貴様のような悪女とは婚約破棄だ!と言われたので、全力で帰ります。

黒猫かの

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「……寒いな」

馬車の中、アレクセイ様が短く呟き、膝掛けを私の方へ押しやってくれた。
確かに、窓の外の景色は一変していた。
豊かな緑が広がっていた実家の領地とは異なり、北へ進むにつれて木々の背は低くなり、岩肌が露出した荒々しい風景が続いている。
空気も刃物のように鋭く、冷たい。

「ありがとうございます……。少し、冷えますね」

私は膝掛けに包まりながら、窓の外を見つめた。

(これが北の辺境……『氷の閣下』の治める地……)

正直に言えば、想像以上に過酷そうだ。
空は鉛色で、風が轟音を立てて吹き荒れている。
ここで野菜は育つのだろうか?
私のスローライフ計画(主に自給自足)に、早くも暗雲が立ち込めている気がする。

「……不安か」

私の表情が曇ったのを見て取ったのか、アレクセイ様が声をかけてきた。

「えっ、いえ! そんなことは!」

「隠さなくていい。王都の軟弱な……いや、温暖な気候に慣れた身には、この寒さは堪えるだろう」

彼は眉間に皺を寄せ、申し訳なさそうに言う。
その表情が「こんな地獄へ連行してすまない」という懺悔に見えて、私は慌てて首を振った。

「違います! ただ、作物が育つか心配で……」

「作物?」

「はい。私、耕したいので」

「……ああ、そうだったな」

アレクセイ様は納得したように頷くと、腕を組んで語り始めた。

「確かに環境は厳しい。だが、大地の力は強い。ここで育つ根菜類は、寒さに耐えるために糖度を増し、驚くほど甘くなる」

「……甘くなる?」

私の耳がピクリと反応する。

「ああ。雪の下で越冬させたキャベツや人参は、果物のように甘い。それに、北の海流は栄養が豊富だ。脂の乗った魚、身の締まった蟹や海老……」

「蟹……海老……」

「山に入れば、ジビエも豊富だ。猪、鹿、それに熊」

「く、熊……?」

「熊肉のシチューは絶品だぞ。臭みなどない。とろけるような脂身と、濃厚な赤身の旨み……一度食えば、王都の薄っぺらいスープなど泥水に思える」

ゴクリ。
私の喉が鳴った。
シチュー。蟹。甘い野菜。
想像しただけで、口の中に涎が広がる。

(なにそれ、天国じゃない)

先ほどまでの「過酷な荒野」という認識が、「食材の宝庫」へと急速に書き換えられていく。
アレクセイ様は、私の食い意地に気づいているのかいないのか、淡々と、しかし熱っぽく(主に食材について)語り続ける。

「それに、我が領地には『温泉』がある」

「お、温泉!?」

私は思わず前のめりになった。
温泉。日本人の魂を持つ私(前世の記憶はないはずだが、なぜか魂がそう叫んでいる)にとって、それは魔法の言葉だ。

「ああ。地熱を利用した温室もあるから、冬でも葉野菜が採れる。……君の好きな農作業も、一年中可能だ」

「温室まで……!」

「城の地下には巨大な貯蔵庫があり、チーズやワインを熟成させている。……食べることには、困らせない」

アレクセイ様が、キラーンと光る眼光で私を見据えた。
その目は言っていた。
『俺の領地に来れば、美味いものが食えるぞ』と。

これは誘拐ではない。
接待だ。
最高級の衣食住をちらつかせた、悪魔的な勧誘だ。

「……アレクセイ様」

「なんだ」

「私、辺境が大好きになりそうです」

私が真剣な顔で告げると、彼は満足げに口元を歪めた(ニヤリと笑ったつもりらしい)。

「そうか。それは重畳」

「早く着かないでしょうか。熊肉のシチュー、食べてみたいです」

「善処しよう。城の料理長に伝えておく」

会話が弾む。
コミュ障の私と、無口な強面の彼。
共通言語は「食」だった。
色気もへったくれもないが、私にとっては最高の道中である。

やがて、馬車が大きく揺れた。
御者の声が響く。

「閣下! 領境(りょうざかい)を越えます!」

アレクセイ様が窓のカーテンを大きく開け放った。

「見ろ、カトレア。あれが私の領地だ」

私は身を乗り出して、外を見た。

目の前に広がっていたのは、圧倒的な大自然だった。
灰色の岩山を背景に、白い雪を頂いた峰々が連なっている。
その麓には、針葉樹の森が黒い絨毯のように広がり、その先には荒波が打ち寄せる海が見えた。

荒々しく、人を拒むような景色。
けれど、何よりも力強く、美しい。

「……すごいです」

「何もない場所だ。だが、静かだ」

「いいえ、何もないからこそ、何でもできそうです」

私の言葉に、アレクセイ様がこちらを見る。
私は彼に向かって、満面の笑みを向けた(つもりだが、興奮で鼻息が荒く、目は獲物を狙う狩人のようになっていたかもしれない)。

「ここなら、思い切り鍬を振るえそうです!」

「……くくっ。そうか」

彼はまた、楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「歓迎しよう、カトレア。ここが今日から、君の庭だ」

馬車はスピードを上げ、領地へと滑り込んでいく。
遠くの岩山の上に、黒い城影が見えてきた。
あれが私の新居、辺境伯城だ。

「(待っててね、私の畑。そして熊肉……!)」

期待に胸を膨らませる私。
しかし、私はまだ忘れていた。
アレクセイ様の城が、物理的に「魔王城」のような見た目であり、出迎えてくれる使用人たちが、実家以上に「濃い」メンツであることを。

美味しい話には裏がある――わけではないが、スパイスが強すぎることはあるのだ。
私の胃袋と心臓が試される辺境ライフが、今まさに始まろうとしていた。
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