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爽やかな朝だ。
小鳥のさえずりが聞こえる。
私は最高の気分で目覚めた。
昨夜の宴会の余韻で少し頭が重いが、それすらも心地よい。
今日から私は自由な農民(予定)だ。
王都の喧騒も、嫌味な貴族たちも、ここにはいない。
「お嬢様、朝のお支度が整いました」
「ありがとう、マリー」
私はベッドから這い出し、身支度を整える。
今日こそはジャージ……と言いたいところだが、父から「朝食までは公爵家の娘らしくしていろ」と釘を刺されている。
仕方なく、シンプルだが上質なワンピースに袖を通した。
「よし、朝ごはんを食べたら、どこを耕そうかしら」
裏庭か、それとも日当たりの良い南の丘か。
妄想を膨らませながら、私は食堂へと向かった。
しかし。
廊下を歩いていると、何やら屋敷全体がピリピリとしていることに気づいた。
使用人たちが慌ただしく走り回り、どこか殺気立っている。
「どうしたの?」
近くを通った執事(顔に大きな刀傷がある老紳士)を呼び止める。
「おや、お嬢様。お目覚めでしたか」
「屋敷が騒がしいけれど……何かあったの?」
執事は眉間の皺を深くし、重々しく答えた。
「はい。実は……『隣』が動いたようでして」
「隣?」
「ええ。北の国境を預かる、『氷の閣下』ことアレクセイ辺境伯が、突如として我が領地へ向かってきているとの報告が入りました」
「……え?」
アレクセイ辺境伯。
その名は王都にいた私でも知っている。
我がオーベルヌ公爵領の隣、極寒の地を治める若き領主。
冷徹無比、残虐非道。
逆らう者は氷像に変えられ、その眼光だけで飛ぶ鳥を落とすと言われる、生ける伝説だ。
「な、なぜそのような恐ろしい方がうちに?」
「分かりません。しかし、武装した護衛を従え、漆黒の馬車で猛スピードで接近中とのこと。旦那様は『カトレアが帰ってきたことを嗅ぎつけたに違いない』と……」
「私!?」
心臓が跳ね上がる。
なぜ私?
もしかして、王都での「御意」ダッシュの噂がもう広まっているの?
『王太子の婚約者を辞めた不届き者が帰ってきたから、成敗してやる』とか、そういうこと?
「ひっ……!」
「お嬢様、ご安心を。旦那様と奥様が応接間で迎撃……いえ、お迎えの準備を整えております」
迎撃って言った。今、完全に迎撃って言った。
「と、到着されましたァァァ!!」
玄関ホールの方から、悲鳴のような報告が響く。
私は震える足を引きずりながら、応接間へと向かった。
逃げたい。
でも、もし私のせいで家族に迷惑がかかるなら、私が盾にならなければ。
(顔だけは怖いから、少しは時間稼ぎになるかもしれない……!)
応接間の扉の前に立つ。
中からは、重苦しい沈黙が漏れ出していた。
空気が重い。
扉の向こうにブラックホールでもあるんじゃないだろうか。
「失礼……いたします」
私は勇気を振り絞り、扉を開けた。
「……」
部屋の中は、地獄のような光景だった。
上座には、父と母。
父は腕を組み、背後にはオーラのような威圧感を立ち上らせている。
母は扇子で口元を隠しているが、その目は笑っていない。
そして、対面のソファーに座る男。
銀色の髪。
透き通るようなアイスブルーの瞳。
彫刻のように整っているが、体温を一切感じさせない美貌。
軍服のような黒い服を隙なく着こなし、その腰には剣が佩かれている。
アレクセイ・フォン・ヴォルグ。
噂の『氷の閣下』だ。
(こ、怖い……!)
