悪役令嬢は、その婚約破棄(ボーナス)を待っていた!

黒猫かの

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エリオット殿下とミナ嬢が強制送還されてから、一週間。

王宮の宰相執務室には、久方ぶりの静寂と平和が戻っていた。

「……素晴らしい」

私は決裁済みの書類の山をトントンと整え、満足げに呟いた。

「邪魔が入らないと、こうも業務効率が上がるとは。今日の予定(タスク)、午前中でコンプリートです」

「ああ。君のおかげで、私も久々に定時で帰れそうだ」

向かいのデスクで、ギルバート殿下が羽ペンを置き、優しく微笑んだ。

窓からは柔らかな日差しが降り注ぎ、鳥のさえずりが聞こえる。

(……なんて快適な職場環境(オフィス))

私は淹れたてのコーヒーを殿下のデスクに置いた。

殿下はそれを一口飲み、ほう、と息をつく。

「美味い。……やはり、君のコーヒーがないと調子が出ないな」

「恐縮です。豆の焙煎度合いを、殿下の疲労度に合わせて調整しておりますので」

「完璧な管理だ。……これで、あとは結婚式の準備さえ整えば、何も言うことはないのだが」

殿下は何気なく言った。

その言葉に、私はカップを持つ手をピタリと止めた。

「……結婚式、ですか」

「うん? ああ。君も知っての通り、式典の準備は着々と進んでいる。引き出物も決まったし、招待状の発送も終わった。……何か問題でも?」

殿下は不思議そうに首を傾げる。

問題。

物理的な問題はない。予算も完璧だし、進行表(スケジュール)にも遅れはない。

けれど。

私の胸の奥で、小さな「違和感」という名の計算ミス(エラー)が点滅していた。

(……何かが、引っかかる)

私は自席に戻り、愛用の計算機を叩くふりをしながら、思考を巡らせた。

第18話で、私たちは「婚姻契約書」にサインをした。

条件闘争の末、互いに納得して合意した。

法的にも、実務的にも、私たちは婚約者だ。

しかし。

(……あの時、プロポーズしたのは『殿下』からだった)

(条件を提示したのも『殿下』)

(「愛している」と言ったのも『殿下』)

私は?

私はただ、「条件が良いから」という理由でサインし、「悪くない取引だ」と頷いただけ。

つまり、このM&A(合併)において、私はあくまで「買収される側」のスタンスなのだ。

カチャ、カチャ、カチャ……ッターン!

私の指が、激しくエンターキーを叩いた。

「……気に食わない」

「えっ? 何か言ったか?」

「独り言です」

私は殿下に笑顔を向けつつ、内心で舌打ちをした。

私はメメリア・オルコット。

自分の人生は自分で経営し、主導権を握ることを信条とする女だ。

それなのに、人生最大のプロジェクトである「結婚」において、相手のペースに乗せられたままゴールしていいのか?

『君を幸せにする』と言われて、『はいお願いします』とぶら下がるだけでいいのか?

(否! 断じて否!)

私のプライド(貸借対照表)がNOと叫んでいる。

対等なパートナーシップとは、互いにリスクを取り、互いにビジョンを提示し合うこと。

彼が「愛」を提示したなら、私も同等の「何か」を提示し、バランスシートを均衡させなければならない。

そう、例えば――。

「……私からの、逆提案(カウンターオファー)」

私が小さく呟いた時、殿下が席を立って近づいてきた。

「メメリア。顔が怖いぞ。またどこかの請求書に不備があったか?」

「いいえ。……殿下、少しご相談が」

私は立ち上がり、殿下を真っ直ぐに見上げた。

「明日の夜、お時間をいただけますか? 少し……予約したい場所(・・・・・)がありまして」

「予約? 珍しいな、君からデートの誘いなんて」

殿下は驚き、そして嬉しそうに目を細めた。

「もちろん空けるよ。君のためなら、国務会議だってサボ……いや、延期してみせる」

「いえ、定時後で結構です。残業代は請求しませんので」

「……そこは請求してくれてもいいんだがな。私にとっては、君との時間は最高の『投資』だから」

殿下が私の頬に手を伸ばし、親指で優しく撫でる。

その甘い仕草に、また胸がトクンと跳ねる。

(……くっ。この余裕。やはり『買収する側』の余裕だわ)

私は頬が熱くなるのを必死で隠し、キリッとした表情を崩さなかった。

「では、明日の十八時。場所は……王宮の一番高い塔の、屋上テラスで」

「屋上? あそこは何もない場所だが……」

「何もないのが良いのです。邪魔な装飾(ノイズ)は不要ですから」

「わかった。楽しみにしているよ」

殿下は私の額にキスをして、席に戻っていった。

その背中を見ながら、私は拳を握りしめた。

(見ていなさい、ギルバート殿下)

私は引き出しから、新しい羊皮紙と極太の万年筆を取り出した。

(明日の夜、私はあなたに『ただのイエス』以上の回答を叩きつけてみせる。あなたが腰を抜かすくらいの、最高に合理的で、最高に重い『逆プロポーズ』をね!)

私はサラサラと書き始めた。

タイトルは――『ギルバート・フォン・アルカディア殿下に対する、人生共同経営計画書(最終案)』。

書き込む文字に、熱がこもる。

これは、ただの契約書ではない。

私の「覚悟」と「愛(のようなもの)」を、数字と論理で証明するための決算書だ。

「……ふふふ。覚悟してね、旦那様」

静かな執務室に、私の不敵な笑い声と、ペンが走る音だけが響いていた。

平和な日常は終わりだ。

明日は、私の人生を賭けた、最後の大勝負(プレゼンテーション)の日になるのだから。
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