王太子が泣きついた。笑顔で婚約破棄を受け入れただけなのに。

黒猫かの

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「……アイーナ。私は自分の家に戻ってきたはずなのだが、ここはどこの天国だ?」


夕刻、執務から戻ったギルバート様が、玄関ホールに足を踏み入れた瞬間に呆然と立ち尽くしました。


一週間前まで、無機質な黒石と磨き上げられただけの武具が並んでいた場所には、今や目に優しい観葉植物が配置され、ほのかに柑橘系の香りが漂っています。


「お帰りなさいませ、ギルバート様! 天国だなんて、最高の褒め言葉ですわ。……カイルさん、ギルバート様の外套を」


「はっ、アイーナ様! 三秒以内に除菌と脱臭を済ませ、クローゼットへ格納いたします!」


エプロン姿のカイルが、音もなく背後に現れ、流れるような動作でギルバート様の外套を回収していきました。


「……早すぎる。アイーナ、私の屋敷の者が皆、分身魔法でも覚えたのか?」


「いいえ、単なる『動線改革』と『意識改革』の結果ですわ。……ところでギルバート様、本日のお客様はどちらにいらして?」


「ああ。……私の屋敷に『アステリアの性悪令嬢』が入り込んだと聞いて、偵察にやってきた隣の領主、レーヴェン侯爵夫妻だ」


ギルバート様が溜息をつきながら、応接室の方を指差しました。


「アイーナ、彼らはかなり口うるさいぞ。今のこの『浮かれた』内装を見たら、公爵家の品位を疑うと騒ぎ出すかもしれん」


「まあ、それは楽しみですわね! 品位という言葉を武器にする方々こそ、本当の『心地よさ』に飢えているものですから」


私は営業用スマイルを、最高出力の「慈愛と計算」モードでセットしました。


応接室の重厚な扉を開けると、そこには眉間に深いシワを寄せたレーヴェン侯爵と、扇子を激しく仰いでいる侯爵夫人が座っていました。


「……ようやく現れたか、ギルバート公爵。そして、あなたが例の……」


「初めまして、レーヴェン侯爵閣下。ヴォルフ公爵邸・特別顧問のアイーナ・ルベルでございます。本日はお忙しい中、当家の『経営相談会』へようこそ!」


「……相談会だと? 私は、お前の素行を正しに来たのだ!」


侯爵が机を叩こうとしましたが、その瞬間にマリエル様が笑顔でスッと「最高級のクッション」を彼の拳の下に滑り込ませました。


「……っ!? なんだ、この柔らかさは……」


「閣下、お手が痛まないように。……さあ、こちらはお口直しの『冷製ハーブティー』でございます。本日の外気温に合わせて、ちょうど十五度に冷やしておりますの」


マリエル様が優雅に、しかし素早くお茶を差し出しました。


夫人が不機嫌そうに一口啜ると、その表情が劇的に緩みました。


「……あら。……なんて爽やか。喉の奥にこびりついていた不快な熱が、すうっと引いていくようですわ」


「当然ですわ。夫人の今日のドレスの色から、少し神経が高ぶっていらっしゃるとお見受けしましたので、リラックス効果の高いハーブを配合いたしましたの」


私は夫人の隣に座り、絶妙な距離感で微笑みかけました。


「……お、お黙りなさい! お茶が美味しいくらいで、私が騙されると……」


「まあ、素敵な扇子ですわね。ですが、その仰ぎ方では肩に余計な力が入ってしまいます。……皆様、休憩(おもてなし)の時間ですわよ!」


私がパチンと指を鳴らすと。


元・騎士たちが一斉に現れ、侯爵には「肩の疲れを取る最新式マッサージ」、夫人には「肌を輝かせる美容液の試供品」を提示しました。


「な、なんなんだ、この屋敷の奴らは……!? 動きに無駄がないどころか、私が何を求めているか、言わずとも察して……」


「それが『アイーナ・メソッド』ですわ、侯爵閣下。……さて、皆様。リラックスされたところで、本題に入りましょうか。レーヴェン領の昨年度の小麦収穫量、一割ほど落ち込んでいらっしゃいますよね?」


「……っ! なぜそれを貴様が知っている!」


「帳簿を読むのは、私の趣味の一つですので。……もしよろしければ、この公爵邸を劇的に変えた『管理システム』、月額料金で皆様の領地にも導入いたしませんこと?」


「…………導入だと?」


「ええ。人件費を三割削減し、かつ幸福度を上げる。……その余った資金で、夫人は新しいドレスを。侯爵は、お望みのワインセラーを作れますわ。……さあ、ご検討いただけますかしら?」


私は懐から、あらかじめ用意しておいた『領地改革契約書』を取り出しました。


三十分後。


「……アイーナ嬢。君は、天使か何かかね? あ、いや、契約の件、前向きに考えさせてもらうよ」


「来週、またお茶会にお邪魔してもよろしいかしら? その美容液、もっと詳しく知りたいの!」


ホクホク顔で帰路につく侯爵夫妻を見送った後、私はようやく肩の力を抜きました。


「ふぅ。……ギルバート様、いかがでしたか?」


「……アイーナ。貴様、偵察に来た人間を、たった三十分で『顧客』に変えたのか」


ギルバート様が呆れを通り越して、感心したように私の腰を抱き寄せました。


「……恐ろしい女だ。このままでは、この国の貴族全員が、貴様の財布の中に収まってしまうのではないか?」


「あら、それは光栄な評価ですわ。……でも、ギルバート様。私が本当に手に入れたいのは、貴族たちの財布ではなく、……もっと別のものですわよ?」


「……ほう。それは、なんだ?」


ギルバート様の銀色の瞳が、甘く私を見つめました。


「……美味しい煮込み料理を、誰にも邪魔されずに食べられる『平和』ですわ!」


「……相変わらず、貴様という女は……」


ギルバート様が噴き出し、そのまま私の額に軽いキスを落としました。


その様子を、物陰からマリエル様が「ヒューヒュー!」と茶化していると。


「お、お嬢様ーーー!! 門の外に……門の外に、また変なものが届いています!!」


カイルの悲鳴が響き渡りました。


「今度は何ですの? 殿下からのポエムの詰め合わせかしら?」


「いいえ! 『アイーナを奪還するために、私は隣国の王を説得して、この国を買い取ることにした!』という内容の手紙を添えた……大量の“金塊”が積み上げられています!!」


「………………アイツ、本当にいい加減にしろですわ!!」


レオン殿下の暴走は、ついに「国家買収」という斜め上の方向へと突き抜けていました。
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