歓喜!婚約破棄で田舎へ逃亡します!

黒猫かの

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「カモミールぅぅぅ! どこだぁぁぁ! 出てこいぃぃぃ!」


常闇の城の中庭に、カラスの断末魔のような叫び声が響き渡っている。


私とシルベスターが回廊から見下ろすと、そこには信じられない光景が広がっていた。


美しい芝生の上に、泥だらけの男が一人。


金髪は鳥の巣のように乱れ、高級なシルクのシャツはあちこちが破け、片方の靴はどこかに落としてきたらしい。


かつて「王国の太陽」と呼ばれたアレック王子の、成れの果てである。


「……酷いありさまですね」


私は思わず手で口元を覆った。


「ああ。野生のゴブリンの方がまだ身だしなみがいい」


シルベスターも眉をひそめている。


周囲を取り囲む騎士たちは、剣を抜くべきか、それとも憐れむべきか迷っているようで、遠巻きにオロオロしている。


「カモミール! いるんだろう! 私の鼻は誤魔化せんぞ! 君の使っている事務用インクの匂いがする!」


「犬ですか、あの人は」


私はため息をついた。


「行きましょう。早く片付けないと、近所迷惑です」


私たちは階段を降り、中庭へと足を踏み入れた。


私が姿を現した瞬間、アレック王子の動きがピタリと止まった。


「……あ」


彼は泥だらけの顔を上げ、私を凝視した。


そして、パァァァッと表情を輝かせた。


「カモミール! おお、カモミール! やはりここにいたか!」


彼は両手を広げ、ゾンビのような足取りで駆け寄ってきた。


「待っていたぞ! さあ、帰ろう! 私の執務室へ! あの書類の山が君を呼んでいる!」


「近寄らないでください。汚い」


私は冷徹に言い放ち、一歩下がった。


同時に、シルベスターが私の前にスッと立ちふさがる。


「……俺の女に近づくな、薄汚いネズミめ」


ドォォォォン!