美しい。けれど、怖い。
まるで研ぎ澄まされた氷の刃がそこに座っているようだ。
彼が身じろぎするだけで、周囲の空気が凍てつく気がする。
「……来たか、カトレア」
父が低い声で私を呼んだ。
アレクセイ様の視線が、ゆっくりと私に向けられる。
ビクッ、と肩が跳ねた。
射抜かれる。
文字通り、視線で心臓を貫かれそうな鋭さだ。
(殺される! 絶対殺される! やっぱり昨日の『御意』が国家反逆罪とかに問われてるんだ!)
私は祭壇に捧げられる生贄の羊のような気持ちで、アレクセイ様の前に進み出た。
膝が笑っているのを必死に堪える。
「お、お初にお目にかかります……カトレア・フォン・オーベルヌでございます……」
声が裏返らなかった自分を褒めてあげたい。
私はカーテシー(淑女の礼)をした。
緊張で顔が引きつり、おそらく『今すぐ貴様の喉笛を食いちぎってやる』というような凶悪な笑顔になっていたことだろう。
アレクセイ様が立ち上がる。
背が高い。
父ほどではないが、私を見下ろすには十分な威圧感だ。
彼は無言のまま、私を見下ろしている。
その無表情な顔からは、感情が一切読み取れない。
「……」
「……」
沈黙が続く。
一秒が永遠に感じられる。
お願い、早く楽にして。
斬るなら一思いに!
と、その時だった。
「……戻ったか」
低く、響く声。
まるでチェロの音色のような、深みのある美声だった。
しかし、その内容は尋問のようにも聞こえる。
「は、はい! 昨晩、戻りました!」
私は直立不動で答えた。
軍隊か。
「そうか」
アレクセイ様は短くそう言うと、また黙り込んだ。
そして、ゆっくりと懐に手を入れる。
(出た! 暗器だ! 懐から毒針か手裏剣が出てくるんだわ!)
私はギュッと目を閉じた。
走馬灯が見える。
短い人生だった。
畑、耕したかったな……。
「……これを」
ドンッ。
重たい音がテーブルの上で響いた。
痛みが来ない。
私は恐る恐る片目を開けた。
そこには、豪奢な桐箱が置かれていた。
大きさは、ちょうど人間の頭部が入るくらい。
(な、生首……!?)
「開けろ」
命令口調だ。
拒否権はない。
私は震える手で、箱に手を伸ばした。
中身が何か想像してしまい、吐き気がこみ上げてくる。
裏切り者の首か、それとも呪いのアイテムか。
「し、失礼いたします……」
蓋を持ち上げる。
重い。
覚悟を決めて、一気に蓋を開け放った。
「ひっ……!」
悲鳴を上げそうになり――。
私は、固まった。
「……え?」
箱の中に鎮座していたのは、血まみれの首でも、毒々しい色のナイフでもなかった。
宝石のように輝く、色とりどりの果実。
ふんわりと甘い香りが漂う、焼き菓子。
そして中央には、王都でも入手困難と言われる有名店の最高級チョコレート。
「……お菓子?」
私は間の抜けた声を出してしまった。
状況が理解できない。
なぜ、『氷の閣下』が、処刑宣告の代わりにスイーツ盛り合わせを持ってくるのか。
私は呆然とアレクセイ様を見上げた。
彼は腕を組んだまま、不機嫌そうに(私にはそう見えた)口を開いた。
「……王都の菓子だ。戻る途中で手に入れた」
「は、はあ……」
「貴様は……いや、君は、甘いものが好きだと聞いた」
「え?」
「毒など入っていない。……食え」
食え。
その言葉の圧力は凄まじかったが、内容はただの「おやつのお勧め」だ。
私は混乱した。
この強面の閣下は、わざわざ私にお菓子を届けるために、朝一番で馬車を飛ばしてきたというのか?
