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王立歌劇場の貴賓席(ボックスシート)。
そこは、選ばれた上流階級のみが足を踏み入れることを許される、絢爛豪華な空間だ。
真紅のベルベットが張られた椅子。金箔を施した手すり。
そして眼下には、数百人の観客がひしめき合い、舞台上の悲恋に涙している。
「……ううっ、なんて可哀想なロミオ……」
「ジュリエット、死なないで……!」
会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。
舞台では、毒をあおった青年が、恋人の亡骸(仮死状態だが)を抱いて絶叫していた。
感動的なクライマックスだ。
しかし。
「……非効率ですね」
私はオペラグラスを下ろし、冷めた声で呟いた。
隣に座るアレクセイ公爵が、ピクリと眉を動かす。
「……何がだ」
「あの毒薬です。私の目利きでは、あれは闇市で取引される『即効性猛毒ポイズンA』です。相場は小瓶一本で五千ゴールド」
私は指折り計算した。
「五千ゴールドあれば、隣国までの馬車代と、当面の生活費、そして小さなパン屋を開業するくらいの資金になります。……死ぬ金があるなら、駆け落ちして起業すればいいのに。投資対効果(ROI)が最悪です」
「…………」
公爵が、深い、深いため息をついた。
「ジョアンナ。頼むから黙って見ていてくれ。……雰囲気が台無しだ」
「ですが閣下、あのヒロインもそうです。仮死状態になる薬なんてリスクが高すぎます。もし蘇生に失敗したら? 医療過誤の訴訟問題ですよ」
「これは『愛の悲劇』だ。リスク管理の話ではない」
「愛で飯は食えません。……あ、主役が死にました。これで葬儀費用と相続税が発生しますね。親族が揉めるでしょう」
「もういい」
公爵は私の口に、持参していた高級チョコレートを突っ込んだ。
「んぐっ」
「口を塞ぐ。……カーテンコールまで喋るな」
私はチョコをもぐもぐさせながら、大人しく舞台を眺めた。
美味しい。
やはり、悲恋よりも糖分だ。
◇
観劇後。
私たちは予約していた高級レストランへと移動した。
王都の夜景が一望できるテラス席。
キャンドルの灯りが揺れ、バイオリンの生演奏が流れる。
誰がどう見ても、プロポーズ直前のカップルが座るべきシチュエーションだ。
「……どうだった、久しぶりのオペラは」
公爵がワイングラスを揺らしながら尋ねる。
今日の彼は、いつもの軍服風の正装ではなく、シックなダークグレーのスーツを着ている。
前髪を少し下ろしており、その破壊力(色気)は、すれ違う給仕がトレイを落とすレベルだ。
「はい。大変勉強になりました」
私はナプキンを膝に置きながら答えた。
「劇場の照明設備のコストと、空調の効率化について、いくつかの改善案が浮かびました。後でレポートにまとめます」
「……そうか」
公爵の目が死んでいる。
「他には? ……物語についての感想はないのか?」
「物語、ですか? そうですね……」
私は少し考え込み、真剣な顔で答えた。
「登場人物たちの『報・連・相』が欠如していましたね。もっと密にコミュニケーションを取っていれば、あんな悲劇は防げたはずです。組織運営の反面教師としては優秀な脚本でした」
ガチャン。
公爵がフォークを皿に落とした。
「……ジョアンナ」
「はい?」
「君の心臓は、金属でできているのか?」
「いいえ、筋肉と弁膜です。先日の健診でも『強靭だ』と褒められました」
「そういう意味ではない……」
公爵は頭を抱えた。
「少しはロマンチックな気分にならんのか。……今、目の前にいる男を見ろ」
「見ています。今日も素晴らしい顔面偏差値ですね。国宝級です」
「……褒めているのか、からかっているのか」
「事実を述べています」
公爵は「はぁ」と吐息を漏らし、ウェイターにメインディッシュを持ってこさせた。
最高級フィレ肉のステーキ。トリュフソース添え。
私の目が輝く。
「わあ……! 美味しそう!」
「食い物を見る時だけ、乙女の顔になるのはなぜだ」
