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「……ふわぁ、よく寝ましたわ!」
私が目を覚ました時、窓の外では太陽がすでに天高くにまで昇っていました。
かつての私なら、日の出前に叩き起こされ、冷たい水で顔を洗われ、即座に「王妃の心得」を暗唱させられていた時間です。
ですが、今の私はただの公爵令嬢。
しかも、王太子に捨てられたばかりの「傷モノ(自称)」です!
「お嬢様、ようやくお目覚めですか。もう午後の一時を回っておりますよ」
呆れたような声とともに、侍女のサーシャがカーテンを開けました。
「いいのよ、サーシャ。私、今日から失業者なんですもの。失業者には失業者の権利というものがあるわ」
「婚約破棄を『失業』と呼ぶ令嬢を、私は初めて見ました。それで、今日のご予定は?」
私はベッドから跳ね起きると、クローゼットを指差しました。
「まずは、あの忌々しいコルセット付きのドレスを全て売り払います! そしてその資金で、私は自由を買いに行くのよ!」
「……本気でございますか? 公爵家には十分な資産がございますのに」
「自分の稼ぎで遊ぶからこそ、自由は輝くの。公爵家の金では、お父様に文句を言われる可能性があるでしょう?」
私は手早く着替えを済ませると、山のようなドレスを台車に積ませて、なじみの商人の元へと向かわせました。
その後、私は地味な茶色のワンピースに身を包み、フードを深く被って公爵家を脱出します。
向かう先は、これまで一度も足を踏み入れたことのない「下町のマーケット」です。
「……くぅ、いい匂い! これよ、これを求めていたの!」
市場の入り口に立った瞬間、香ばしい肉の焼ける匂いと、大衆の熱気が私を包み込みました。
王宮の食事は、どれも上品で薄味で、毒味のせいでいつも冷めていました。
ですが、目の前の屋台で焼かれている串焼きは、脂が滴り、見るからに味が濃そうです。
「おじさん! その一番ギトギトしたやつを一本ちょうだい!」
「はいよ! お嬢ちゃん、随分と景気がいいな。はい、銅貨三枚だ!」
受け取った串焼きに、私は思い切りかぶりつきました。
「……おいひい! 何これ、革命的な美味しさですわ!」
「ガハハ! そりゃあ特製のタレを使ってるからな。そんなに喜んでもらえると、焼き甲斐があるぜ」
口の中に広がるニンニクの香りと、ガツンとくる塩気。
これです。これこそが、私が求めていた「生の実感」というものです。
私は串焼きを片手に、市場の奥へと進んでいきました。
すると、人混みを避けた路地裏から、低く唸るような声が聞こえてきました。
「……っ、ここまでか」
壁に背を預け、腹部を押さえて座り込んでいる男が一人。
黒い騎士服のようなものを着ていますが、その隙間から鮮血が滲んでいます。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出す場面かもしれません。
ですが、今の私は最高に機嫌が良いのです。
私はいつもの「営業用スマイル」を完璧に貼り付け、男の前にしゃがみ込みました。
「こんにちは! いいお天気ですね。そんなところで何をしてらっしゃるんですか? もしかして、新しいタイプの昼寝ですか?」
「……なんだ、貴様は。女……? 見ればわかるだろう、負傷している」
男は鋭い眼光で私を射抜きました。
彫りの深い整った顔立ち。冷徹そうな銀色の瞳。
間違いなく、ただ者ではありません。
「あら、本当。随分と派手に出血されていますわね。このままでは道が汚れてしまいますわ。掃除のおばさんに怒られる前に、なんとかしましょうか?」
「掃除の……? 貴様、私が誰か分かって言っているのか?」
「いえ、全く。通りすがりの親切でちょっとだけ頭のいい失業者です。安心してください、手当ては慣れていますの。王妃教育の中には、戦場での救急措置も含まれていましたから」
私は男の返事も待たず、ワンピースの裾を迷いなく引きちぎりました。
