婚約破棄された悪役令嬢(仮)ですが、なぜか餌付けされました。

猫宮かろん

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「ミーナ・フォン・ローゼン! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」

王城の大広間。
シャンデリアが煌めく夜会の最中、張り上げた声が音楽を断ち切った。

声の主は、この国の第一王子であるクラーク殿下。
金髪碧眼、絵に描いたような王子様だが、その顔は今、憤怒に歪んでいる。

彼の腕の中には、小柄で可愛らしい少女が震えながらしがみついていた。
男爵令嬢のリリィだ。
最近、王宮内で「守ってあげたい」と評判の、愛くるしいがドジばかり踏む令嬢である。

周囲の貴族たちは、扇で口元を隠しながらヒソヒソと囁き合う。

「まあ、ついに……」

「あの『氷の魔女』が捨てられるのね」

「当然だわ。あんなに冷酷で、感情のない女なんて」

視線が突き刺さる中心に、私は立っていた。
公爵令嬢、ミーナ・フォン・ローゼン。
切れ長の釣り目に、表情筋が死滅したかのような無表情。
おまけに合理主義すぎて愛想の一つも言えない性格から、社交界ではすっかり悪役令嬢扱いされている。

私はゆっくりと扇を閉じ、目の前の二人を見据えた。

「……婚約破棄、ですか」

「そうだ! 聞こえなかったのか! 貴様のような性悪女は、将来の王妃に相応しくない!」

クラーク殿下が勝ち誇ったように叫ぶ。

「リリィへの陰湿な嫌がらせの数々……もはや看過できん! 彼女の教科書を破り捨て、ダンスシューズに画鋲を入れ、あまつさえお茶会でわざと紅茶をかけたそうだな!」

「ひっ……怖いですぅ、クラーク様ぁ」

リリィが嘘泣きのような声を上げて、さらに殿下の胸に顔を埋める。

私はその茶番を冷静に眺めながら、脳内で高速の情報処理を行っていた。
(教科書を破った? ああ、あれは彼女があまりに勉強しないから、間違ったページだらけの古い参考書を廃棄して新しいものを渡しただけですね。画鋲? 靴底の補修用の金具が外れていたのを私が指摘した件でしょうか。紅茶? 彼女が自分で転んで私にかかりそうになったのを避けただけですが)

訂正するのは簡単だ。
証拠も証人も揃えられる。
だが、私はふと立ち止まった。

(……待てよ?)

私は瞬時に計算を開始する。

王太子妃教育という名の重労働。
無能な殿下の尻拭いという名のサービス残業。
休日返上で公務を代行させられる日々。

これらが、婚約破棄によってすべて「ナシ」になる?

さらに、王家側からの有責による婚約破棄となれば……。

私はドレスの隠しポケットから、愛用の小型魔道具を取り出した。
見た目はただの板だが、魔力を通すと数字が浮かび上がり計算ができる、自作の「魔道計算機(カリキュレーター)」だ。

ピピ、ピピピ。
静まり返った広間に、電子音が響く。

「な、なんだその不気味な板は! 呪いの道具か!?」

殿下が怯んだように後ずさる。

「……慰謝料の算出です」

「は?」

「精神的苦痛への慰謝料、不当な婚約破棄への賠償金、さらに過去五年間に私が代行した公務の未払い賃金……これらを王家規定の利率で計算しますと」

ピピピ、ターンッ!

私は最後のボタンを力強く押し、弾き出された数字を凝視した。

(……素晴らしい!)

それは、私の実家の領地にある別荘を三つほど買い占めても釣りが来る金額だった。
あるいは、夢だった「何もしないで猫と暮らす生活」が死ぬまで送れる額だ。
研究費に充てれば、画期的な魔道コンロだって開発できるかもしれない。

