悪役令嬢は、その婚約破棄(ボーナス)を待っていた!

黒猫かの

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「……ふぅ。やっと大人しくなりましたね」

私はギルバート殿下をベッドに寝かせ、布団を顎までしっかりと掛け直した。

先ほどまで廊下で元婚約者(エリオット)を恫喝していたとは思えないほど、今の殿下は無防備で弱々しい。

「無茶をしないでください。病人は大人しく寝ているのが仕事(タスク)です」

私が呆れながら冷えピタ(魔法冷却シート)を貼り直すと、殿下は熱っぽい瞳で私を見上げたまま、私の手首を離そうとしなかった。

「……メメリア」

「はいはい、何でしょう。お水ですか? それとも追加の氷枕?」

「……あいつらは、本当に帰ったか?」

「ええ。殿下の『関税300%』という脅しが効いたようで、蜘蛛の子を散らすように逃げて行きましたよ。国境に着く頃には、タイヤが磨耗してパンクしているでしょうね」

私が淡々と報告すると、殿下は安堵の息を漏らした。

「そうか……。よかった」

「まったく。一国の宰相が、私情で関税を弄るなんて職権濫用もいいところです。後で議会で追求されても知りませんよ?」

「……構わん。君を連れて行かれる損失(ロス)に比べれば、安いものだ」

殿下は握っていた私の手を、自身の胸元へと引き寄せた。

ドクン、ドクンと、早鐘を打つ心音が掌から伝わってくる。

「……殿下?」

「怖かったんだ」

「え?」

「君が……『元婚約者』という言葉に絆されて、帰ってしまうんじゃないかと。……彼には、私にはない『過去の共有時間』があるからな」

弱気な発言。

普段の「鉄血宰相」からは想像もできない、子供のような本音。

私は溜息をつき、空いているもう片方の手で、殿下の頬をペチペチと軽く叩いた。

「しっかりしてください。熱で思考回路がバグっていますよ」

「……バグでいい。本音だ」

「あのですね。過去の共有時間なんて、私にとっては『未回収の貸付期間』でしかありません。あんな不良債権(エリオット)の元に戻るくらいなら、無人島でココナッツの貿易をした方がマシです」

私が言い切ると、殿下はくっくと喉を鳴らして笑った。

「……はは。君らしい答えだ」

「それに」

私は殿下の顔を覗き込んだ。

「私は今、ここの『労働条件』に概ね満足しています。給与、福利厚生、そして何より……」

「何より?」

「……上司(ボス)が、話のわかる人ですから」

私が少し視線を逸らして言うと、殿下は目を丸くし、それから蕩けるような笑顔を見せた。

「……そうか。それは、最高の評価だな」

殿下は私の手をさらに強く握りしめた。

熱のせいか、掌が汗ばんでいる。でも、不思議と不快ではない。

「メメリア。……私は、君を離さないぞ」

殿下の声のトーンが変わる。

甘く、重く、粘着質な響きへ。

「君は私の右腕だ。この国の財政を立て直すために不可欠なパーツだ」

「ええ、存じております」

「だが……それだけじゃない」

殿下は私の手を持ち上げ、指の関節一つ一つに、崇めるように唇を這わせた。

「ひゃっ……!?」

「君が他の男の元に行くことを想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。仕事が手につかない。食事が喉を通らない。……この症状の病名を、君ならどう診断する?」

キス、キス、キス。

熱い唇が、私の指先を愛撫する。

ぞわり、と背筋に電流が走る。

「で、殿下! それは……医学的には『依存症』および『独占欲過多』です! 適切なカウンセリングが必要です!」

「違うな」

殿下は私の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「これは『恋』だ、メメリア。……私は、君を女性として欲している」

直球(ストレート)。

変化球なしの、剛速球がど真ん中に突き刺さる。

私はパクパクと口を開閉させた。

「こ、こ……」

「君が私以外の男に笑顔を向けるのも、私以外の計算機を叩くのも許さない。君の人生という帳簿の『配偶者欄』に、私の名前を書き込みたい」

「は、配偶者欄!? そ、それは重大な契約変更です! 事前の稟議と株主総会の承認が……!」

「私が承認する。私が法だ」

暴君だ。この人は、熱が出るとただのワガママな暴君になる。

殿下は私の手を頬に擦り寄せ、猫のように目を細めた。

「……逃げられると思うなよ、メメリア。私は一度手に入れた優良資産は、墓場まで手放さない主義なんだ」

「……うぅ」

完全にロックオンされた。

逃げ場はない。

というか、こんな熱っぽい目で見つめられて、弱った声で懇願されたら、逃げる気力も削がれてしまう。

(……悔しいけど。この独占欲が、今の私には心地いいなんて)

私は観念して、殿下の汗ばんだ髪を撫でた。

「……わかりました。善処します」

「善処?」

「『前向きに検討する』という意味の、ビジネス用語です。……とりあえず今は寝てください。契約交渉は、熱が下がって、頭が冷えてから再開します」

「……忘れるなよ。言質は取ったぞ」

殿下は満足そうに微笑むと、安心したのか、急速に睡魔に襲われたようだった。

私の手を握ったまま、まぶたがゆっくりと落ちていく。

「……メメリア……私の……大事な……」

寝言のように呟き、殿下は深い眠りに落ちた。

部屋に、静かな寝息だけが響く。

私は、握られたままの手をそっと引いてみた。

……びくともしない。

「……完全に『手錠』じゃない、これ」

私は苦笑した。

この手を振りほどいて部屋を出ることもできる。

でも、私はそうしなかった。

椅子に座り直し、もうしばらく、この手錠(拘束)に付き合ってあげることにした。

「……仕方ないわね。残業代、高くつきますよ?」

眠る殿下の寝顔に向かって、私は小さく呟いた。

窓の外では、月が静かに輝いていた。

私の心拍数はまだ正常値に戻っていないけれど、不思議と悪い気分ではなかった。

(さて、この『独占契約』……どうやって有利な条件で締結しようかしら)

私の頭の中で、そろばんが弾かれる音が、いつもより少しだけ優しいリズムを刻んでいた。
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