リバーシ!

文月

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二十章 新世界

1.深呼吸

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「大丈夫」

 サラージが言った、無責任な一言。
 それだけで、こころがふわって軽くなった。
 こころを覆っていたモヤが一気に晴れたみたい。
 ‥そんな気がした。

 いままで締め付けられてた胸に、ぶわって空気が入ってきた。
 びっくりして大きく息を吸い込んだ。
 ほんとに咄嗟に。
 それと同じタイミングでミチルの
「あ、時間だ」
 って呑気な声が聞こえて‥
 俺たちは地球に帰ってきた。

 帰ってきた瞬間の、身体を包むヒヤリとした冷たい‥清涼な空気。俺はこの瞬間が好きだ。
 ミチルはなんかの折に「あのぶるって来る感触が苦手」って言ってた。
「俺ね、ちょっとした変化ってのが苦手なんだ。
 エレベータが止まる瞬間一瞬ガクッて来るじゃない? あれが一番嫌い」
 って言ってホントに嫌そうな顔をしてたっけ。俺はでも、あの時
「そう? 俺は好き」
 とは言わなかった。だって、ミチルにとっての「嫌い」って感情に俺の気持ちは関係ないじゃない? それに、俺だったら、俺の「好き」って気持ちを誰かに否定されたりしたら嫌だ。だから、きっとミチルにとってもそうだろうって思ったんだ。自分の気持ちは否定されたくない。
 俺はね、あれが嫌い。車で山道登ってて気が付いたらなってるあの耳の不調。‥急に耳が詰まったみたいになる感覚。あの不快さは慣れないよね。気圧の変化が原因っていうけど、別に急に高所に飛ばされたわけじゃないのになんで? って思うよ。
「って‥そんなのどうでもいい‥」
 誰に聞かせるわけでもないことを独り言ちて、俺は暫く寝ころんだまま、手を顔の前で握ったり開いたりしてみた。
 白く細く長い、見慣れた指先。
 意識して見たら、俺の身体は一つ一つのパーツが全部作りものみたいに美しい。
「‥現実味がない身体だな」
 作り物みたい‥かって誰かに言われた言葉。
 時刻は5時。普段だったらシャワーを浴びる為にすぐ起き上がるのに、今日はそんな気分になれなかった。
 面倒だとか、ダルイとかそんな理由ではない。寧ろ反対。
 映画を見終えて、感動の余韻に浸って‥暫く座ってたいって思う‥そういう気持ち。
 飛び起きて、すぐに切り替えて日常生活送る、その前にちょっと余韻に浸る時間が欲しかっただけだ。

 初めて、自分の力で息が吸えたって思った。
 初めて、自分が随分無理して気を張ってたんだって気付いた。
 気付いたら、凄く楽になった。認めただけで、随分こころに余裕が生まれて来た。
 自分の身体が自分の思い通りに動くことに、今更ながら感動した。

 それは、例えていうならば深呼吸。
 呼吸は当たり前にしてる身体のオート機能だ。だけど、深呼吸はそうじゃない。自分の意志でわざわざ「大きく息を吸って」「大きく息を吐く」。オート機能じゃない、自分の意志でわざわざする行為だ。
 思えばね、リバーシってそういう感情と最もかけ離れた存在なんだって思う。
 当たり前に出来る。当たり前に持ってる。
 当たり前に24時間起きてる。
 一日を終えて、ほっと一息ついて眠りにつく喜びや、怖い夢を見て飛び起きて「夢でよかった! 」って言う安心感。二度寝の楽しみ。
 そういうの、想像でしか分からない。

 ゴールを目指して歩く楽しみや、ゴールした達成感を得られない代わりに、ゴールした先にある最高の一等賞の賞品をあらかじめ貰っている者‥それがリバーシなんだ。

 例えば運動。運動自体が趣味って人も多いと思うけど、少数の人にとってそれは「目的(例えばダイエット)」の為の手段だったりするよね? 
 例えば化粧。これも趣味だって人も多いだろう。だけど「綺麗になりたい」「綺麗に見せたい」って思いはその根底に少なからずあるだろう。
 そういうの‥そういう「努力の先にあるもの」をはじめっから持ってるのがリバーシなんだって思う。
 誰もが羨む理想のプロポーションやら、美貌。それらを「はじめっから」「当たり前に」持ってる。そして、それを失う危機感を持つ必要がない‥。
 人は初めっから持ってるものに対しては無頓着になりがちだ。「あるのが当たり前」でなんの疑問も持たない。普通ならある「失う怖さ」さえも考える必要ないってなったら、誰もそのことについて考えすらしないだろう。
 体型を維持したいから運動は欠かせない、とか、美しくあるためエステに行かなきゃ‥とか考えないでいいんだ。
 いうならば、苦労して金持ちになった者は、お金の大事さも失う怖さも十分知っているけど、生れた時からの金持ちバカ息子は、お金の大事さに対しても、失う怖さに対しても‥実感として分からないかもしれない‥そういうの。
「まあ、それも想像に過ぎないんだけどね」
 ヒジリはまた独り言ちて、今度は風呂に向かうべく、起き上がった。
 いつもより勢いよく、
「よし、やるぞ! 」
 とか‥わざわざ声に出して呟く。

 今日もいつもと変わらない日常が始まる。

 だけど、今までみたいに惰性で過ごすんじゃない。「自分の意志で」「大事に」日常を過ごすんだ。
 こうしなきゃ。じゃなく、自分の意志で「こうしたい」って考えて‥だけど、我が儘を通すんじゃなくって、周りと話し合ったりしながら、出来る限り自分らしく生きていく。
 自分の意志で、自分の為に息を吸って、自分の為に生きていく。
 誰かを不幸にしてもいいなんて考えは幸いなことに持っていない。
 自分の意志を尊重して生きても、皆を幸せにすることはできるって確信を持てる。

「深呼吸して、心機一転頑張りますか! 」
 
 今日という日は昨日という日の続きだけど‥昨日と今日は全く違う。
 今日の俺は昨日の俺の続きだけど、昨日の俺と今日の俺は全く違う。
 毎日、俺たちは新世界を生きているんだ。
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