貴様のような悪女とは婚約破棄だ!と言われたので、全力で帰ります。

黒猫かの

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王城の門をくぐり抜け、石畳を走る馬車の車輪の音が、静寂な夜に響く。
ガタゴトと揺れる箱の中で、私は深く、それはもう深く息を吐き出した。

「はぁ……」

その瞬間。
向かいの席に座っていた専属侍女のマリーが、ビクリと肩を跳ねさせた。

「ひっ……! も、申し訳ありませんお嬢様! 馬車の揺れが激しゅうございますか!? すぐに御者に言って速度を落とさせ……いえ、むしろ氷漬けにして止めましょうか!?」

マリーは蒼白な顔で、両手を組み合わせて懇願するように私を見つめている。
彼女は私の生家であるオーベルヌ公爵家から付いてきた侍女だ。
勤続五年。
私の身の回りの世話を完璧にこなす優秀な女性だが、いかんせん私への恐怖心が抜けない。

(ただ溜息をついただけで、なぜ御者を氷漬けにする話になるの……?)

私は首を横に振った。

「……いい」

「は、はいっ! 現状維持で! 承知いたしました!」

マリーが直立不動(座ったまま)で敬礼する。
私は再び、座席の背もたれに体を預けた。

窓の外を流れる王都の街並みを眺めながら、先ほどの自分の失態を反芻する。

(やっちゃった……)

頭を抱えたい衝動に駆られた。
最後の最後で、「御意」はないだろう。
もっとこう、あったはずだ。
「謹んでお受けいたします」とか、「この身の潔白はいつか証明されるでしょう」とか。
あるいは無言で涙を拭う仕草をして、悲劇のヒロインを演じきるとか。

それなのに、よりによって「御意」。
しかも全力の絶叫付き。
武士か。私は武士だったのか。

(あんなドスの利いた声で叫んで、さらに全力疾走……。お父様に知られたら「公爵家の恥だ」って泣かれるかもしれない)

ズキズキと胃が痛む。
私は無意識に眉間に皺を寄せ、口元を手で覆った。

「ひぃっ!」

マリーが再び悲鳴を上げる。
彼女の視点では、私の反省している姿が『怒りのあまり般若の面を被り、次なる報復計画を練っている悪鬼羅刹』に見えているに違いない。

「お、お嬢様……。あの、ジェラルド殿下のことは……その、お気になさらず……」

マリーが恐る恐る声をかけてきた。
慰めようとしてくれているのだろう。
震える声で、彼女は精一杯の言葉を紡ぐ。

「殿下は……少々、見る目がないだけでございます。お嬢様の高貴な……その、研ぎ澄まされた刃のような美しさが理解できなかった愚か者です。決して、お嬢様が……人を殺しそうな目をしているからとか、そういうわけでは……!」

「……」

(フォローになってないよ、マリー)

私はジロリと彼女を見た。
いや、見たつもりはない。
ただ「そうなの?」と視線を向けただけだ。

「も、申し訳ございません! 失言でした! どうか舌を抜くのだけはご勘弁を!」

「……抜かない」

「寛大なご処置、感謝いたします!」

会話が噛み合わない。
いつものことだが、今日は特に酷い。
これも私が興奮状態で、眼力が三割増しになっているせいだろうか。

私はまた一つ溜息をつき、視線を膝の上に落とした。

(でも……)

ふと、冷静になって考えてみる。
婚約破棄された。
王都追放を言い渡された。
つまり、もうあの堅苦しい王城に行かなくていい。
ジェラルド殿下の自慢話を聞かされることもない。
ミナ様のわざとらしい転倒劇に巻き込まれることもない。
毎週のように開催される、地獄のようなお茶会に出席する必要もない。

(……あれ?)

これ、もしかして最高の結果なのでは?

私の口角が、ピクリと上がる。
王都を出れば実家だ。
実家といえば、領地は自然豊かで、ご飯が美味しい。
お父様もお母様も、顔は怖いが私には甘い。
そして何より、誰も私に「王妃らしくあれ」なんて無理難題を押し付けてこない。

(自由……!)

その二文字が脳裏に浮かんだ瞬間、私の心にかかっていた暗雲が一気に晴れ渡った。
「御意」の失敗など、些細なことだ。
むしろ、あの「御意」こそが私の自由への宣誓だったと思えばいい。
そうだ、あれは勝利の雄叫びだったのだ。

