貴様のような悪女とは婚約破棄だ!と言われたので、全力で帰ります。

黒猫かの

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「グオォォォォォッ!!」

ギガントベアの咆哮が森の木々を揺らす。
鼓膜が破れそうなほどの音圧だ。

しかし、アレクセイ様は涼しい顔で大剣を構えたまま、一歩も引かない。

「……うるさい熊だ」

ヒュンッ!
彼が大剣を一振りすると、不可視の斬撃が飛び、熊の足元の地面が裂けた。
威嚇だ。

「かかってこい。……夕食の食材にしてやる」

「ガァァッ!!」

熊が激昂し、突進を開始した。
戦車のような質量が、猛スピードで迫ってくる。
私なら腰を抜かして気絶するところだが、アレクセイ様は微動だにしない。

ドォォォォンッ!!

激突音。
熊の丸太のような腕の一撃を、アレクセイ様は大剣の腹で受け止めていた。
火花が散る。

「……ふん。力だけは一人前か」

アレクセイ様がニヤリと笑う。
楽しそうだ。
完全に戦闘狂の顔をしている。

「だが、遅い!」

ザシュッ!
銀閃が走る。
熊の腕から鮮血が噴き出した。

「ギャウッ!?」

熊が怯む。
その隙を逃さず、アレクセイ様は追撃を加える。
氷の魔法が付与された剣撃は、触れるものを凍らせながら切り裂いていく。

(すご……っ!)

私は木陰から顔を出して見守っていた。
圧倒的だ。
『氷の閣下』の二つ名は伊達じゃない。
あの巨大な魔物を、まるで子供扱いしている。

「よし、あともう少しでトドメ……」

そう思った時だった。

「グルルッ……」

手負いの熊が、ふと動きを止めた。
その視線が、アレクセイ様から外れる。
赤い瞳が、ギョロリと動く。

その先には――私。

(……え?)

熊の本能が働いたのだろう。
目の前の銀髪の男は勝てない相手だ。
ならば、あの後ろに隠れている弱そうな獲物を人質にするか、あるいは食って逃げるか。

「ガァァァァッ!!」

熊が方向転換した。
アレクセイ様を無視し、全速力で私に向かって突っ込んでくる。

「なっ……! カトレア!!」

アレクセイ様の焦った声が聞こえる。
しかし、距離が少し離れている。
間に合うか?

(嘘……こっちに来る!?)

視界いっぱいに広がる、血走った熊の顔。
開かれた大口。
並んだ鋭い牙。
そこから滴る粘液。

死ぬ。
食われる。
私の辺境ライフ、ここで終了――?

(嫌だああああああああああああああああ!!)

恐怖が爆発した。
心臓が縮み上がり、血の気が一気に引く。
全身の筋肉が硬直する。

私は逃げようとした。
しかし足が動かない。
声を出して助けを呼ぼうとした。
しかし喉が張り付いて、言葉にならない。

結果として。

私は、極限状態の「顔芸」を披露することになった。

目は限界まで見開かれ、白目が血走り、瞳孔は針のように収縮。
口は引きつり、牙を剥き出しにしたような形に固定される。
顔色は死人のように蒼白。
そして喉の奥からは、声にならない呻き声が漏れ出る。

「あ……あ゛……あ゛あ゛あ゛……」

(訳:助けて、来ないで、食べないで!)

しかし、その姿は傍目から見ればこうだった。

『地獄の底から這い上がってきた悪霊が、獲物を前にして歓喜の声を漏らしながら、呪詛を吐いている』

「グルッ!?」

突進していた熊が、急ブレーキをかけた。
ズザーッ! と地面を削り、私の目の前数メートルのところで静止する。

熊は見た。
目の前の「弱そうな獲物」が、一瞬にして「自分より上位の捕食者」に変貌したのを。

その眼力(メヂカラ)は、数多の獲物を屠ってきた自分のそれよりも遥かに凶悪で。
その口から漏れる「あ゛あ゛」という音は、まるで「美味そうな肉だ」と言っているようで。

(ヒッ……!)

