悪役令嬢は、その婚約破棄(ボーナス)を待っていた!

黒猫かの

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廊下を全力疾走していた私は、王宮の出口が見える手前で、急ブレーキをかけた。

「……待てよ?」

ドレスの裾を握りしめたまま、私は立ち止まる。

廊下の床に、ヒールの高い靴がカツン、と鋭い音を立てた。

私の脳内で、高速回転するそろばんが警鐘を鳴らしている。

『後ほど請求します』と言ってはみたものの。

相手はあの、約束を空気よりも軽く考えているエリオット殿下だ。

ほとぼりが冷めた頃に請求書を送ったところで、「記憶にない」「知らぬ存ぜぬ」で踏み倒されるリスク(可能性)が極めて高い。

(回収不能債権(バッドデット)になる前に……確実な『証拠』が必要ね)

鉄は熱いうちに打て。

借用書は、相手が感情的になっている隙に書かせろ。

これはオルコット公爵家の家訓……ではないけれど、私が独自に編み出した処世術の第一条だ。

私はくるりと踵を返した。

今来た道を、また全力で戻る。

ちょうどその時、大広間の扉が開き、肩を怒らせたエリオット殿下がのっしのっしと出てくるところだった。

隣には、まだメソメソと嘘泣きを続けているミナ嬢もいる。

「おい! メメリア! 貴様、まだいたのか!」

私を見つけた殿下が、鬼の首を取ったような顔で指を差してきた。

「ふん、やはり口では強がっていても、私との別れが惜しくなったのだろう? 今さら泣いて謝っても遅いぞ!」

「いいえ、戻ってきましたのは、事務処理上の不備に気づいたからです」

私は懐から、先ほどとは別の、さらに分厚い羊皮紙の束を取り出した。

ズシリ、と重い音がするほどの厚みだ。

「な、なんだそれは……?」

「『婚約破棄に伴う合意解約書』および『慰謝料・立替金支払い誓約書』です。口頭での契約解除は、後々『言った言わない』のトラブルになりかねません。ビジネスの基本は書面契約ですから」

私は近くにあった飾り台(高価な花瓶が置かれていたが、邪魔なので床に直置きした)の上で、羊皮紙をバサァッ!と広げた。

まるで巻物のように長い紙が、廊下の床まで垂れ下がり、さらにコロコロと転がっていく。

エリオット殿下とミナ嬢が、ぽかんと口を開けた。

「な……なんですか、この長さはぁ……?」

ミナ嬢が引きつった声で尋ねる。

「過去五年間の明細ですわ。さあ、殿下。こちらの『甲』の欄にサインをお願いします」

私はペンを突きつけた。

エリオット殿下は、垂れ下がった紙の項目に目を走らせ、顔を青ざめさせた。

「き、貴様……なんだこの金額は! 『精神的苦痛による慰謝料』は百歩譲ってわかるとして、その下の『業務用茶葉代(最高級品)』とか『馬車レンタル遅延損害金』とか、この『ミナ嬢ドレス修繕費』とはなんだ!」

「お忘れですか? 先月の夜会で、ミナ嬢がワインをこぼして台無しにしたドレス。あれ、私の予備のドレスをお貸ししたものでしたよね? クリーニングでは落ちなかったので、全額弁償扱いにさせていただきました」

「そ、そんな細かいことまで……! 愛はないのか、愛は!」

「愛でドレスは直りませんし、愛で業者は動きません」

私はきっぱりと言い放つ。

「それに、殿下。この金額が高いとおっしゃいますが、これでも『王族割引』を適用した数字ですのよ?」

「割引だと……?」

「ええ。本来なら、殿下が私の貴重な青春時代(タイムリミット)を五年間も独占し、浪費させたことに対する『機会損失費』も計上したいところですが、それは涙を飲んでカットしました。これぞ私の精一杯の慈悲です」