「あ、あの……これを私に?」
「他に誰がいる」
「いえ、その……なんとお礼を申し上げれば……」
「礼などいらん。……責任を取りに来ただけだ」
「せ、責任!?」
その単語に、父と母が反応した。
「おい若造。責任とはどういう意味だ?」
父が殺気立つ。
アレクセイ様は眉一つ動かさず、淡々と言った。
「言葉通りの意味だ。カトレア嬢は傷ついている。王都での不当な扱い、婚約破棄の屈辱……その心の傷を癒やす責任が、隣人である私にはある」
(え、何その理屈。隣人愛が重すぎない?)
「我が領地は静かだ。療養には適している。……必要なら、私の城を提供してもいい」
アレクセイ様が私をじっと見る。
その瞳の奥に、怪しい光が宿っているように見えた。
「王都の噂が落ち着くまで、私の元で……身を隠すといい」
言葉尻は優しいが、その表情は完全に『監禁してやるから大人しく付いてこい』と言っている誘拐犯のそれだ。
「い、いえ! お気遣いはありがたいのですが、実家でゆっくり……」
「実家では噂を遮断しきれん。それに、オーベルヌ公爵は過保護だ。君にはもっと、自由な環境が必要だろう?」
図星を突かれて、私は言葉に詰まった。
確かに、父と母の愛は海より深いが、その分干渉も激しい。
昨日も「寝る時は父さんが添い寝してやろうか!」と言われて全力で拒否したばかりだ。
「……で、でも……」
私が迷っていると、アレクセイ様が一歩近づいてきた。
近い。
氷の香りがする。
彼は私の手を取り、その上に小さな包みを乗せた。
箱とは別のお土産だ。
「開けてみろ」
言われるがままに包みを開く。
中から出てきたのは――。
「……農具のカタログ?」
「最新式だ。土魔法が付与された鍬(くわ)もある」
「!!!」
私の目がカッと見開かれた。
なぜバレているの!?
私が農耕具マニアであり、最新の魔法付与農具に目がないことを!
「君が……そういう趣味を持っていると、小耳に挟んだ」
アレクセイ様が少しだけ、本当に少しだけ口角を上げた気がした。
悪魔的な笑みだ。
私の欲望を完全に把握している。
「我が領地には、広大な未開拓の農地がある。……好きなだけ、耕していいぞ」
ゴクリ。
私は生唾を飲み込んだ。
殺されると思っていた恐怖はどこへやら。
目の前にぶら下げられた餌(農地と最新農具)の魅力に、私の理性がグラグラと揺らいでいる。
「ほ、本当に……耕してもよろしいのですか?」
「ああ。誰にも邪魔はさせない。……私が保証する」
ズキューン。
私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれる音がした。
それは恋心ではなく、農耕本能への直撃弾だった。
この人、見た目は怖いけど、もしかしてすごく話が分かる人なのでは?
(少なくとも、ジェラルド殿下よりは私のニーズを理解している!)
「……考えさせてください」
私は震える声で答えた。
即答で「行きます!」と言いそうになるのを、公爵令嬢としての矜持でなんとか踏みとどまる。
「いいだろう。……返事は待つ」
アレクセイ様は満足げに頷くと、踵を返した。
マントを翻す姿は、完全に悪の組織の幹部が去っていくそれだったが、テーブルに残された山盛りのスイーツと農具カタログが、彼がただのサンタクロースであることを主張していた。
「……嵐のような男だったな」
父がポツリと呟く。
母はスイーツの箱を覗き込み、「あら、これ限定品よ。やるじゃない」と目を輝かせている。
私は手元のカタログを握りしめた。
表紙には『重労働よさらば! 爆発的な耕作スピードを実現!』という魅力的なキャッチコピーが踊っている。
「アレクセイ様……」
恐ろしい『氷の閣下』。
でも、彼は私を殺しに来たわけではなかった。
むしろ、餌付けしに来た?