「なっ……! 貴様、正気か!?」
「ええ、正気です。ドレスよりも命の方が大事でしょう? あ、でも、この布代は後で請求させていただきますわね。今の私は金銭感覚がシビアなんです」
私は素早い手つきで、彼の傷口を圧迫し、止血を施しました。
男は苦悶の表情を浮かべながらも、私の手際の良さに目を見開いています。
「……手慣れているな。令嬢のような話し方をする割に、肝が据わっている」
「お褒めいただき光栄です! はい、これで応急処置は完了ですわ」
私は立ち上がり、パンパンと手を払いました。
「さて、私はこれから美味しいデザートを探しに行かなければならないので、これで失礼します。立てますか?」
「……なんとか。礼を言う。私はギルバートだ。名前を教えてもらおうか」
「私はアイーナ。今はただのアイーナです! それではギルバート様、お大事に!」
私は満面の笑みで手を振ると、再び賑やかな市場の中へと消えていきました。
まさか、あの男が隣国アステリアを震え上がらせる「冷血騎士団長」ギルバート公爵だとは、この時の私は一ミリも思っていなかったのです。
一方、路地裏に残されたギルバートは、自分の腹に巻かれた布を呆然と見つめていました。
「アイーナ……か。私の目をまともに見て、あんなに楽しそうに笑う女は初めてだ」
彼は微かに口角を上げると、彼女が去った方向をいつまでも見つめていました。
その頃、王宮では。
「……アイーナは? アイーナはまだ泣きついてこないのか!?」
レオン殿下が、荒れ果てた執務室で叫び声を上げていました。
「殿下、落ち着いてください。アイーナ様は今朝、屋敷中のドレスを売り払い、市場で串焼きを食べていたとの報告が……」
「串焼きだと……!? あの優雅なアイーナが!? バカな、あり得ん! 彼女は私との別れを悲しむあまり、自暴自棄になっているに違いない!」
「……いえ、目撃情報によりますと、これ以上ないほどの笑顔だったそうですが」
「それは強がりに決まっているだろう!!」
勘違いの暴走は、すでに誰にも止められない領域に達していました。
私が目を覚ました時、窓の外では太陽がすでに天高くにまで昇っていました。
かつての私なら、日の出前に叩き起こされ、冷たい水で顔を洗われ、即座に「王妃の心得」を暗唱させられていた時間です。
ですが、今の私はただの公爵令嬢。
しかも、王太子に捨てられたばかりの「傷モノ(自称)」です!
「お嬢様、ようやくお目覚めですか。もう午後の一時を回っておりますよ」
呆れたような声とともに、侍女のサーシャがカーテンを開けました。
「いいのよ、サーシャ。私、今日から失業者なんですもの。失業者には失業者の権利というものがあるわ」
「婚約破棄を『失業』と呼ぶ令嬢を、私は初めて見ました。それで、今日のご予定は?」
私はベッドから跳ね起きると、クローゼットを指差しました。
「まずは、あの忌々しいコルセット付きのドレスを全て売り払います! そしてその資金で、私は自由を買いに行くのよ!」
「……本気でございますか? 公爵家には十分な資産がございますのに」
「自分の稼ぎで遊ぶからこそ、自由は輝くの。公爵家の金では、お父様に文句を言われる可能性があるでしょう?」
私は手早く着替えを済ませると、山のようなドレスを台車に積ませて、なじみの商人の元へと向かわせました。
その後、私は地味な茶色のワンピースに身を包み、フードを深く被って公爵家を脱出します。
向かう先は、これまで一度も足を踏み入れたことのない「下町のマーケット」です。
「……くぅ、いい匂い! これよ、これを求めていたの!」
市場の入り口に立った瞬間、香ばしい肉の焼ける匂いと、大衆の熱気が私を包み込みました。
王宮の食事は、どれも上品で薄味で、毒味のせいでいつも冷めていました。
ですが、目の前の屋台で焼かれている串焼きは、脂が滴り、見るからに味が濃そうです。
「おじさん! その一番ギトギトしたやつを一本ちょうだい!」
「はいよ! お嬢ちゃん、随分と景気がいいな。はい、銅貨三枚だ!」