シルベスターから放たれた殺気が、物理的な衝撃波となって王子を襲った。


「ぐわっ!?」


アレック王子は枯れ葉のように吹き飛び、芝生の上をゴロゴロと転がった。


「い、痛い……! な、何をするんだ! 私は王太子だぞ!」


「知らん。俺の庭に無断で侵入し、俺の安眠コンサルタントを奪おうとする者は、王族だろうが神だろうが排除する」


シルベスターの声は地を這うように低い。


その瞳は赤く輝き、背後には揺らめく黒いオーラが見える。


本気の「魔王モード」だ。


「ひぃっ……! ば、化け物……!」


アレック王子は腰を抜かしながらも、必死に私の方へ指を伸ばした。


「カ、カモミール! 騙されるな! そいつは魔王だ! 君を洗脳しているに違いない!」


「洗脳などされていません。ホワイトな雇用契約を結んだだけです」


私はシルベスターの背中越しに答えた。


「ホワイト? 何を言っている! 王城こそが君の居場所だ! 君が好きだった『仕事』が山ほどあるんだぞ! 徹夜し放題だ!」


「それがブラックだと言っているんです」


話が通じない。


私はこめかみを押さえた。


頭が痛い。


せっかくの休日気分が台無しになったストレスと、目の前の元婚約者のあまりの愚かさに、脳の糖分が一気に消費されていくのを感じる。


ふらっ、と私の体が揺れた。


「……カモミール?」


シルベスターがすぐに気づき、私を支えた。


「顔色が悪いぞ。低血圧か? それともコイツの毒気にあてられたか?」


「……いえ、ただのエネルギー切れです。馬鹿と会話すると、通常の三倍のカロリーを消費するもので」


私は力なく答えた。


「これでは……論破する気力も湧きません……」


「それは困る」


シルベスターは真剣な顔で頷いた。


「お前が元気でないと、俺の今夜の安眠に支障が出る」


彼は懐に手を入れた。


そして、何かを取り出した。


「……口を開けろ」


「はい?」


「いいから、開けろ」


言われるがままに口を少し開くと、彼はポイッと何かを放り込んだ。


「んぐっ」


口の中に広がったのは、濃厚な甘みと、芳醇なカカオの香り。


そして、とろけるような口溶け。


「……これ、は……」


「王都の有名店『ショコラ・ド・レーヴ』の特級トリュフだ。さっきの買い物の際、お前が見ていたから買っておいた」


「えっ……いつの間に?」


「魔王の手品だ」


シルベスターはニヤリと笑った。


「まだあるぞ。ほら」


彼は次々と、色とりどりの包みを取り出した。


マカロン、フィナンシェ、高級クッキー。


まるでドラえもんのポケットのようだ。


「全部食え。そしてエネルギーを充填しろ」


「こ、こんなに食べられません!」


「食わねば戦えん。お前の武器は、その回転の速い脳みそだろう? 糖分こそが弾薬だ」


彼はマカロンの包みを剥くと、不器用な手つきで私の口元に運んできた。


「あーん」


「……子供扱いしないでください」


「早くしろ。指を噛まれても構わんが」


彼の真剣な眼差しに負け、私はマカロンをぱくりと食べた。


サクッ、フワッ。


ラズベリーの酸味とクリームの甘さが絶妙なハーモニーを奏でる。


「……美味しい」


「だろう。店主を少し脅して……いや、説得して、一番いいのを出させた」


シルベスターは満足げに頷くと、次はフィナンシェを差し出してきた。


「次はこれだ。焦がしバターが効いているらしい」


「自分で食べますってば!」


「いや、俺の手が汚れるくらいどうということはない。お前は食べることに集中しろ」


「……過保護すぎます」


私は文句を言いながらも、次々と差し出されるスイーツを平らげていった。


血糖値が急上昇していく。


脳細胞の一つ一つが、「待ってました!」と歓声を上げ、再起動していくのが分かる。


思考がクリアになり、視界が鮮明になる。


そして同時に、ふつふつと湧き上がってくる感情があった。


――怒りだ。


私の優雅なティータイムを邪魔し、安眠を妨害し、あまつさえこんな泥だらけの姿で復縁を迫る男への、正当なる怒り。


「……ふぅ」


最後の一つ、激甘のキャラメルを飲み込んだ瞬間、私は完全に覚醒した。


「ご馳走様でした、シルベスター様。充電完了です」


私は口元の汚れをハンカチで拭い、キッと前を見据えた。


「おお、顔色が戻ったな。その目だ。俺の好きな、人をゴミのように見る冷徹な目だ」


「褒め言葉として受け取っておきます」


私は一歩前へ出た。


シルベスターが道を譲る。


「さあ、存分にやれ。俺が後ろで支えてやる」


「ええ。掃除の時間ですわ」


私は倒れているアレック王子を見下ろした。


王子は、私たちがイチャイチャ(に見えただろう)しながらお菓子を食べている間、呆然と口を開けて見ていたらしい。


「……カ、カモミール……? 君、そんなに甘いものが好きだったか? 王城ではいつもブラックコーヒーばかり飲んでいたのに……」


「それは貴方が甘ったれたことばかり言うから、バランスを取るために苦いものを飲んでいただけです」


私は冷ややかに言い放った。


「それに、今の私は『安眠コンサルタント』。最高のパフォーマンスを発揮するためには、糖分補給も業務の一環です」


「そ、そんな……。私が知っている君は、もっとストイックで、禁欲的で……」


「それは貴方が押し付けた理想像です。私は元々、怠惰で、甘いものが好きで、何より睡眠を愛する女です」


私は腕を組んだ。


「さて、アレック殿下。単刀直入にお伺いします。……何しに来たんですか?」


「な、何しにって……君を迎えに来たんだ! 国が大変なんだ! 物流は止まるし、書類は終わらないし、ミナは泣いてばかりだし……!」


「それを『自業自得』と言います」


「頼む! 戻ってきてくれ! 君がいれば全て解決するんだ! 慰謝料の三億も払う! いや、王室費から出す!」


「お断りします」


私は即答した。


「な、なぜだ!?」


「理由は三つあります」


私は指を三本立てた。


「一つ。私は今の職場に極めて満足しています。高給、厚待遇、そして何より『静寂』があります」


「静寂なら王城にだって……!」


「ありません。貴方の喚き声がある限り」


王子がぐぬっと言葉を詰まらせる。


「二つ。私はもう、貴方の尻拭いはうんざりです。自分のケツは自分で拭いてください。それが大人のマナーです」


「し、しかし……拭き方が分からないんだ……!」


「マニュアルを読みなさい。文字が読めるなら」


「三つ目は!?」


王子がすがるように叫ぶ。


私はニッコリと、最高に意地悪な笑みを浮かべた。


「三つ目。……ここのご飯とお菓子が、王城のより美味しいからです」


「……は?」


「シルベスター様が用意してくださる食事は、私の好みを完璧に把握しています。貴方のように、私の嫌いなキュウリ入りのサンドイッチを笑顔で勧めてくるようなことはしません」