私の無表情な仮面の下で、感情が爆発した。
喜びという名の感情が。

「クラーク殿下」

私は顔を上げた。
普段の「氷の魔女」と呼ばれる冷徹な表情ではない。
目を見開き、口角を限界まで吊り上げ、瞳をキラキラと輝かせた、満面の笑みで。

「承知いたしました!!」

広間が、シーンと静まり返る。

「えっ」

殿下の顔が引きつった。

「い、いや、貴様……泣いて縋るのではないのか? 愛する私に捨てられるのだぞ?」

「滅相もございません! 殿下のご英断に、心より感謝申し上げます! いやあ、長年の激務から解放されるかと思うと、感動で涙が出そうです!」

私は大股で殿下に歩み寄ると、その手を強引に掴んでブンブンと上下に振った。

「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! リリィ様も、よくぞ彼を引き受けてくださいました! 返品不可ですので、どうぞ末長くお幸せに!」

「は、はあ……? あの、ミーナ様?」

リリィがポカンと口を開けている。
彼女の設定であろう「可憐な被害者」の役作りが完全に崩壊していた。

「では、こちらの書類にサインをお願いします。慰謝料の支払い期限は来月末となっておりますので。分割は受け付けておりません。王家の威信に関わりますから、もちろん一括ですよね?」

私は懐から、常に持ち歩いている「非常時用・損害賠償請求書(王室対応版)」を取り出し、殿下の鼻先に突きつけた。

「さあ! 今すぐ! ここに!」

「ちょ、ちょっと待て! 雰囲気が違う! もっとこう、悲壮感がだな……!」

「悲壮感など不要です! あるのは解放感のみ! さあサインを! インクならここにあります!」

ペンの代わりに携帯用インク壺を差し出す勢いに、殿下は半泣きになりながら震える手でサインをした。

「確認いたしました。法的効力はバッチリです」

私は書類をふーっと吹いてインクを乾かし、大切に懐へしまった。
これで、自由だ。
明日からはもう、あくびを噛み殺しながら彼の退屈な自慢話を聞く必要もない。
リリィが壊した花瓶の請求書処理に追われることもないのだ。

「それでは皆様、夜会の途中ですが失礼いたします。何しろ明日からの引越し準備が忙しいもので!」

私はドレスの裾をバサリと翻した。
動きにくいパニエが邪魔だったので、思い切ってドレスの裏地にある留め具を外し、スリットが入ったような形状に変形させる。
これも自作の「緊急脱出用ドレス」だ。

「ごきげんよう、皆様! 良い夜を!」

足取り軽く、スキップでもしそうな勢いで私は出口へと向かった。
背後で、殿下が「あれ? 俺、なんかとんでもない損をしてないか?」と呟くのが聞こえたが、もはや知ったことではない。

大広間の扉を開け放ち、廊下に出ようとしたその時だ。

「……くっ、ふふ」

低い、けれど艶のある笑い声が聞こえた。

壁際の柱の陰。
そこに、一人の男が立っていた。
夜会の華やかな空気には馴染まない、漆黒の軍服を身に纏った長身の男。

銀色の髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。
隣国である軍事国家ガレリアの公爵、アレクセイ・ドラグノフだ。
「冷徹公爵」と恐れられる彼が、なぜか腹を抱えて震えている。

「面白い……。実に面白いな」

彼と目が合った。
普段なら、その鋭い眼光に射抜かれて縮こまる令嬢も多いだろう。
だが、今の私は無敵の「慰謝料長者」だ。

「何かご用でしょうか、ドラグノフ公爵閣下」

私が尋ねると、彼は口元の笑みを隠そうともせず、長い脚で私の前へと歩み出た。

「いや。素晴らしい手際だった。あんなに清々しい婚約破棄は初めて見たよ」

「それは光栄です。ビジネスはスピードが命ですから」

「ビジネス、か。……君、名前は?」

「ミーナ・フォン・ローゼンです。……元、公爵令嬢ですが」

「ミーナ嬢か」

アレクセイ公爵は、私の手を取り、その甲にうやうやしく口づけを落とした。
冷たい唇の感触に、少しだけ背筋がゾクリとする。

「君のような有能な人材がフリーになったとは、僥倖だ」

「は?」

「どうだ? 我が国へ来ないか。好条件で雇おう」

彼の瞳は、獲物を見つけた肉食獣のように妖しく輝いていた。
私の「勘違い」と「新たな労働」の日々が、ここから始まろうとしていることなど、この時の私はまだ知る由もなかったのである。
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