悪役令嬢は、その婚約破棄(ボーナス)を待っていた!

黒猫かの

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公爵邸の重厚な扉が開くと同時に、私は玄関ホールに滑り込んだ。

出迎えた老執事が目を丸くする。

「お、お嬢様? 夜会に行かれたのでは……まだ始まって一時間も経っておりませんが」

「セバス、緊急事態よ。今すぐ『プランB』を発動させて」

「プランB……といいますと、『王家との縁が切れた際の緊急撤退(エスケープ)計画』でございますか?」

「ええ、それよ。私の部屋にある金庫の中身と、換金性の高い宝石類、それから実用的なドレスを三着だけトランクに詰めて。思い出の品とか、エリオット殿下からもらったプレゼントは全部置いていくわ。あれは産業廃棄物よ」

私は矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、階段を駆け上がった。

「かしこまりました。……ということは、ついに?」

「ええ、祝杯の用意をしてもいいくらいよ。――婚約破棄(ディール・ブレイク)よ!」

セバスが一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに「おめでとうございます」と深々と頭を下げた。

この家の使用人たちもまた、私がどれだけ王太子の世話に苦労していたかを知っているのだ。

私はそのまま、父の執務室へと飛び込んだ。

「お父様! ただいま戻りました!」

執務机で葉巻を燻らせていた父、オルコット公爵は、眉一つ動かさずに私を見た。

「早いな、メメリア。ダンスの一曲も踊らずに帰ってきたのか?」

「踊る相手がいなくなりましたので。……ご報告いたします。エリオット殿下より、正式に婚約破棄を申し渡されました」

私は懐から、先ほど殿下に署名させた羊皮紙を取り出し、父の机の上にバン!と叩きつけた。

父はゆっくりと羊皮紙を手に取り、眼鏡の位置を直しながら内容を確認する。

「ほう……『慰謝料』に『立替経費』……それに『精神的苦痛による特別手当』か。ふむ、殿下にこれをサインさせたのか?」

「ええ。証人も多数おります。ミナ嬢も連帯保証人として名を連ねておりますわ」

父の口元が、ニヤリと歪んだ。

「素晴らしい。相変わらず良い仕事をする。あの放蕩王子の借金癖には、我が家も頭を抱えていたところだ。これで不良債権を切り離せる」

やはり、父だ。

「娘が傷ついたのではないか」という心配よりも、「家の損益」を真っ先に考える。

私がこういう性格に育ったのは、間違いなく遺伝だ。

「それで? これからどうするつもりだ。王命による婚約だった以上、陛下が黙っていないぞ。明日にも呼び出しがかかるだろう」

「ですので、高飛びします」

「高飛び?」

「ええ。陛下は話のわかる方ですが、今の王宮は人手不足。私の事務能力を惜しんで、なし崩し的に復縁、あるいは王宮の文官としてタダ働きさせられるリスクがあります」

私は壁に掛かっていた大陸地図へと歩み寄った。

指し棒を手に取り、西の国境をパンッと叩く。

「目指すは隣国、アルカディア王国。軍事力と経済力で急成長中のあの国なら、私の『数字に強い』というスキルは高く売れるはずです」

「なるほど。新興市場への参入か。悪くない判断だ」

父は頷き、引き出しから鍵を取り出した。

「メメリアよ。お前がいつかこうして国を出る時のために、用意しておいたものがある」

父が投げ渡してきたのは、小さな布袋だった。

受け取ると、ジャラリと重い音がする。

中を見ると、最高純度の金貨と、見たことのない紋章が刻まれた手形が入っていた。

「これは……?」

「アルカディアの商業ギルドへの紹介状と、当面の活動資金だ。……いつかエリオット殿下が愛想を尽かされる日は来ると思っていたが、まさかお前から引導を渡して金をふんだくってくるとはな」

父は愉快そうに笑い、椅子から立ち上がった。

そして、私の肩にポンと手を置く。

「行け、メメリア。お前の価値を正しく評価しない組織に、これ以上しがみつく必要はない。自分の人生は、自分で経営しろ」

「お父様……」

少しだけ、胸が熱くなる。

これが普通の親子なら、抱き合って涙する場面かもしれない。

しかし、私たちはオルコット家だ。

私は背筋を伸ばし、キリッとした表情で答えた。

「はい! 必ずや黒字化して、倍にしてお返しします!」

「うむ。利子はトイチで頼むぞ」

「暴利ですね。交渉の余地ありですわ」

私たちは不敵な笑みを交わし合った。

これで挨拶は十分だ。

私は部屋を出て、自分の寝室へと急いだ。

部屋に入ると、すでにセバスとメイドたちが驚異的な速さで荷造りを終えていた。

「お嬢様、準備完了です。トランク二つに収めました」

「早いわね! さすが我が家の精鋭たちだわ」

「ドレスは動きやすいものを中心に。宝石類は裏地に縫い付けてあります。それから、携帯食料として最高級ビーフジャーキーも入れておきました」

「完璧よ。……あれ? あそこにある大きな肖像画は?」

部屋の隅に、エリオット殿下と私が並んで描かれた、巨大な婚約記念の肖像画が立てかけられていた。

メイド長が真顔で尋ねる。

「粗大ゴミとして出すには手続きが必要ですので、燃やして暖炉の燃料にしようかと」

「名案ね。よく燃えそうだわ。灰は庭の肥料にしてちょうだい。少しは役に立つでしょう」

「かしこまりました」

躊躇のない会話。

私は旅支度に着替えた。

動きやすいパンツルックに、フード付きのローブ。

貴族令嬢としてはありえない格好だが、これから国境を越えるのだ。ドレスの裾など邪魔なだけである。

「よし、行くわよ!」

私はトランクを片手に、窓枠に足をかけた。

「お嬢様、玄関から出ないのですか?」

「正面から出たら、王宮の追手が来た時に鉢合わせするかもしれないでしょ? 夜逃げの基本は裏口、もしくは窓よ!」

私は幼い頃、木登りをして計算ドリルをサボっていた経験を活かし、庭の木へと飛び移った。

「お嬢様、どうかお達者でー!」

「慰謝料の請求書、ちゃんと毎月送りつけておきますからー!」

メイドたちのハンカチを振る姿に見送られ、私は闇夜に紛れて屋敷の裏口へと走った。

裏門には、すでに父の手配した、紋章のない地味な馬車が待機していた。

「さあ、出発して! 目的地は西の国境!」

馬車に飛び乗り、御者に告げる。

車輪が回り出し、ガタゴトと音を立てて進み始めた。

窓の外を流れる、見慣れた街並み。

生まれ育った街だが、未練は……計算してみたが、驚くほどゼロだった。

(さようなら、王都。さようなら、無能な上司(元婚約者)。私の新しい職場は、もっと西にあるわ!)

こうして、悪役令嬢メメリアの、夜逃げ……もとい、戦略的撤退(ストラテジック・エスケープ)が始まった。

しかし、私は一つだけ、重大な計算ミスをしていた。

これから向かう国境検問所。

そこは現在、隣国から「ある重要人物」がお忍びで視察に来ているため、警備レベルが最高ランクに引き上げられているということを。

「ふふふ、この調子なら明日の朝には国境ね。スムーズすぎて怖いくらいだわ」

馬車の中で足を組み、金貨を数えながらほくそ笑む私。

その先に、私の計算機でも弾き出せない「面倒な出会い」が待っているとは知らずに。
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