(変な人……)
恐怖と困惑、そして少しの好奇心を胸に、私は遠ざかる馬車の音を聞いていた。
まさかこの訪問が、私の辺境スローライフを大きく狂わせる(良い意味で)きっかけになろうとは、まだ気づいていなかったのである。
小鳥のさえずりが聞こえる。
私は最高の気分で目覚めた。
昨夜の宴会の余韻で少し頭が重いが、それすらも心地よい。
今日から私は自由な農民(予定)だ。
王都の喧騒も、嫌味な貴族たちも、ここにはいない。
「お嬢様、朝のお支度が整いました」
「ありがとう、マリー」
私はベッドから這い出し、身支度を整える。
今日こそはジャージ……と言いたいところだが、父から「朝食までは公爵家の娘らしくしていろ」と釘を刺されている。
仕方なく、シンプルだが上質なワンピースに袖を通した。
「よし、朝ごはんを食べたら、どこを耕そうかしら」
裏庭か、それとも日当たりの良い南の丘か。
妄想を膨らませながら、私は食堂へと向かった。
しかし。
廊下を歩いていると、何やら屋敷全体がピリピリとしていることに気づいた。
使用人たちが慌ただしく走り回り、どこか殺気立っている。
「どうしたの?」
近くを通った執事(顔に大きな刀傷がある老紳士)を呼び止める。
「おや、お嬢様。お目覚めでしたか」
「屋敷が騒がしいけれど……何かあったの?」
執事は眉間の皺を深くし、重々しく答えた。
「はい。実は……『隣』が動いたようでして」
「隣?」
「ええ。北の国境を預かる、『氷の閣下』ことアレクセイ辺境伯が、突如として我が領地へ向かってきているとの報告が入りました」
「……え?」
アレクセイ辺境伯。
その名は王都にいた私でも知っている。
我がオーベルヌ公爵領の隣、極寒の地を治める若き領主。
冷徹無比、残虐非道。
逆らう者は氷像に変えられ、その眼光だけで飛ぶ鳥を落とすと言われる、生ける伝説だ。
「な、なぜそのような恐ろしい方がうちに?」
「分かりません。しかし、武装した護衛を従え、漆黒の馬車で猛スピードで接近中とのこと。旦那様は『カトレアが帰ってきたことを嗅ぎつけたに違いない』と……」
「私!?」
心臓が跳ね上がる。
なぜ私?
もしかして、王都での「御意」ダッシュの噂がもう広まっているの?
『王太子の婚約者を辞めた不届き者が帰ってきたから、成敗してやる』とか、そういうこと?
「ひっ……!」
「お嬢様、ご安心を。旦那様と奥様が応接間で迎撃……いえ、お迎えの準備を整えております」
迎撃って言った。今、完全に迎撃って言った。
「と、到着されましたァァァ!!」
玄関ホールの方から、悲鳴のような報告が響く。
私は震える足を引きずりながら、応接間へと向かった。
逃げたい。
でも、もし私のせいで家族に迷惑がかかるなら、私が盾にならなければ。
(顔だけは怖いから、少しは時間稼ぎになるかもしれない……!)
応接間の扉の前に立つ。
中からは、重苦しい沈黙が漏れ出していた。
空気が重い。
扉の向こうにブラックホールでもあるんじゃないだろうか。
「失礼……いたします」
私は勇気を振り絞り、扉を開けた。
「……」
部屋の中は、地獄のような光景だった。
上座には、父と母。
父は腕を組み、背後にはオーラのような威圧感を立ち上らせている。
母は扇子で口元を隠しているが、その目は笑っていない。
そして、対面のソファーに座る男。
銀色の髪。
透き通るようなアイスブルーの瞳。
彫刻のように整っているが、体温を一切感じさせない美貌。
軍服のような黒い服を隙なく着こなし、その腰には剣が佩かれている。
アレクセイ・フォン・ヴォルグ。
噂の『氷の閣下』だ。
(こ、怖い……!)