「ぐぬぬ……!」

言葉に詰まる殿下に、さらに畳み掛ける。

「もし、この金額に不服がおありで、サインを拒否されるのであれば……婚約破棄の話は『白紙』に戻させていただきます」

「なっ!?」

「簡単な理屈です。合意解約がなされない以上、私はまだあなたの婚約者。明日からも王宮に通い、殿下の無駄遣いを監視し、ミナ嬢の不始末をネチネチと指摘し続けることになりますが……よろしいですか?」

その言葉の威力は絶大だった。

エリオット殿下の顔色が、青から白へ、そして土気色へと変わっていく。

想像しただけで吐き気がしたのだろう。

私の監視下での生活に戻るか。

それとも、金を払って自由になるか。

究極の二択を迫られた殿下の判断は早かった。

「か、書く! 書けばいいのだろう、書けば!」

「エリオット様ぁ! そんな大金、払えませんよぉ!」

ミナ嬢が袖を引いて止めるが、殿下はそれを振り払った。

「うるさい! あの女の小言を聞き続けるくらいなら、借金をした方がマシだ!」

殿下は私からペンをひったくり、羊皮紙に殴り書きで署名をした。

カリカリカリッ!

怒りと焦りが込められた、筆圧の強いサイン。

最後にドン!とインクが飛び散るほどの勢いでペンを置く。

「これで文句ないだろう! 二度と私の前に現れるな!」

「ええ、もちろん。契約成立ですね」

私は素早く羊皮紙を回収し、インクが乾いているかを確認してから、丁寧に巻き取った。

この署名さえあれば、たとえ国王陛下相手だろうと裁判で勝てる。

これはただの紙切れではない。

私の自由へのパスポートであり、当面の生活を支える軍資金(ボーナス)だ。

「ありがとうございます、エリオット殿下。その男らしい決断力、初めて尊敬いたしましたわ」

「皮肉か!」

「まさか。心からの賛辞です。……それでは、お振込期限は来月末となっておりますので、お忘れなきよう」

私は深々とお辞儀をした。

今度こそ、本当にさようならだ。

書類を懐にしまい込み、私は再び走り出した。

背後から「あーっ! 私の名前も連帯保証人の欄に書かれてるじゃないですかぁ!」というミナ嬢の悲鳴が聞こえた気がしたが、都合よく耳が聞こえないふりをした。

連帯保証人は大事だ。

殿下が払えなかった時のための保険(リスクヘッジ)は、何重にもかけておく必要がある。

王宮を出て、待機させていた公爵家の馬車に飛び乗る。

「お嬢様、早かったですね」

御者が驚いた顔で振り返った。

「ええ、商談がスムーズにまとまったの。お父様の待つ屋敷へ急いで。荷造りは三十分で終わらせるわ」

「は、はい!」

馬車が動き出す。

遠ざかる王宮の尖塔を窓から眺めながら、私は懐の重みを確かめて、ふふっと笑った。

「さて……これで第一段階はクリア。次は、逃亡先の確保ね」

隣国、アルカディア王国。

軍事と商業で栄えるあの大国なら、私のような「金にがめつい女」でも、能力次第で生きていけるはずだ。

何より、そこには私の尊敬する『鉄血宰相』がいるという噂がある。

徹底した合理主義で国を富ませたという、顔も知らないその人物。

彼(もしくは彼女かもしれないけれど)のいる国なら、きっと私のこの性格も、少しは役に立つかもしれない。

「待っていなさい、新天地。そしてさようなら、私の赤字続きの過去」

馬車は石畳を蹴り、夜の闇を切り裂いて走る。

私の前途は明るい。

少なくとも、計算上はそう出ているはずだ。

……もっとも。

この時の私はまだ知らなかった。

その計算式に、『運命のいたずら』という不確定変数が含まれていないことを。

そして、逃げ込んだ先の隣国で、まさかあんな事態に巻き込まれることになろうとは。

「あら、計算機の電池が切れそうだわ」

手元の液晶がチカチカと点滅するのを眺めながら、私は呑気にそんなことを考えていたのだった。
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