「食欲は生存本能に直結していますから」
私はナイフとフォークを手に取り、肉に入刀した。
柔らかい。
口に入れると、肉汁とトリュフの香りが爆発する。
「ん~~っ!」
「……美味いか」
「最高です! 閣下、一生ついていきます!」
「その台詞、肉を食うたびに言っている気がするな」
公爵は苦笑しながらも、自分の皿の肉を切り分け、私の皿に移してくれた。
「ほら、もっと食え。……君を太らせるのが、最近の私の趣味になりつつある」
「養豚場の経営者みたいなことを言わないでください」
会話は弾んだ。
いや、弾んでいるように見えた。
だが、公爵の表情には、どこか焦りのような色が見え隠れしていた。
食後のデザート(とろけるフォンダンショコラ)を食べ終えた頃。
公爵が、意を決したように口を開いた。
「ジョアンナ」
「はい、閣下」
「今後のことについて、話がある」
空気が変わった。
バイオリンの演奏が止み、周囲の客たちの話し声も遠ざかる。
公爵の氷の瞳が、真剣な光を宿して私を射抜く。
「エドワードたちの件も片付き、君の身の潔白も証明された。……君は今、自由な身だ」
「はい。おかげさまで」
「だが、私は君を手放すつもりはない。……それは以前言った通りだ」
「ええ。雇用契約は継続中ですよね?」
「契約の話ではない」
公爵がテーブルの上に身を乗り出した。
その手が、私の手に重ねられる。
熱い。
「私は、君との関係を……次の段階へ進めたいと思っている」
「次の段階……?」
私は首を傾げた。
事務官の次?
「ああ。……昇進ですか?」
私が尋ねると、公爵がズッコケそうになった。
「しょ、昇進……?」
「はい。筆頭財務管理官の次は……『総務統括』とか? それとも『公爵代理』ですか? 責任重大ですね。お給料はどれくらい上がりますか?」
「……金の話じゃない!」
公爵が小さな声で叫んだ。
「なぜそこで職務の話になる! 男女の仲の話だ!」
「男女の仲?」
私は瞬きをした。
「……セクハラ防止ガイドラインの改定ですか?」
「違う! ……くそっ、どうしてこう通じないんだ!」
公爵が髪をかきむしる。
いつもの冷静沈着な宰相閣下が、完全に乱れている。
「いいか、よく聞け。……私は君を、一人の女性として見ている」
「はい。性別は女ですので」
「そうじゃなくて! ……好意を持っていると言っているんだ!」
「存じております」
私は頷いた。
「閣下が私の計算能力と、メンタルの強さを高く評価してくださっていることは。……いわゆる『お気に入り』の人材ということですよね?」
「人材……」
「大丈夫です、閣下。期待には応えます。これからも馬車馬のように働きますので、ご安心ください」
私は公爵の手を、両手で包み込んでブンブンと振った。
「これからも、良き上司と部下として、共に国を支えていきましょう!」
「…………」
公爵が沈黙した。
その目が、据わっている。
氷の瞳の奥で、何かがプツンと切れたような音がした気がした。
「……上司と部下」
「はい」
「人材」
「はい」
「……そうか。君には、私の言葉がそう変換されるのか」
公爵が、ゆらりと立ち上がった。
「か、閣下?」
「帰るぞ」
「えっ、もうですか? まだコーヒーが……」
「いいから来い」
公爵は私の手首を掴み、テーブルに金貨(チップ込みで倍額)を叩きつけ、私を引きずって店を出た。
「きゃっ、ちょっと、速いです!」
公爵の歩幅が大きい。
私は小走りでついていくしかない。
店の外には、公爵家の馬車が待機していた。
公爵は私を馬車に押し込み、自分も乗り込むと、すぐに扉を閉めた。
「出してくれ!」
御者に叫ぶ。
馬車が動き出す。
密室。
薄暗い車内。
向かいの席に座る公爵からは、かつてないほどの「圧」が放たれていた。
「あ、あの……閣下? 怒っていらっしゃいます?」
私が恐る恐る聞くと、公爵は深呼吸をして、私を見た。
「……怒っているわけではない。呆れているのと、焦っているだけだ」
「焦り? 何か締め切りが近い案件でも?」
「君だ!」
ドンッ!!
