婚約破棄された悪役令嬢(仮)ですが、なぜか餌付けされました。

猫宮かろん

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ガレリア公爵領の中心都市、フロストグラード。
その名の通り、一年中雪と氷に閉ざされたこの街を見下ろす高台に、アレクセイ閣下の屋敷はあった。

「……大きいですね」

馬車の窓からその威容を見上げ、私は感想を漏らした。
黒い石で造られた巨大な城郭風の屋敷。
尖塔が空に突き刺さり、吹雪の中に黒々と浮かび上がる様は、まさに「魔王城」といった風情だ。

「気に入らないか?」

向かいのアレクセイ閣下が不安そうに尋ねてくる。

「いえ、素晴らしいです。石造りは堅牢ですが、あそこまで黒いと熱吸収率は良いものの、夜間の放射冷却が懸念されますね。あと、尖塔の避雷針の形状が古いです。最新の魔道誘導式に変えないと、直撃した際に屋根裏の可燃物が飛びますよ」

「……到着早々、屋根の心配をする令嬢も珍しい」

閣下は苦笑したが、私は真剣だ。
これからここが私の職場であり、生活拠点になるのだ。
安全管理(リスクマネジメント)は基本中の基本である。

馬車が正門をくぐり、エントランスの前で停止した。
重厚な扉が開くと、冷たい風と共に、異様な緊張感が流れ込んでくる。

ずらり。
屋敷の前には、数十人の使用人たちが整列して出迎えていた。
執事、メイド、従僕。
全員が深い礼をしているが、その肩は小刻みに震えている。

(……寒そうですね)

私は同情した。
こんな吹雪の中で整列など、非効率の極みだ。
早く中に入れて温かいスープでも飲ませてあげればいいのに。

アレクセイ閣下が先に降り、手を差し出してくれる。
私はその手を取って馬車を降りた。

ヒュオオオオ……。
北風が私のドレスを煽る。

その瞬間、整列していた使用人たちの喉から「ヒッ……」という小さな悲鳴が漏れたのが聞こえた。

「頭が高いぞ」

アレクセイ閣下が低い声で告げると、使用人たちはバタバタと雪の上に平伏した。
まるで処刑前の囚人のような怯えようだ。

(随分と教育が行き届いているというか……恐怖政治?)

少し引いていると、年配の執事長がおずおずと顔を上げた。
顔色が青白い。

「お、お帰りなさいませ、旦那様。そして……ようこそお越しくださいました、ミーナ様」

彼の視線が私に向けられる。
それは、猛獣の檻に入れられた小動物のような瞳だった。
どうやら、私の悪評――「氷の魔女」やら「気に入らない相手を社会的に抹殺する悪女」やら――が、国境を越えて伝わっているらしい。
もしかしたら、面白がったうちの両親が「娘は猛獣だから気をつけろ」と余計な手紙でも送ったのかもしれない。

私はニッコリと、営業用の完璧な笑みを浮かべた。

「初めまして。ミーナ・フォン・ローゼンです。今日からお世話になります」

「は、はいぃっ! ど、どうぞお手柔らかに……! 命だけは……!」

執事長がガタガタと震え出した。
挨拶をしただけなのに、命乞いをされた。
解せぬ。

「立ち話もなんだ。中へ入ろう」

アレクセイ閣下が私の背中をエスコートする。
私たちは凍りついた使用人たちの間を通り抜け、屋敷の中へと足を踏み入れた。

広大なエントランスホール。
高い天井には豪華なシャンデリア。
壁には歴代当主の肖像画。
威厳と歴史を感じさせる空間だが、私は入った瞬間に眉をひそめた。

「……寒い」

「む? ああ、ここは石造りだからな。冬はこんなものだ」

アレクセイ閣下は何でもないことのように言うが、私は許せなかった。
吐く息が白いではないか。
使用人たちが震えていたのは、私への恐怖だけではなく、単純に寒かったからだ。

