歓喜!婚約破棄で田舎へ逃亡します!

黒猫かの

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「も、燃やした……燃やしたぁぁぁ!」


アレック王子の悲鳴が、秋晴れの空に虚しく響き渡る。


彼の手の中にあるのは、もはや黒い灰と化した勅命書の残骸だけだ。


国家の最高権力者である国王の署名が入った重要書類を、まさか「虫がいたから」という理由で焼却処分するとは。


私もさすがに肝が冷えたが、やった当の本人は涼しい顔で手の煤を払っている。


「……ふん。よく燃える紙だ。質の悪い羊皮紙を使っているからこうなる」


「そこじゃないでしょう、閣下。王室予算がなくて紙の質を落としたのは事実ですが」


私は冷静にツッコミを入れた。


「き、貴様ら……! 正気か! これは国家反逆罪だぞ! 処刑だ! ギロチンだ!」


アレック王子が灰を握りしめたまま、震える指で私たちを指差した。


その顔は泥と涙と鼻水でぐしゃぐしゃだが、目は狂気を帯びて血走っている。


「うるさい」


シルベスターが一言発すると、王子の周りの空気がドスンと重くなった。


「ひぐっ!?」


「反逆罪? 俺にそんな人間界の法律が通用すると思っているのか? 俺がその気になれば、王都ごと更地にして『更地公爵』に改名してもいいんだぞ」


「め、滅茶苦茶だ……!」


「冗談ですよ、アレック殿下。閣下は不眠症で少々気が立っているだけです」


私はフォロー(になっていないフォロー)を入れた。


「さて、勅命書もなくなりました。帰るための大義名分も消えましたね。これにて閉廷、解散ということでよろしいでしょうか?」


私は出口の方角を手で示した。


しかし、アレック王子は諦めなかった。


彼はガバッと顔を上げ、私を睨みつけた。


「……いや、まだだ。紙切れなどどうでもいい!」


「どうでもよくないでしょう。貴方にとっては」


「カモミール! 君自身の意思を聞かせてもらおう! 君は本当に、この私が……この国の未来である王太子が、頭を下げて頼んでいるのに、戻らないと言うのか!」


王子は芝生の上に立ち尽くし、両手を広げた。


まるで悲劇の主人公のようなポーズだ。泥だらけだが。


「私は寛大な男だ。君が一時的な気の迷いで家出し、魔王などにたぶらかされたとしても、許してやろう!」


「はあ……」


「戻ってくるなら、条件も見直してやる! 特別待遇だ!」


王子は鼻息荒く提案を始めた。


「まず、君を『側室』として迎えてやる!」


「……はい?」


私は耳を疑った。


「正妃はミナだ。彼女はか弱くて公務ができないからな。だが、君には実務能力がある。だから側室として、王宮の裏方を取り仕切る権利を与えよう!」


「……」


「光栄だろう? 王太子妃の仕事は君が全てやっていい。ただし、夜会やパレードで私の隣に立つのはミナだ。君は地味だから、表に出ると国民ががっかりするからな」


「……」


「その代わり、執務室での作業時間は無制限だ! 君の好きな書類整理を、死ぬまでやらせてやる! どうだ、嬉しいだろう!」


王子はニカッと歯を見せて笑った。


本気だ。


この男は、本気でこれが私への『ご褒美』だと思っている。


私のこめかみで、何かがプツンと切れる音がした。


「……アレック様」


私は静かに口を開いた。


「なんでしょう、カモミール。感動で言葉も出ないか?」


「ええ、感動しました。貴方の脳みその軽さに」


「なっ……!?」


私は一歩前に出た。


「側室? 裏方? 死ぬまで書類整理? ……ふざけるのも大概にしてください」


私の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。


「私が王宮で働いていたのは、貴方を愛していたからでも、仕事が好きだったからでもありません。貴方が無能で、私がやらないと国が傾くから、仕方なくやっていたんです」


「む、無能だと……!」


「ええ、無能です。役立たずです。給料泥棒です。呼吸する粗大ゴミです」


「ぐああっ!?」


私の罵倒が物理的なダメージとなって王子を襲う。


「それに、表舞台はミナ様、裏方の激務は私? そんな奴隷契約、誰が結ぶと思いますか? 今の私は、ここでは『安眠コンサルタント』として、貴方の提示した条件の百倍マシな待遇を受けているんです」