本日、四度目の壁ドン(馬車ドン)が炸裂した。
公爵が座席から移動し、私の隣に座り込み、私を窓際に追い詰めたのだ。
「ひっ……!」
近い。
顔が、息がかかる距離にある。
「ジョアンナ。君は本当に……数字には強いのに、なぜ人の心が読めないんだ」
公爵の声が、切なげに響く。
「私は今まで、散々サインを送ってきたつもりだ。……他の男を排除し、君を独占し、甘やかし、ドレスを買い、デートに連れ出し……。これ以上、どうすれば伝わる?」
「え、えっと……」
私は混乱した。
「それらは全て、優秀な部下への福利厚生と、政治的パフォーマンスでは……?」
「福利厚生で、手の甲に口付けをする上司がいるか!?」
「あ、あれは……海外式の挨拶かと」
「ここは国内だ!」
公爵が叫ぶ。
「パフォーマンスで、毎晩君の好きな菓子を用意するか!? 君が笑う顔が見たいからやっているんだ!」
「えっ……」
「私が君を『財産』と言った時も、君は『資産価値』の話だと思っただろう。……違う。私にとって、君自身が宝物だという意味だ!」
公爵の言葉が、奔流のように押し寄せてくる。
私はパニックになった。
計算できない。
この変数は、私の想定外だ。
「で、でも……私は、ただの貧乏伯爵令嬢で……顔も怖くて、可愛げがなくて……」
「その顔がいいんだ!」
「は?」
「怒った顔も、計算している顔も、肉を食って緩んだ顔も……全部、私には可愛くて仕方がない」
公爵の手が、私の頬に触れる。
「君が他の男――エドワードや、街の店主と話しているだけで、胸がざわつく。……独り占めしたくなる。……これが『上司』の感情だと思うか?」
「……それは……」
「思わないだろう」
公爵が、私の額に自分の額を押し当てた。
「認めろ、ジョアンナ。……私は君に、惚れているんだ」
「!!!」
爆弾投下。
思考回路が完全にショートした。
惚れている?
この私が?
あの氷の公爵に?
「……け、計算ミスです」
私は震える声で言った。
「閣下の脳内にバグが発生しています。……疲れ目かもしれません。一度、遠くの緑を見た方が……」
「まだ言うか」
公爵が、低く笑った。
「なら、証明してやる」
「証明?」
「言葉でわからんのなら、体で教えるしかないな」
「えっ、ちょ、体罰は禁止……」
「体罰ではない」
公爵の顔が、角度を変えて近づいてくる。
唇の距離が、ゼロになる寸前。
「――んっ」
馬車が大きく揺れた。
ガタンッ!
「っと……!」
公爵の唇が、私の唇ではなく、鼻の頭にぶつかった。
「……痛っ」
「……くそっ、このタイミングで!」
公爵が悪態をつく。
どうやら、石畳の段差に乗り上げたらしい。
「……はぁ」
公爵が私の肩に顔を埋め、脱力した。
「……締まらないな、私も」
「い、いえ。……鼻がもげるかと思いましたが」
私は鼻を押さえた。心臓は破裂寸前だ。
「……まあいい。今日はこれくらいにしておいてやる」
公爵が顔を上げ、不敵に笑った。
「だが、覚悟しておけよ、ジョアンナ。……私は諦めんぞ。君が『参りました』と言って、私の腕の中に飛び込んでくるまで、徹底的に攻め落としてやる」
「……攻城戦ですか?」
「ああ。君という難攻不落の要塞を、必ず陥落させてみせる」
公爵は宣言した。
その目は、もはや「上司」のものではなかった。
獲物を狙う「男」の目だった。
私は、馬車のシートに縮こまりながら、とんでもないことになったと悟った。
平和な事務員生活?
スローライフ?