「ふふ……」

笑いが込み上げてくる。
抑えようとしたが、喜びが勝って肩が震えた。

「ひっ……笑って……いらっしゃる……?」

マリーが座席の隅にへばりつき、涙目になっている。
今の私には、彼女の怯えすらも微笑ましく思えた。

「マリー」

「は、はいっ! 何なりと!」

私は足元に置いていた鞄を引き寄せた。
夜会用の小さな装飾バッグではない。
緊急時のために常に持ち歩いている、少し大きめのボストンバッグだ。

「……お腹、空いた」

「は?」

マリーがぽかんと口を開ける。
私はバッグの中から、重箱を取り出した。
三段重ねの、立派な漆塗りの箱だ。

「これ……」

「え、お、お弁当……ですか?」

「そう」

夜会では食事がまともにとれない。
壁の花として立っている間、周囲の視線が痛すぎて喉を通らないのだ。
だから私はいつも、こうして帰りの馬車で食べるための弁当を持参している。
通称『生存確認弁当』だ。

私は一番上の蓋を開けた。
中には、分厚いカツサンドがぎっしりと詰まっている。
公爵家の料理長特製、フィレ肉の極上カツサンドだ。

「……食べる?」

私は一切れをつまみ、マリーに差し出した。
これから長い帰路になる。
共に「勝利の味」を分かち合おうという、私なりの配慮だった。

しかし、マリーの顔色が土色に変わる。

「ど、毒見……ですか?」

「……違う」

「い、いえ! やらせていただきます! お嬢様のお体に障るものがあってはなりませんから! このマリー、命に代えても!」

マリーは悲壮な決意でカツサンドをひったくり、口の中に放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼し、ごくりと飲み込む。
そして、自分の喉と腹をさすり、数秒待ってから叫んだ。

「い、異常ありません! お嬢様、これはただの、とてつもなく美味しいカツサンドです!」

「……知ってる」

私は呆れながら、自分の分のサンドイッチを口に運んだ。
サクッとした衣と、ジューシーな肉の旨みが広がる。

(おいしい……!)

幸せだ。
こんなに美味しいものを、誰の目も気にせず大口を開けて食べられるなんて。
今までは「令嬢らしく、一口は小指の先ほどで」と教育係に叱られていた。
でももう、そんな小言を言う人はいない。

私は二つ目、三つ目とカツサンドを平らげていく。
その勢いは止まらない。
婚約破棄のショック(という名の喜び)が、食欲を増進させているようだ。

「お、お嬢様……そんなに急いで召し上がると、喉に……」

「んぐ、むぐ」

私は口いっぱいに頬張りながら、窓の外を指差した。

「見て、マリー」

「は、はい?」

口の中のものを強引に飲み込み、私はニヤリと笑った。
おそらく今、口の周りにはソースがつき、目はギラギラと輝き、最高の悪人面になっていることだろう。

「王都の灯りが……遠ざかっていく」

「そ、そうですね。寂しゅうございますか?」

「まさか」

私は残りのカツサンドを大切そうに抱え直し、夜の闇に沈みゆく王城に向かって、心の中で中指を立てた。
(実際には行儀よく手を振ったつもりだが、拳を握りしめて殴りかかるポーズに見えたらしい)

「せいせいしたわ」

低く、ドスの利いた声が出た。
マリーが「ひぃっ!」と短く鳴く。

馬車は速度を上げ、王都の城門を抜けていく。
目指すは北の果て。
オーベルヌ公爵領。
そこには、私の愛する平穏と、強面だけど優しい家族が待っている。

「……帰ったら、まず何をしよう」

私は独りごちた。

「そうですね……まずは、公爵様に婚約破棄のご報告と、今後の身の振り方を……」

マリーが真面目な顔で答える。
私は首を振った。

「違う」

「へ?」

「まずは、ジャージに着替える」

「じゃ、じゃあじ……?」

「そして、寝る。死ぬほど寝る」

「は、はあ……」

「そのあと、畑を耕す」

「は……たけ……?」

マリーの理解が追いついていないようだが、構わない。
私には夢があった。
優雅なドレスも、宝石もいらない。
土に触れ、作物を育て、太陽の下で汗を流す。
そんなスローライフに憧れていたのだ。

王太子妃になれば絶対に叶わなかった夢。
それが今、手の届くところにある。

「ふふふ……」

想像するだけで笑いが止まらない。
クワを持ち、土を耕す私。
収穫した野菜にかぶりつく私。
最高じゃないか。

「お、お嬢様が……壊れてしまわれた……」

マリーが可哀想なものを見る目で私を見ているが、私は気にしなかった。
カツサンドの最後の一切れを口に放り込み、私は満足げに呟く。

「急いで、御者さん。私の新しい人生が待っているわ」

私の低い声に応えるように、御者が鞭を振るう音が聞こえた。
馬車は闇を切り裂き、一路、北へと爆走を続ける。

これから実家で待ち受ける騒動や、隣の領地に住む「氷の閣下」ことアレクセイ辺境伯との出会いなど、まだ知る由もないままに。

私は満腹になったお腹をさすり、心地よい眠気に身を委ねた。
夢の中では、すでに私はジャージ姿で大根を引き抜いていた。
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