美しい。けれど、怖い。
まるで研ぎ澄まされた氷の刃がそこに座っているようだ。
彼が身じろぎするだけで、周囲の空気が凍てつく気がする。
「……来たか、カトレア」
父が低い声で私を呼んだ。
アレクセイ様の視線が、ゆっくりと私に向けられる。
ビクッ、と肩が跳ねた。
射抜かれる。
文字通り、視線で心臓を貫かれそうな鋭さだ。
(殺される! 絶対殺される! やっぱり昨日の『御意』が国家反逆罪とかに問われてるんだ!)
私は祭壇に捧げられる生贄の羊のような気持ちで、アレクセイ様の前に進み出た。
膝が笑っているのを必死に堪える。
「お、お初にお目にかかります……カトレア・フォン・オーベルヌでございます……」
声が裏返らなかった自分を褒めてあげたい。
私はカーテシー(淑女の礼)をした。
緊張で顔が引きつり、おそらく『今すぐ貴様の喉笛を食いちぎってやる』というような凶悪な笑顔になっていたことだろう。
アレクセイ様が立ち上がる。
背が高い。
父ほどではないが、私を見下ろすには十分な威圧感だ。
彼は無言のまま、私を見下ろしている。
その無表情な顔からは、感情が一切読み取れない。
「……」
「……」
沈黙が続く。
一秒が永遠に感じられる。
お願い、早く楽にして。
斬るなら一思いに!
と、その時だった。
「……戻ったか」
低く、響く声。
まるでチェロの音色のような、深みのある美声だった。
しかし、その内容は尋問のようにも聞こえる。
「は、はい! 昨晩、戻りました!」
私は直立不動で答えた。
軍隊か。
「そうか」
アレクセイ様は短くそう言うと、また黙り込んだ。
そして、ゆっくりと懐に手を入れる。
(出た! 暗器だ! 懐から毒針か手裏剣が出てくるんだわ!)
私はギュッと目を閉じた。
走馬灯が見える。
短い人生だった。
畑、耕したかったな……。
「……これを」
ドンッ。
重たい音がテーブルの上で響いた。
痛みが来ない。
私は恐る恐る片目を開けた。
そこには、豪奢な桐箱が置かれていた。
大きさは、ちょうど人間の頭部が入るくらい。
(な、生首……!?)
「開けろ」
命令口調だ。
拒否権はない。
私は震える手で、箱に手を伸ばした。
中身が何か想像してしまい、吐き気がこみ上げてくる。
裏切り者の首か、それとも呪いのアイテムか。
「し、失礼いたします……」
蓋を持ち上げる。
重い。
覚悟を決めて、一気に蓋を開け放った。
「ひっ……!」
悲鳴を上げそうになり――。
私は、固まった。
「……え?」
箱の中に鎮座していたのは、血まみれの首でも、毒々しい色のナイフでもなかった。
宝石のように輝く、色とりどりの果実。
ふんわりと甘い香りが漂う、焼き菓子。
そして中央には、王都でも入手困難と言われる有名店の最高級チョコレート。
「……お菓子?」
私は間の抜けた声を出してしまった。
状況が理解できない。
なぜ、『氷の閣下』が、処刑宣告の代わりにスイーツ盛り合わせを持ってくるのか。
私は呆然とアレクセイ様を見上げた。
彼は腕を組んだまま、不機嫌そうに(私にはそう見えた)口を開いた。
「……王都の菓子だ。戻る途中で手に入れた」
「は、はあ……」
「貴様は……いや、君は、甘いものが好きだと聞いた」
「え?」
「毒など入っていない。……食え」
食え。
その言葉の圧力は凄まじかったが、内容はただの「おやつのお勧め」だ。
私は混乱した。
この強面の閣下は、わざわざ私にお菓子を届けるために、朝一番で馬車を飛ばしてきたというのか?