そんなものは、もうどこにもない。
これから始まるのは、最強の宰相閣下による、逃げ場のない「求愛の包囲網」なのだ。
(……どうしよう。計算式が……全く立たないわ)
私の顔は、夕焼けよりも赤く染まっていたに違いない。
こうして、私たちの関係は「第2ラウンド」へと突入した。
それは、仕事よりも、不正経理よりも、何倍も難解で、そして甘い戦いだった。
そこは、選ばれた上流階級のみが足を踏み入れることを許される、絢爛豪華な空間だ。
真紅のベルベットが張られた椅子。金箔を施した手すり。
そして眼下には、数百人の観客がひしめき合い、舞台上の悲恋に涙している。
「……ううっ、なんて可哀想なロミオ……」
「ジュリエット、死なないで……!」
会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。
舞台では、毒をあおった青年が、恋人の亡骸(仮死状態だが)を抱いて絶叫していた。
感動的なクライマックスだ。
しかし。
「……非効率ですね」
私はオペラグラスを下ろし、冷めた声で呟いた。
隣に座るアレクセイ公爵が、ピクリと眉を動かす。
「……何がだ」
「あの毒薬です。私の目利きでは、あれは闇市で取引される『即効性猛毒ポイズンA』です。相場は小瓶一本で五千ゴールド」
私は指折り計算した。
「五千ゴールドあれば、隣国までの馬車代と、当面の生活費、そして小さなパン屋を開業するくらいの資金になります。……死ぬ金があるなら、駆け落ちして起業すればいいのに。投資対効果(ROI)が最悪です」
「…………」
公爵が、深い、深いため息をついた。
「ジョアンナ。頼むから黙って見ていてくれ。……雰囲気が台無しだ」
「ですが閣下、あのヒロインもそうです。仮死状態になる薬なんてリスクが高すぎます。もし蘇生に失敗したら? 医療過誤の訴訟問題ですよ」
「これは『愛の悲劇』だ。リスク管理の話ではない」
「愛で飯は食えません。……あ、主役が死にました。これで葬儀費用と相続税が発生しますね。親族が揉めるでしょう」
「もういい」
公爵は私の口に、持参していた高級チョコレートを突っ込んだ。
「んぐっ」
「口を塞ぐ。……カーテンコールまで喋るな」
私はチョコをもぐもぐさせながら、大人しく舞台を眺めた。
美味しい。
やはり、悲恋よりも糖分だ。
◇
観劇後。
私たちは予約していた高級レストランへと移動した。
王都の夜景が一望できるテラス席。
キャンドルの灯りが揺れ、バイオリンの生演奏が流れる。
誰がどう見ても、プロポーズ直前のカップルが座るべきシチュエーションだ。
「……どうだった、久しぶりのオペラは」
公爵がワイングラスを揺らしながら尋ねる。
今日の彼は、いつもの軍服風の正装ではなく、シックなダークグレーのスーツを着ている。
前髪を少し下ろしており、その破壊力(色気)は、すれ違う給仕がトレイを落とすレベルだ。
「はい。大変勉強になりました」
私はナプキンを膝に置きながら答えた。
「劇場の照明設備のコストと、空調の効率化について、いくつかの改善案が浮かびました。後でレポートにまとめます」
「……そうか」
公爵の目が死んでいる。
「他には? ……物語についての感想はないのか?」
「物語、ですか? そうですね……」
私は少し考え込み、真剣な顔で答えた。
「登場人物たちの『報・連・相』が欠如していましたね。もっと密にコミュニケーションを取っていれば、あんな悲劇は防げたはずです。組織運営の反面教師としては優秀な脚本でした」
ガチャン。
公爵がフォークを皿に落とした。
「……ジョアンナ」
「はい?」
「君の心臓は、金属でできているのか?」
「いいえ、筋肉と弁膜です。先日の健診でも『強靭だ』と褒められました」
「そういう意味ではない……」
公爵は頭を抱えた。
「少しはロマンチックな気分にならんのか。……今、目の前にいる男を見ろ」
「見ています。今日も素晴らしい顔面偏差値ですね。国宝級です」
「……褒めているのか、からかっているのか」
「事実を述べています」
公爵は「はぁ」と吐息を漏らし、ウェイターにメインディッシュを持ってこさせた。
最高級フィレ肉のステーキ。トリュフソース添え。