私は懐から「魔道温度計」を取り出し、空間にかざした。

「室温八度……。閣下、これは労働環境基準法(私の脳内規定)違反です」

「は?」

「見てください、あの窓! 隙間風が入ってきています。シングルガラスですね? 北国で二重サッシ(ペアガラス)にしていないなんて、暖房費をドブに捨てているようなものです!」

私はツカツカと窓際に歩み寄り、サッシの縁を指でなぞった。

「パッキンも劣化しています。これでは熱損失(ヒートロス)が甚だしい。あそこのメイドさんが鼻を赤くしているのも、この劣悪な断熱性能のせいです!」

指差された若いメイドが「えっ、私?」と驚いた顔をする。

「閣下、即刻リフォームを提案します。窓枠の全交換、および壁への断熱材(断熱魔道シート)の充填。初期投資はかかりますが、五年で元が取れます。やりましょう」

私は拳を握りしめて力説した。
アレクセイ閣下はポカンとしていたが、やがて肩を震わせて笑い出した。

「くくっ……ははは! そうか、寒いか! 『氷の魔女』とあだ名される君が、まさか寒がりだとはな!」

「寒がりではありません! 無駄が嫌いなだけです! この寒さで作業効率が三〇%低下していると仮定すれば、それは由々しき事態なのですよ!」

「分かった、分かったよ。好きにしていい」

彼は涙を拭いながら、執事長の方を向いた。

「セバスチャン。聞いたか?」

「は、はい……?」

執事長も呆気にとられている。

「彼女に『全権』を与える。屋敷の改修、予算の計上、資材の調達……全て彼女の指示に従え。私の許可はいらん」

「ぜ、全権、でございますか!? し、しかし、彼女は……」

「なんだ? 不服か?」

「い、いえ! 滅相もございません!」

セバスチャン執事長は慌てて私に向き直り、深々と頭を下げた。

「あ、あの……ミーナ様。その、お手柔らかに……」

まだ怯えている。
私が「断熱材の中に使用人を埋め込む」とでも思っているのだろうか。

「セバスチャンさん、でしたね」

私は彼の前に立ち、手帳を開いた。

「とりあえず、今すぐ屋敷の図面を持ってきてください。あと、近隣の工務店と魔道具店のリストも。それから、このエントランスに大きな暖炉がありますが、煙突の掃除はいつしましたか?」

「え? あ、えっと……去年の秋に……」

「遅いです。煤が溜まっていますよ。あれでは不完全燃焼を起こして一酸化炭素中毒のリスクがあります。明日の朝一番で業者を呼んでください」

「は、はい!」

「それと、メイド服の生地が薄すぎます。冬用のもっと厚手のものに支給し直しましょう。デザインよりも保温性重視で。予算は閣下のポケットマネーから出しますので」

「……え?」

メイドたちがざわめいた。
「厚手の制服?」「新しいのくれるの?」「ポケットマネー?」とささやき声が聞こえる。

「どうしました? 不満ですか? 動きにくいなら、カイロを貼れるポケットを内蔵させますが」

「い、いえ! 嬉しいです! すごく寒かったので!」

先ほど鼻を赤くしていたメイドが、泣きそうな顔で声を上げた。
他の使用人たちの目にも、私への「恐怖」とは違う色が浮かび始めている。

「よし。では業務開始です。私の部屋はどこですか? そこに指令本部を置きます」

私がパンと手を叩くと、セバスチャンが「こ、こちらへ!」と慌てて案内を始めた。

アレクセイ閣下は、その後ろ姿を満足そうに眺めている。

「……退屈しなさそうだな、これからの生活は」

背後でそんな独り言が聞こえたが、私は既に「廊下の絨毯の厚みを三倍にする見積もり」で頭がいっぱいだったので、聞き流すことにした。

こうして、ガレリア公爵邸における私の「住環境改善(リノベーション)改革」が幕を開けたのである。
悪役令嬢、恐怖の支配を始める……はずが、なぜか使用人たちから「暖房の神様」と拝まれることになるのは、もう少し先の話だ。
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