熊が震えた。
野生の勘が警鐘を鳴らしている。
『コイツはヤバい。関わったら魂ごと食われる』と。

熊は後ずさりをした。
あの巨体が、私の顔を見て、怯えて下がっていく。

「……あ゛?」

(訳:なんで止まるの? 早くどっか行って!)

私が無意識に一歩踏み出すと(腰が抜けてよろけただけ)、熊は「ひいいッ!」という顔をして、尻尾を巻いて逃げ出しそうになった。

「……そこだッ!!」

その隙を、アレクセイ様が見逃すはずがなかった。

ズドンッ!!

上空から降ってきた大剣が、熊の脳天を深々と貫いた。

「ガ……」

断末魔も上げられず、熊はドサリと倒れた。
地響きと共に、巨大な魔物は沈黙した。

「……ふぅ」

アレクセイ様が剣を引き抜き、血振るいをして納刀する。
そして、すぐに私の元へ駆け寄ってきた。

「カトレア! 無事か!?」

「は、はい……」

私はへなへなと座り込んだ。
顔の筋肉がまだ強張っている。

「怪我はないか? すまない、まさか私を無視して君を狙うとは……」

アレクセイ様が私を抱き起こし、体を検分する。
そして、安堵のため息をついた。

「だが……驚いたぞ」

「へ?」

「まさか、あのギガントベアを『眼力(がんりき)』だけで怯ませるとは」

アレクセイ様が、感心したように私を見つめる。

「熊が一瞬、恐怖で硬直していた。……君の放った『殺気』に当てられたのだろう」

「さ、殺気……?」

「ああ。自分の命を狙う者を許さない、強烈な覇気だった。……さすがは、私が選んだ女性だ」

(違います。ただ恐怖で顔面が崩壊していただけです)

誤解は解けない。
しかし、結果オーライだ。

「……それで、アレクセイ様」

私は震える指で、倒れた熊を指差した。

「お肉は……無事ですか?」

「……っ、くくく」

アレクセイ様が吹き出した。
肩を揺らして笑う。

「君は……この状況で、まだ食い気の心配か」

「だ、だって……煮込みが……」

「安心しろ。無傷だ。掌もしっかり残っている」

彼は倒れた熊の前に立ち、ポンと手を置いた。

「これなら極上のシチューができるぞ。……帰ろう、カトレア」

「はい!」

帰路。
アレクセイ様は片手で私を抱き(馬の上)、もう片方の手で巨大な熊を引きずりながら(馬が可哀想なほど重そうだったが、魔法で浮かせているらしい)、城へと戻った。

出迎えた使用人たちの反応は、推して知るべしである。

「うおおおっ! 閣下がギガントベアを狩ってきたぞ!」
「すげぇデカさだ!」
「おい聞けよ! 姐さんが睨んだだけで熊がビビって動けなくなったらしいぞ!」
「マジかよ! 姐さん最強じゃねーか!」
「眼力でAランク魔物を制圧……一生ついていきます!」

私の武勇伝(捏造)が、また一つ増えてしまった。

その日の夕食。
食卓には、約束通り『熊掌の赤ワイン煮込み』が並んだ。

「……おいしい」

トロトロに煮込まれたコラーゲンの塊。
口の中でほどける濃厚な味わい。
恐怖体験など一瞬で吹き飛ぶほどの美味だった。

「たくさん食え。……君の勇気に乾杯だ」

アレクセイ様がワイングラスを掲げる。
私も葡萄ジュースで乾杯した。

「(まあ、結果的に美味しかったからいいか……)」

私は幸せな満腹感に包まれながら、また一つ、この辺境の地が好きになっていくのを感じていた。

しかし。
そんな平穏な日々も束の間。
お風呂ハプニング、魔物討伐デートを経て、二人の距離が急速に縮まった頃――ついに「あのイベント」が発生することになる。

「……うっ!」

翌朝。
私は脱衣所で、自分の姿を鏡に映して絶句した。

「ドレスの……ファスナーが……上がらない……?」

連日のカロリー過剰摂取。
動かない体。
そして美味しい熊肉。

ついに、恐れていた事態が現実のものとなったのである。
辺境ダイエット編、開幕の危機――!?
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