「あ、あの……これを私に?」
「他に誰がいる」
「いえ、その……なんとお礼を申し上げれば……」
「礼などいらん。……責任を取りに来ただけだ」
「せ、責任!?」
その単語に、父と母が反応した。
「おい若造。責任とはどういう意味だ?」
父が殺気立つ。
アレクセイ様は眉一つ動かさず、淡々と言った。
「言葉通りの意味だ。カトレア嬢は傷ついている。王都での不当な扱い、婚約破棄の屈辱……その心の傷を癒やす責任が、隣人である私にはある」
(え、何その理屈。隣人愛が重すぎない?)
「我が領地は静かだ。療養には適している。……必要なら、私の城を提供してもいい」
アレクセイ様が私をじっと見る。
その瞳の奥に、怪しい光が宿っているように見えた。
「王都の噂が落ち着くまで、私の元で……身を隠すといい」
言葉尻は優しいが、その表情は完全に『監禁してやるから大人しく付いてこい』と言っている誘拐犯のそれだ。
「い、いえ! お気遣いはありがたいのですが、実家でゆっくり……」
「実家では噂を遮断しきれん。それに、オーベルヌ公爵は過保護だ。君にはもっと、自由な環境が必要だろう?」
図星を突かれて、私は言葉に詰まった。
確かに、父と母の愛は海より深いが、その分干渉も激しい。
昨日も「寝る時は父さんが添い寝してやろうか!」と言われて全力で拒否したばかりだ。
「……で、でも……」
私が迷っていると、アレクセイ様が一歩近づいてきた。
近い。
氷の香りがする。
彼は私の手を取り、その上に小さな包みを乗せた。
箱とは別のお土産だ。
「開けてみろ」
言われるがままに包みを開く。
中から出てきたのは――。
「……農具のカタログ?」
「最新式だ。土魔法が付与された鍬(くわ)もある」
「!!!」
私の目がカッと見開かれた。
なぜバレているの!?
私が農耕具マニアであり、最新の魔法付与農具に目がないことを!
「君が……そういう趣味を持っていると、小耳に挟んだ」
アレクセイ様が少しだけ、本当に少しだけ口角を上げた気がした。
悪魔的な笑みだ。
私の欲望を完全に把握している。
「我が領地には、広大な未開拓の農地がある。……好きなだけ、耕していいぞ」
ゴクリ。
私は生唾を飲み込んだ。
殺されると思っていた恐怖はどこへやら。
目の前にぶら下げられた餌(農地と最新農具)の魅力に、私の理性がグラグラと揺らいでいる。
「ほ、本当に……耕してもよろしいのですか?」
「ああ。誰にも邪魔はさせない。……私が保証する」
ズキューン。
私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれる音がした。
それは恋心ではなく、農耕本能への直撃弾だった。
この人、見た目は怖いけど、もしかしてすごく話が分かる人なのでは?
(少なくとも、ジェラルド殿下よりは私のニーズを理解している!)
「……考えさせてください」
私は震える声で答えた。
即答で「行きます!」と言いそうになるのを、公爵令嬢としての矜持でなんとか踏みとどまる。
「いいだろう。……返事は待つ」
アレクセイ様は満足げに頷くと、踵を返した。
マントを翻す姿は、完全に悪の組織の幹部が去っていくそれだったが、テーブルに残された山盛りのスイーツと農具カタログが、彼がただのサンタクロースであることを主張していた。
「……嵐のような男だったな」
父がポツリと呟く。
母はスイーツの箱を覗き込み、「あら、これ限定品よ。やるじゃない」と目を輝かせている。
私は手元のカタログを握りしめた。
表紙には『重労働よさらば! 爆発的な耕作スピードを実現!』という魅力的なキャッチコピーが踊っている。
「アレクセイ様……」
恐ろしい『氷の閣下』。
でも、彼は私を殺しに来たわけではなかった。
むしろ、餌付けしに来た?
(変な人……)
恐怖と困惑、そして少しの好奇心を胸に、私は遠ざかる馬車の音を聞いていた。
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