「きゅ、キュウリ……? そんな理由で!?」


「食の恨みと睡眠の恨みは、海より深いのです」


私は王子を見下ろす。


「お帰りください、殿下。貴方がここにいるだけで、空気が澱みます」


「く、くそぉぉぉ! 物で釣られたのか! この守銭奴め! 食い意地の張った悪女め!」


アレック王子が逆ギレして立ち上がった。


「いいだろう、力ずくでも連れ帰ってやる! おい、近衛騎士たち! 突入せよ! その女を捕縛しろ!」


彼は背後の城門に向かって叫んだ。


しかし。


シーン……。


返事はない。


門の外に待機させていたはずの近衛騎士たちは、一人も入ってこない。


「……おい? どうした? 聞こえないのか?」


「無駄だ」


シルベスターが低く笑った。


「お前が塀を登っている間に、門の外の騎士たちは俺の部下が『接待』している」


「せ、接待?」


「ああ。『常闇の城特製・激辛麻婆豆腐』を振る舞っているところだ。今頃、全員トイレに行列を作っているだろう」


「な、なにいぃぃぃ!?」


王子は孤立無援となった。


「さて、どうする? 一人で俺とやるか?」


シルベスターが拳をボキボキと鳴らす。


その背後には、黒い龍のような魔力が立ち昇っている。


「ひ、ひぃぃぃ……!」


王子は後ずさりした。


だが、往生際悪く、彼は懐から何かを取り出した。


「こ、こうなったら最後の手段だ! これを見ろ!」


彼が掲げたのは、金色の紋章が入った書状だった。


「国王陛下の『勅命書』だ! 『カモミール・スリープを直ちに王都へ帰還させよ』との命令だ! これには逆らえまい!」


王子は勝ち誇った顔で書状を突きつけた。


「さあ、ひれ伏せ! これは国家の命令だぞ!」


私は眉をひそめた。


確かに、国王の命令となれば無視はできない。


シルベスターも、公爵という立場上、勅命を無下にはできないだろう。


場の空気が一瞬で張り詰めた。


王子がニヤニヤと笑い、私に歩み寄ろうとする。


「さあ、カモミール。おいで。手錠をかけて連れて行ってあげるからねぇ……」


その時。


ペッ。


シルベスターが、何かを吐き捨てた。


それは、先ほど私が食べたマカロンの包装紙だった。


「……うるさい」


シルベスターは、王子の持っている勅命書を見ることすらせず、右手を軽く振った。


ボッ!


「あちっ!?」


王子の手の中で、勅命書が突然発火した。


「わ、わわわっ! 燃えてる! 燃えてるぅぅぅ!」


「あ、すまん。虫が飛んでいたので焼き払おうとしたら、紙に引火してしまった」


シルベスターは棒読みで言った。


「燃えたものは仕方ないな。内容は確認できなかったので、無効だ」


「な、何おぉぉぉ!? 陛下の署名が! 玉璽がぁぁぁ!」


王子は灰になった紙切れを呆然と見つめている。


私は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。


「……閣下、それはさすがに暴挙では?」


小声で尋ねると、彼はフンと鼻を鳴らした。


「俺の安眠を妨げる紙切れなど、トイレットペーパーにもならん。それに」


彼は私を見て、優しく微笑んだ。


「お前が嫌がっている。それが全てだ」


その言葉に、胸がキュンと音を立てた。


ああ、この人は本当に。


不器用で、乱暴で、でも誰よりも私を大切にしてくれる。


(……餌付けされたのは、胃袋だけじゃなかったみたいね)


私は観念した。


もう、この魔王様からは逃げられない気がする。


「さあ、カモミール。仕上げだ。あの騒音源を城外へ廃棄しよう」


「はい。喜んで」


私たちは並んで、灰まみれの王子に向き直った。


ここからは、容赦なき「お掃除」の時間である。
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