受け取った串焼きに、私は思い切りかぶりつきました。
「……おいひい! 何これ、革命的な美味しさですわ!」
「ガハハ! そりゃあ特製のタレを使ってるからな。そんなに喜んでもらえると、焼き甲斐があるぜ」
口の中に広がるニンニクの香りと、ガツンとくる塩気。
これです。これこそが、私が求めていた「生の実感」というものです。
私は串焼きを片手に、市場の奥へと進んでいきました。
すると、人混みを避けた路地裏から、低く唸るような声が聞こえてきました。
「……っ、ここまでか」
壁に背を預け、腹部を押さえて座り込んでいる男が一人。
黒い騎士服のようなものを着ていますが、その隙間から鮮血が滲んでいます。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出す場面かもしれません。
ですが、今の私は最高に機嫌が良いのです。
私はいつもの「営業用スマイル」を完璧に貼り付け、男の前にしゃがみ込みました。
「こんにちは! いいお天気ですね。そんなところで何をしてらっしゃるんですか? もしかして、新しいタイプの昼寝ですか?」
「……なんだ、貴様は。女……? 見ればわかるだろう、負傷している」
男は鋭い眼光で私を射抜きました。
彫りの深い整った顔立ち。冷徹そうな銀色の瞳。
間違いなく、ただ者ではありません。
「あら、本当。随分と派手に出血されていますわね。このままでは道が汚れてしまいますわ。掃除のおばさんに怒られる前に、なんとかしましょうか?」
「掃除の……? 貴様、私が誰か分かって言っているのか?」
「いえ、全く。通りすがりの親切でちょっとだけ頭のいい失業者です。安心してください、手当ては慣れていますの。王妃教育の中には、戦場での救急措置も含まれていましたから」
私は男の返事も待たず、ワンピースの裾を迷いなく引きちぎりました。
「なっ……! 貴様、正気か!?」
「ええ、正気です。ドレスよりも命の方が大事でしょう? あ、でも、この布代は後で請求させていただきますわね。今の私は金銭感覚がシビアなんです」
私は素早い手つきで、彼の傷口を圧迫し、止血を施しました。
男は苦悶の表情を浮かべながらも、私の手際の良さに目を見開いています。
「……手慣れているな。令嬢のような話し方をする割に、肝が据わっている」
「お褒めいただき光栄です! はい、これで応急処置は完了ですわ」
私は立ち上がり、パンパンと手を払いました。
「さて、私はこれから美味しいデザートを探しに行かなければならないので、これで失礼します。立てますか?」
「……なんとか。礼を言う。私はギルバートだ。名前を教えてもらおうか」
「私はアイーナ。今はただのアイーナです! それではギルバート様、お大事に!」
私は満面の笑みで手を振ると、再び賑やかな市場の中へと消えていきました。
まさか、あの男が隣国アステリアを震え上がらせる「冷血騎士団長」ギルバート公爵だとは、この時の私は一ミリも思っていなかったのです。
一方、路地裏に残されたギルバートは、自分の腹に巻かれた布を呆然と見つめていました。
「アイーナ……か。私の目をまともに見て、あんなに楽しそうに笑う女は初めてだ」
彼は微かに口角を上げると、彼女が去った方向をいつまでも見つめていました。
その頃、王宮では。
「……アイーナは? アイーナはまだ泣きついてこないのか!?」
レオン殿下が、荒れ果てた執務室で叫び声を上げていました。
「殿下、落ち着いてください。アイーナ様は今朝、屋敷中のドレスを売り払い、市場で串焼きを食べていたとの報告が……」
「串焼きだと……!? あの優雅なアイーナが!? バカな、あり得ん! 彼女は私との別れを悲しむあまり、自暴自棄になっているに違いない!」
「……いえ、目撃情報によりますと、これ以上ないほどの笑顔だったそうですが」
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