王太子が泣きついた。笑顔で婚約破棄を受け入れただけなのに。

黒猫かの

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「お父様、そのビール、朝から三杯目ですわよ」


「いいじゃないか、アイーナ。お前が王太子妃にならなくなったおかげで、我が家はもう王家に気を遣う必要がなくなったんだ。これからは毎日が祝祭だぞ!」


ルベル公爵家の食堂。そこには、およそ高貴な公爵家とは思えない、極めてだらしない……もとい、アットホームな光景がありました。


私の父であるルベル公爵は、もともと堅苦しいことが大嫌いな人です。


私が婚約破棄されたと聞いた夜、彼は「よし、今日は赤飯だ!」と叫んで、蔵の高級酒を全部開けたほどですから。


「まあ、確かにお父様の言う通りですわね。私も今朝は、コルセットの代わりにゴムのウエストポーチを巻いて市場へ行くつもりでしたの」


「はっはっは! それはいい。だがアイーナ、門の外が少し騒がしいようだぞ?」


お父様が窓の外を指差した瞬間。


「アイーナ! アイーナ・ルベル! 迎えに来たぞ、私のアモーレ!」


……聞き覚えのある、というより、二度と聞きたくなかった声が屋敷中に響き渡りました。


私は手に持っていたトーストを、静かに皿へ戻しました。


「お父様。今、門の外で『アモーレ』などという不吉な呪文を唱えた者がいたようなのですが」


「ああ、聞こえたな。どうやら、お前の元婚約者が、恥という概念をどこかに置き忘れてやってきたらしい」


私は盛大にため息をつくと、営業用スマイルを「最強設定」で貼り付け、玄関へと向かいました。


そこには、白馬(本当に白馬でした)に乗ったレオン殿下と、その後ろで死にそうな顔をして馬の尻尾を掴んでいるマリエル様の姿がありました。


「ごきげんよう、レオン殿下。朝っぱらから近所迷惑なパフォーマンス、誠に恐れ入ります。本日はどのようなご用件でしょうか? もし、先日お返しした婚約指輪の『鑑定書』をお探しでしたら、あちらのゴミ箱の中かもしれませんわ」


私は門の隙間から、完璧な礼法で挨拶しました。


レオン殿下は馬から飛び降りると、私の手を取ろうとして……私が素早く背後に手を隠したので、空を切りました。


「アイーナ! 隠さなくていい。昨日の使いに対する返答、私は深く感動したぞ!」


「……どの部分に感動する要素があったのか、小一時間ほど問い詰めたいですわね」


「『時給が金貨十枚』! それはつまり、私との時間はそれほどまでに価値がある、という意味だろう? そして『ゴミを放り込むな』! 私という最高級の宝石を、他の女と同じ括りにはできないという、激しい独占欲の表れだ!」


「……あの、殿下。私、翻訳魔法でもかかっていますの? それとも、殿下の耳には私の声が別の言語に変換されて届いているのかしら」


私は本気で、後心療内科の紹介状を書いてあげようかと考えました。


「さあ、アイーナ。このマリエルも連れてきた。彼女はお前を慕い、お前から淑女の教育を受けたいと泣いて願ったのだ!」


「……殿下、嘘を言わないでください。私は『絶対に嫌です、怖いから!』って言いました!」


後ろでマリエル様が、小さな声で、しかしはっきりと反論しました。


ですが、レオン殿下はそれを「照れ隠し」として処理したようです。


「アイーナ、お前がいなくなってから、王宮の書類仕事が全く進まないんだ! マリエルもお茶を淹れるたびに火傷をしている! やはりお前がいないと、私の愛は完成しない!」


「……要するに、ただの『便利な事務員兼メイド』が欲しいだけではありませんか?」


私の声から、少しずつ笑顔が消え、絶対零度の冷気が漂い始めました。


「いいえ、殿下。お断りします。私は現在、失業生活をエンジョイすることに全霊を注いでおります。他人の世話を焼く暇があるのなら、自分のカカトの角質でも削っておりますわ」


「そんな強がりを……! アイーナ、お前は昔からそうだ。私に甘えたいくせに、いつも完璧な自分を演じようとする。いいんだ、もう無理をしなくて。さあ、私の胸に飛び込んでこい!」


レオン殿下が両手を広げました。


その瞬間、私の背後から「シュボッ」とマッチを擦る音が聞こえました。


「おい、若造。うちの娘に触ろうとするな。火傷するぞ?」


いつの間にか私の隣に立っていたお父様が、ビールのジョッキを片手に、もう片方の手で殿下を指差しました。


「ルベル公爵! これは失礼した。だが、私はアイーナを連れ戻しに……」


「無理だね。今のアイーナはな、俺のビールの『つまみ』を作る大事な任務があるんだ。王妃教育なんかより、よっぽど国家の存続に関わる重大な仕事だぞ?」


「……つまみ、だと!?」


「そうだ。昨日のアイーナが作った『手羽先のピリ辛揚げ』は最高だった。あんな素晴らしい料理を作れる女を、お前のような書類も読めない男に返すわけがないだろう。帰れ帰れ! 塩を撒け!」


お父様の言葉に、使用人たちが一斉にバケツを持って現れました。


「な、なんなんだこの家は! 狂っている! アイーナ、お前も何か言ってやれ!」


「はい。殿下、お父様の言う通りです。私、次は『モツ煮込み』に挑戦する予定ですので、お忙しい殿下のお相手をしている時間はございません。それでは、さようなら!」


私は門を勢いよく閉めると、ガチャンと頑丈な鍵をかけました。


「アイーナ! アイーナーーー!! 私は諦めないぞ! 明日も、明後日も、お前が素直になるまで通い詰めてやる!!」


門の向こうで、レオン殿下が悲恋のヒーローのような叫びを上げていました。


「……お父様。明日から門の前に『猛犬注意』の看板を出してもよろしいでしょうか?」


「いいぞ。ついでに『王族立ち入り禁止』の立て札も作っておけ。あ、それと煮込み料理には大根を多めに入れてくれよ」


「分かりましたわ。……ふぅ、自由って、意外と忙しいものですわね」


私はやれやれと首を振りながら、お父様と一緒に食堂へと戻りました。


まさか、このやり取りを、屋敷のすぐ近くの木の上から、ギルバートが見ていたとも知らずに。


「……モツ煮込み、か。……悪くない」


ギルバートは静かに呟くと、風のように姿を消しました。
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