きな人は、グラジオラスを見てはいない。
 虚しさばかり募る。
 思い続けた女性を前に、情念を散らして、欲望に耐えることは出来なかった。
 どうせグラジオラスが来なければ、他の誰かに買われていたのだからと、自分に言い訳をして、彼女に触れた。
 肌を重ねた時のアザレアの声だけが、彼女を自分の物に出来たように感じさせた。
 言葉では気遣ってやれない。だが行為はひたすら優しく、アザレアを労わった。
 大事に、壊れ物に触れるように、指に愛しさを乗せて接した。
 無関心なくらいなら、いっそ嫌われるほうがいいと考える人もいるようだが、グラジオラスは、無関心な彼女に、せめて嫌われたくなかった。
 行動では示せても、口は素直に動いてくれないけれど。


 旅程は長い。
 日が経つにつれ、アザレアは少し喋ってくれるようになり、普通に会話をするようになった。
 お互いをどう思っているか、そういう話はしなかったが、何か聞けば返事をするし、呼べばグラジオラスを見つめる。
 彼女の気持ちは未だに読めない。
 恋人とも言えない関係で、好きだということも言えない。
 だが、段々心を開いてくれているような気はしていた。
 その理由の一つが、歌だった。

 アザレアの好きなものは何だと聞けば、歌だと言う。
 特別上手な訳ではないが、作ることと、歌うことが好きなのだと。
 もちろん、グラジオラスは歌をせがんだ。
 歌ってほしいと素直に言うのではなく、「君が歌いたいなら、好きにすればいい」というような言い回しなので、実際に歌ってくれるまで時間が掛かったが。
 アザレアの歌は、優しい響きがした。
 度々歌ってもらう内に、アザレアは自分からも、「新しい歌を作りました」と声をかけてくれるようになった。
 どの歌も好きだったが、ある日アザレアが歌い終わった後に言った言葉は、グラジオラスの胸を焦がした。

「今のは、貴方の歌です」

 最初は意味が分からなかった。
 だが、アザレアの言動を振り返ってみて、すぐに気付いた。
 アザレアが、グラジオラスのための歌をわざわざ作ってくれたのだ。
 彼女にとっては、何でもないことなのかもしれない。
 だがグラジオラスの耳に、心の一番大事な所に、その歌はいつまでも残った。


 いよいよレユシット邸へ帰らなければならなくなった頃、グラジオラスは懲りずに、まだ次があるつもりでいた。
 帰る時には当然、アザレアを一緒に連れて行くつもりだった。
 しかし、今まで流されるようにグラジオラスを受け入れていた彼女は、ここで強く拒否を示す。
 もう関係は終わりだと、二度と会わないとまで言う。
 彼女は頑なだった。
 理由が分からなければ納得できないと、グラジオラスは食い下がる。だがアザレアの意志は固く、何度も問い詰めた末、彼女はやっと一言、理由を明かした。

「貴族なんて、大嫌い」

 それは小さな声だったが、静かな部屋によく響いた。
 かつてアザレアの父親がこぼしたのと、同じ言葉だった。
 彼女はそれ以上何も言わなかったが、グラジオラスはそれだけで全て分かった気がした。
 バントアンバー家の娘は、王に見初められて、無理やり嫁がされた過去がある。
 そして、貴族社会では冷遇されていたのだ。
 アザレアも結局売られ、挙句、貴族の男ーーグラジオラスに買われた。

 何が違うのだろう。
 アザレアの状況はまさに、バントアンバーの娘だ。
 グラジオラスは有数の貴族で、アザレアのような娘一人どうこうした所で、咎める者はいない。
 アザレアを守る人は、誰もいない。
 そんな中で、また貴族に囲われるのは、彼女にとって、苦痛でしかないだろう。
 アザレアは、グラジオラスを信用してはいないのだ。
 いずれ酷い目にあわされると思っているのかもしれない。
 いや……すでにしている。
 アザレアがグラジオラスを拒まなかったのは、抵抗しても無駄だと思ったからではないのか。
 もっと酷いことをされると、思ったのではないか。

 グラジオラスには、家名を捨てて一緒に生きようと言える勇気は無かった。
 彼の思いは、あまりに一方的だったから。



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