「百倍……!? そ、そんな馬鹿な……!」


「ここでは、私の仕事は感謝されます。美味しいご飯が出ます。そして何より……」


私は隣に立つシルベスターを見上げた。


彼は黙って私を見守っている。


「私の隣には、私を『道具』ではなく『パートナー』として大切にしてくれる方がいます」


「そ、そんな魔王のどこがいいんだ! 顔が怖いだけじゃないか!」


「顔もいいですよ。少なくとも、貴方のその間の抜けた顔よりは、百億倍魅力的です」


「ぶべらっ!?」


王子はショックのあまり白目を剥いた。


私は大きく息を吐き、結論を告げた。


「というわけで、復縁要請は却下。命令も拒否。二度と私の視界に入らないでください。……以上です」


私はくるりと背を向けた。


完全に言い切った。


胸のつかえが取れ、胃の辺りがスッキリとした。


「お、おのれぇぇぇ……! 言わせておけば……!」


背後で王子がプルプルと震えながら立ち上がった気配がした。


「いいだろう! ならば力ずくでも連れて行く! 私には王家の秘宝、魔道具『強制連行手錠』があるんだ!」


彼はポケットから、禍々しい鎖のついた手錠を取り出した。


どこから持ってきたんだそんなもの。


「カモミール! 覚悟しろぉぉぉ!」


王子が私に向かって突進してくる。


私は動かなかった。


動く必要がなかったからだ。


「……カモミールに指一本触れさせるかよ」


ドォォォォォン!!


突如、横から強烈な突風が巻き起こった。


「ほべぇぇぇっ!?」


王子は突進の勢いのまま、真横に吹き飛ばされた。


シルベスターが、まるでゴミを払うように右手を振ったのだ。


「風魔法『廃棄処分(トラッシュ・アウト)』」


彼がボソリと魔法名を告げる。


風はつむじ風となり、王子を空高く巻き上げた。


「うわあああぁぁぁ! 目が回るぅぅぅ! ミナぁぁぁ!」


王子はキリモミ回転しながら、城壁を越え、はるか彼方の空へと消えていった。


キラキラと光る星のように。


「……飛びましたね」


私は空を見上げて呟いた。


「ああ。計算通りなら、城門から五キロ先の馬糞溜めに着地するはずだ」


シルベスターが涼しい顔で言う。


「馬糞溜め……。まあ、お似合いの場所ですね」


私たちは顔を見合わせ、同時にふっと吹き出した。


「あーあ、可哀想に。王太子があんな扱いを受けて」


「自業自得だ。俺の安眠を妨げた罪は重い」


その時、中庭の入り口から、ようやくトイレ地獄から生還したシルベスターの部下たちが戻ってきた。


「か、閣下! 申し訳ありません、遅くなりました!」


騎士団長が青ざめた顔で駆け寄ってくる。


「敵は!? 侵入者はどこに!?」


「終わったよ」


シルベスターはパンパンと手を叩いた。


「俺とカモミールで処理した。お前たちは、城壁の外に落ちた『粗大ゴミ』を回収し、王都行きの荷馬車に乗せて送り返せ」


「は? 粗大ゴミ、ですか?」


「ああ。金髪で、うるさくて、泥だらけのゴミだ。着払いでいい」


「は、はあ……?」


騎士たちは困惑しながらも、敬礼して城外へと走っていった。


こうして、常闇の城を襲った『元婚約者襲来イベント』は、物理的な排除をもって幕を閉じた。


「……終わったな」


シルベスターが大きく伸びをした。


「ええ。やっと静かになりました」


「疲れただろう」


「少しだけ。叫びすぎて喉が渇きました」


「では、部屋に戻ろう。極上のハーブティーを淹れさせよう」


シルベスターは自然な動作で私の肩を抱いた。


「その後は?」


「もちろん、昼寝だ。まだ昼休みは終わっていない」


「……もう、仕方ないですね」


私は苦笑しながら、彼の肩に頭を預けた。


王城に戻る気など、微塵もない。


私の居場所はここだ。


この不器用で、ちょっと乱暴で、でも温かい魔王様の隣。


「帰りましょう、私の職場へ」


「ああ。帰ろう、俺たちの寝床へ」


私たちは寄り添いながら、城へと戻っていった。


嵐は去った。


空は高く澄み渡り、秋の風が心地よく吹き抜けていく。


……だが、私たちはまだ知らなかった。


空の彼方に飛んでいったアレック王子が、単なる「無能」では終わらないしぶとさを持っていることを。


そして、王都ではすでに次なる刺客――王子の浮気相手であるミナが、予想外の行動に出ようとしていることを。


私の安眠への道は、まだまだ前途多難なようである。
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