貴様のような悪女とは婚約破棄だ!と言われたので、全力で帰ります。

黒猫かの

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満腹地獄……いえ、至福の朝食タイムから数時間後。

私は居間のソファーに深く沈み込んでいた。
お腹が重い。
胃袋の中で、高級食材たちが盛大にカーニバルを開催している。

「うぅ……苦しい……」

「無理に動くな。消化に悪い」

隣のソファーでは、アレクセイ様が優雅に本を読んでいる。
彼は時折、私のお腹をチラリと見ては、満足げに頷く。
完全に「家畜を肥育する農場主」の目だ。

「あの、アレクセイ様。私、そろそろ畑に……」

「ならん。食休みも仕事のうちだ」

「そんな殺生な……」

私が抗議しようとしたその時だった。

コンコン。

重厚な扉がノックされ、隻眼の執事が入室してきた。
いつも冷静な彼だが、今日はその表情が険しい。
額には脂汗が滲み、手に持った銀盆がカタカタと震えている。

「……閣下。緊急事態でございます」

「どうした。魔物が出たか?」

アレクセイ様が本を閉じる。

「いえ、ある意味では魔物よりもタチの悪い……」

執事が銀盆を差し出した。
そこには、一通の手紙が乗っていた。

真っ白な封筒。
そして、封蝋には金色の獅子の紋章。

「……王家か」

アレクセイ様の声が、一瞬にして氷点下まで下がった。
部屋の温度が物理的に下がる。
窓ガラスにピキピキと霜が張り付いていく。

「ひっ……!」

私は思わず身を縮めた。
王家からの手紙。
それは私にとって、不幸の通知書と同義だ。

(な、何かしら……? 『婚約破棄の手続きに不備があったから、慰謝料を払え』とか? それとも『やはり処刑するから戻ってこい』とか!?)

悪い想像ばかりが膨らむ。
胃の中のローストチキンが逆流しそうだ。

「……カトレア宛てだ」

アレクセイ様が手紙を手に取り、私に渡してくる。
その手は怒りで微かに震えており、手紙の端が少し凍りついていた。

「読むか? それとも、私がこの場で氷砕(ひょうさい)してやろうか」

「い、いえ! 読みます! 内容を確認しないと、後で何を言われるか分かりませんから!」

私は震える手で封筒を受け取った。
ペーパーナイフを使うまでもない。
封蝋をバリッと剥がし、中の便箋を取り出す。

達筆だが、どこか自己主張の激しい文字。
見間違えるはずもない。
元婚約者、ジェラルド殿下の筆跡だ。

私は恐る恐る、最初の一行に目を落とした。

『愛しきカトレアへ』

「おぇっ」

「どうしたカトレア! 毒か!?」

「あ、いえ……精神的な毒が……」

私は口元を押さえ、続きを読み進めた。

『君が王都を去ってから数日。僕は君のことを想わない日はない。
きっと君も、辺境の寒空の下で、僕との思い出に涙し、枕を濡らしていることだろう。
君があのような暴挙(御意ダッシュ)に出たのも、僕への愛が深すぎるあまり、嫉妬に狂ったからだと分かっている』

(……ハア?)

私の眉間に、深い皺が刻まれた。
愛? 嫉妬?
寝言は寝て言ってほしい。
私は今、熊肉と野菜のことで頭がいっぱいなのだ。

『ミナは優しい子だ。「カトレア様も反省しているなら、許してあげましょう」と言ってくれている。
僕も鬼ではない。君が心から詫び、王都に戻ってくるならば……』

そこで一度、ページをめくる。
次の一文を見た瞬間、私の動きが止まった。

『側室として、再び僕の側に置くことを考えてやってもいい』

「……」

プチッ。

私の脳内で、何かの回路が焼き切れる音がした。

側室。
あのアホ王子の。
しかも「してやってもいい」という上から目線。
誰が戻るか。
誰が謝るか。
あんな地獄の釜(王宮)に、二度と自分から飛び込むものですか!