私の目が輝く。
「わあ……! 美味しそう!」
「食い物を見る時だけ、乙女の顔になるのはなぜだ」
「食欲は生存本能に直結していますから」
私はナイフとフォークを手に取り、肉に入刀した。
柔らかい。
口に入れると、肉汁とトリュフの香りが爆発する。
「ん~~っ!」
「……美味いか」
「最高です! 閣下、一生ついていきます!」
「その台詞、肉を食うたびに言っている気がするな」
公爵は苦笑しながらも、自分の皿の肉を切り分け、私の皿に移してくれた。
「ほら、もっと食え。……君を太らせるのが、最近の私の趣味になりつつある」
「養豚場の経営者みたいなことを言わないでください」
会話は弾んだ。
いや、弾んでいるように見えた。
だが、公爵の表情には、どこか焦りのような色が見え隠れしていた。
食後のデザート(とろけるフォンダンショコラ)を食べ終えた頃。
公爵が、意を決したように口を開いた。
「ジョアンナ」
「はい、閣下」
「今後のことについて、話がある」
空気が変わった。
バイオリンの演奏が止み、周囲の客たちの話し声も遠ざかる。
公爵の氷の瞳が、真剣な光を宿して私を射抜く。
「エドワードたちの件も片付き、君の身の潔白も証明された。……君は今、自由な身だ」
「はい。おかげさまで」
「だが、私は君を手放すつもりはない。……それは以前言った通りだ」
「ええ。雇用契約は継続中ですよね?」
「契約の話ではない」
公爵がテーブルの上に身を乗り出した。
その手が、私の手に重ねられる。
熱い。
「私は、君との関係を……次の段階へ進めたいと思っている」
「次の段階……?」
私は首を傾げた。
事務官の次?
「ああ。……昇進ですか?」
私が尋ねると、公爵がズッコケそうになった。
「しょ、昇進……?」
「はい。筆頭財務管理官の次は……『総務統括』とか? それとも『公爵代理』ですか? 責任重大ですね。お給料はどれくらい上がりますか?」
「……金の話じゃない!」
公爵が小さな声で叫んだ。
「なぜそこで職務の話になる! 男女の仲の話だ!」
「男女の仲?」
私は瞬きをした。
「……セクハラ防止ガイドラインの改定ですか?」
「違う! ……くそっ、どうしてこう通じないんだ!」
公爵が髪をかきむしる。
いつもの冷静沈着な宰相閣下が、完全に乱れている。
「いいか、よく聞け。……私は君を、一人の女性として見ている」
「はい。性別は女ですので」
「そうじゃなくて! ……好意を持っていると言っているんだ!」
「存じております」
私は頷いた。
「閣下が私の計算能力と、メンタルの強さを高く評価してくださっていることは。……いわゆる『お気に入り』の人材ということですよね?」
「人材……」
「大丈夫です、閣下。期待には応えます。これからも馬車馬のように働きますので、ご安心ください」
私は公爵の手を、両手で包み込んでブンブンと振った。
「これからも、良き上司と部下として、共に国を支えていきましょう!」
「…………」
公爵が沈黙した。
その目が、据わっている。
氷の瞳の奥で、何かがプツンと切れたような音がした気がした。
「……上司と部下」
「はい」
「人材」
「はい」
「……そうか。君には、私の言葉がそう変換されるのか」
公爵が、ゆらりと立ち上がった。
「か、閣下?」
「帰るぞ」
「えっ、もうですか? まだコーヒーが……」
「いいから来い」
公爵は私の手首を掴み、テーブルに金貨(チップ込みで倍額)を叩きつけ、私を引きずって店を出た。
「きゃっ、ちょっと、速いです!」
公爵の歩幅が大きい。
私は小走りでついていくしかない。
店の外には、公爵家の馬車が待機していた。
公爵は私を馬車に押し込み、自分も乗り込むと、すぐに扉を閉めた。
「出してくれ!」
御者に叫ぶ。
馬車が動き出す。
密室。
薄暗い車内。
向かいの席に座る公爵からは、かつてないほどの「圧」が放たれていた。
「あ、あの……閣下? 怒っていらっしゃいます?」
私が恐る恐る聞くと、公爵は深呼吸をして、私を見た。
「……怒っているわけではない。呆れているのと、焦っているだけだ」
「焦り? 何か締め切りが近い案件でも?」
「君だ!」
ドンッ!!
本日、四度目の壁ドン(馬車ドン)が炸裂した。
公爵が座席から移動し、私の隣に座り込み、私を窓際に追い詰めたのだ。
「ひっ……!」
近い。
顔が、息がかかる距離にある。
「ジョアンナ。君は本当に……数字には強いのに、なぜ人の心が読めないんだ」
公爵の声が、切なげに響く。
「私は今まで、散々サインを送ってきたつもりだ。……他の男を排除し、君を独占し、甘やかし、ドレスを買い、デートに連れ出し……。これ以上、どうすれば伝わる?」
「え、えっと……」
私は混乱した。
「それらは全て、優秀な部下への福利厚生と、政治的パフォーマンスでは……?」
「福利厚生で、手の甲に口付けをする上司がいるか!?」
「あ、あれは……海外式の挨拶かと」
「ここは国内だ!」
公爵が叫ぶ。
「パフォーマンスで、毎晩君の好きな菓子を用意するか!? 君が笑う顔が見たいからやっているんだ!」
「えっ……」
「私が君を『財産』と言った時も、君は『資産価値』の話だと思っただろう。……違う。私にとって、君自身が宝物だという意味だ!」
公爵の言葉が、奔流のように押し寄せてくる。
私はパニックになった。
計算できない。
この変数は、私の想定外だ。
「で、でも……私は、ただの貧乏伯爵令嬢で……顔も怖くて、可愛げがなくて……」
「その顔がいいんだ!」
「は?」
「怒った顔も、計算している顔も、肉を食って緩んだ顔も……全部、私には可愛くて仕方がない」
公爵の手が、私の頬に触れる。
「君が他の男――エドワードや、街の店主と話しているだけで、胸がざわつく。……独り占めしたくなる。……これが『上司』の感情だと思うか?」
「……それは……」
「思わないだろう」
公爵が、私の額に自分の額を押し当てた。
「認めろ、ジョアンナ。……私は君に、惚れているんだ」
「!!!」
爆弾投下。
思考回路が完全にショートした。
惚れている?
この私が?
あの氷の公爵に?
「……け、計算ミスです」
私は震える声で言った。
「閣下の脳内にバグが発生しています。……疲れ目かもしれません。一度、遠くの緑を見た方が……」
「まだ言うか」
公爵が、低く笑った。
「なら、証明してやる」
「証明?」
「言葉でわからんのなら、体で教えるしかないな」
「えっ、ちょ、体罰は禁止……」
「体罰ではない」
公爵の顔が、角度を変えて近づいてくる。
唇の距離が、ゼロになる寸前。
「――んっ」
馬車が大きく揺れた。
ガタンッ!
「っと……!」
公爵の唇が、私の唇ではなく、鼻の頭にぶつかった。
「……痛っ」
「……くそっ、このタイミングで!」
公爵が悪態をつく。
どうやら、石畳の段差に乗り上げたらしい。
「……はぁ」
公爵が私の肩に顔を埋め、脱力した。
「……締まらないな、私も」
「い、いえ。……鼻がもげるかと思いましたが」
私は鼻を押さえた。心臓は破裂寸前だ。
「……まあいい。今日はこれくらいにしておいてやる」
公爵が顔を上げ、不敵に笑った。
「だが、覚悟しておけよ、ジョアンナ。……私は諦めんぞ。君が『参りました』と言って、私の腕の中に飛び込んでくるまで、徹底的に攻め落としてやる」
「……攻城戦ですか?」
「ああ。君という難攻不落の要塞を、必ず陥落させてみせる」
公爵は宣言した。
その目は、もはや「上司」のものではなかった。
獲物を狙う「男」の目だった。
私は、馬車のシートに縮こまりながら、とんでもないことになったと悟った。
平和な事務員生活?
スローライフ?
そんなものは、もうどこにもない。
これから始まるのは、最強の宰相閣下による、逃げ場のない「求愛の包囲網」なのだ。
(……どうしよう。計算式が……全く立たないわ)
私の顔は、夕焼けよりも赤く染まっていたに違いない。
こうして、私たちの関係は「第2ラウンド」へと突入した。
それは、仕事よりも、不正経理よりも、何倍も難解で、そして甘い戦いだった。
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