「……カトレア?」

アレクセイ様が心配そうに私を覗き込む。
私が無言で固まっているのを、ショックで言葉を失っていると解釈したらしい。

「何が書いてある。……もしや、脅迫か?」

「……いいえ」

私はゆっくりと立ち上がった。
手紙を握りしめたまま、暖炉の方へと歩き出す。
その足取りは、幽鬼のように静かで、力強かった。

「カトレア、どこへ行く」

「少し、寒気がしましたので」

私は暖炉の前で立ち止まった。
赤々と燃え盛る炎。
薪がパチパチと爆ぜる音が心地よい。

私は手紙を広げた。
ジェラルド殿下の署名がある部分を、じっと見つめる。

(戻れ? 側室? ふざけないで)

今の私には、守るべきものがある。
耕すべき畑がある。
食べるべきデザートがある。

過去の男になど、構っている暇はないのだ。

「……さようなら」

私は手首のスナップを利かせ、手紙を暖炉の中へと放り込んだ。

ヒュッ。

紙片は美しい弧を描き、炎の中心へと吸い込まれていく。
ボッ!
一瞬にして火が燃え移り、ジェラルド殿下の愛の言葉(笑)は、灰と化した。

その間、わずか二秒。
迷いなど微塵もない、完璧な投擲フォームだった。

「……!!」

背後でアレクセイ様が息を呑む気配がした。

「カトレア……今、それを……」

「あら」

私は振り返り、わざとらしく口元に手を当てた。
もちろん、表情は能面のように無表情だ。

「手が滑りました」

「滑った……?」

「ええ。読み終わったので畳もうとしたら、うっかり暖炉の中にダイブさせてしまいました。……ああ、なんてことでしょう(棒読み)」

「……」

アレクセイ様は、燃え尽きていく手紙と、私の顔を交互に見た。
そして、ふっ、と肩の力を抜いた。

「そうか。……滑ったのなら仕方がないな」

「はい。残念ですが、内容はもう忘れました」

「うむ。忘れる程度のものだったということだ」

彼は立ち上がり、私の隣に来た。
そして、大きな手で私の頭をポンポンと撫でた。

「よくやった」

「え?」

「迷わず捨てるとは……君の決意、しかと見届けた」

(あ、やっぱりバレてた)

「過去の鎖を、自らの手で断ち切るその強さ……やはり君は美しい」

アレクセイ様は、燃え残った灰を見つめながら、冷徹に言い放った。

「あのような男の言葉など、薪にする価値もないがな」

「同感です。……でも、少し部屋が暖まりました」

「そうか。なら、もっと燃やすか?」

彼は懐から、何やら分厚い書類の束を取り出した。

「実は私の元にも、王家から『カトレアを引き渡せ』という命令書が届いていたのだが」

「えっ!?」

「無視するつもりだったが……君が寒いのなら、燃料にしよう」

彼は躊躇なく、王家の紋章が入った命令書を暖炉に放り込んだ。
ボオオオッ!!
紙束は良い燃料となり、炎の勢いが増した。

「あ、アレクセイ様!? それはまずいのでは!?」

「構わん。……『届いていない』と言い張ればいい」

「悪党だ……」

「君のためなら、悪党にでも反逆者にでもなろう」

彼は平然と言ってのけた。
その横顔があまりにもハンサムで、そして発言があまりにも過激で、私は胸が高鳴るのを止められなかった。

(この人……本気で国を敵に回す気だわ)

王家からの命令書を燃やし、元婚約者からの手紙を焼却処分した私たち。
共犯者となった二人の間には、奇妙な連帯感が生まれていた。

「……さて」

アレクセイ様が私に向き直る。

「邪魔者は消えた。……デザートの時間にするか」

「まだ食べるんですか!?」

「手紙を燃やしてカロリーを使っただろう。補給が必要だ」

「指先しか動かしてませんけど!?」

結局、その日も私は「おやつ」という名のフルコースを食べさせられることになった。
王都の脅威は、暖炉の炎と共に消え去った……かに思えた。

しかし。
手紙を無視されたジェラルド殿下が、大人しく引き下がるはずがなかった。
そして、あの計算高いミナ様が、このまま黙っているはずもない。

私の平穏な辺境ライフ(デブ活&農耕)に、王都からの黒い影が忍び寄るのは、もう少し先の話である。
今はただ、焼きマシュマロの甘さに酔いしれることにしよう。
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