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「カイン、起きてちょうだい! 太陽が私の胃袋を急かしているわ!」
北の離宮での初めての朝。午前四時という、まだ星が瞬く時間帯にアルカの叫びが響き渡った。
カインは無表情のまま、既に完璧に整えられた身なりで彼女の寝室の前に立っていた。
「お嬢様。私は既に起きております。それよりも、その格好は何事ですか」
アルカは豪華な寝巻きの上に、昨晩ヨハンから奪い取った……もとい、譲り受けた頑丈な革のベストを羽織っていた。
手には大きな籠と、なぜか鋭利なスコップが握られている。
「何事かって、決まっているじゃない。朝露に濡れた『鬼ノワラビ』を摘みに行くのよ! あれは日の出と共に硬くなるんですって。一分一秒が勝負よ!」
「……左様でございますか。しかし、外はマイナス十度を下回っております。公爵令嬢が凍死したとなれば、旦那様に申し訳が立ちません」
「大丈夫よ、カイン。私の情熱が体温を五度くらい上げているから。さあ、行くわよ!」
アルカは止める間もなく、雪原へと駆け出していった。
カインは深く、深いため息を吐き出すと、彼女の背後を追うためにスノーシューを履き直した。
「……私は侍従であって、山岳ガイドでも猟師でもないはずなのですが」
森の中に入ると、アルカの動きはさらに洗練されたものになった。
彼女は雪の上に残された微かな痕跡を見逃さず、獲物を探す獣のような鋭い視線で周囲を警戒している。
「カイン、あそこ! あの倒木の陰に、紫色の穂先が見えるわ!」
「あれが鬼ノワラビですか。確かに毒々しい色をしておりますね」
「毒なんて、アク抜きをすれば最高のスパイスになるわ。さあ、掘るわよ!」
アルカはスコップを突き立て、凍った地面をものともせずに掘り進める。
カインは黙ってその横に立ち、彼女が掘り出したワラビを丁寧に拭き取り、籠に収めていく。
「お嬢様、これ以上は籠が持ちません。それに、背後の茂みから視線を感じます」
「視線? ああ、あれね。さっきから私たちが掘るのを待っている『スノーラット』よ。彼らもこのワラビが好物なの。でも、譲らないわよ。これは私のオムレツの具材なんだから!」
アルカが威嚇するようにスコップを振ると、茂みの中からキーキーという鳴き声と共に巨大なネズミが逃げ出していった。
「……お嬢様。今、魔物の一種を追い払いましたね」
「食べ物の恨みは魔物より深いのよ。さあ、次はあっちの沢へ行くわ!」
「……まだ行くのですか」
二時間が経過した頃、カインの両腕には山のような山菜と、アルカが「ついでに」と捕まえた川魚の入ったバケツがぶら下がっていた。
極寒の中での重労働。しかし、アルカは疲れるどころか、ますます血色を良くしている。
「カイン、そんなに暗い顔をしないで。帰ったらこのワラビをたっぷり入れた、特製のスープを作ってあげるから」
「それは楽しみでございます。ですが、私の筋肉が明日まで持ちこたえるか、甚だ疑問でございます」
「あら、カイン。あなたのその引き締まった筋肉は、美味しいものを運ぶためにあるのよ。誇りに思いなさい」
「……光栄に存じます」
ようやく離宮へ戻ると、玄関先でヨハンが呆れた顔をして立っていた。
「おい、あんたら……。本気でその格好で森へ入ったのか? あそこには凶暴な魔物が出るんだぞ」
「魔物? ああ、いくつか見かけましたけど、お肉が少なそうだったので無視しましたわ」
アルカは平然と言い放つと、カインから籠を取り上げ、台所へと鼻歌混じりに消えていった。
ヨハンは、疲れ果てた様子で雪を払うカインの肩を叩いた。
「……兄ちゃん、あんたも大変だな。あんなお嬢様に仕えるなんて、前世でどんな悪行を積んだんだ?」
「……私にもわかりません。ただ一つ言えるのは、私の胃袋だけは、彼女なしでは生きていけなくなっているということだけです」
カインは自嘲気味に笑うと、アルカの呼ぶ声に応えるべく、再び背筋を伸ばした。
「カイン! 火力が足りないわ! もっと薪をくべて!」
「今、参ります。……お嬢様、火力の管理は調理人の基本ではないのですか?」
「私は今、味付けという神聖な儀式に忙しいのよ!」
北の離宮に、香ばしいワラビの香りと、主従の絶え間ないやり取りが満ちていく。
カインの受難は、どうやらこれからも長く、そして「美味しく」続いていくようであった。
北の離宮での初めての朝。午前四時という、まだ星が瞬く時間帯にアルカの叫びが響き渡った。
カインは無表情のまま、既に完璧に整えられた身なりで彼女の寝室の前に立っていた。
「お嬢様。私は既に起きております。それよりも、その格好は何事ですか」
アルカは豪華な寝巻きの上に、昨晩ヨハンから奪い取った……もとい、譲り受けた頑丈な革のベストを羽織っていた。
手には大きな籠と、なぜか鋭利なスコップが握られている。
「何事かって、決まっているじゃない。朝露に濡れた『鬼ノワラビ』を摘みに行くのよ! あれは日の出と共に硬くなるんですって。一分一秒が勝負よ!」
「……左様でございますか。しかし、外はマイナス十度を下回っております。公爵令嬢が凍死したとなれば、旦那様に申し訳が立ちません」
「大丈夫よ、カイン。私の情熱が体温を五度くらい上げているから。さあ、行くわよ!」
アルカは止める間もなく、雪原へと駆け出していった。
カインは深く、深いため息を吐き出すと、彼女の背後を追うためにスノーシューを履き直した。
「……私は侍従であって、山岳ガイドでも猟師でもないはずなのですが」
森の中に入ると、アルカの動きはさらに洗練されたものになった。
彼女は雪の上に残された微かな痕跡を見逃さず、獲物を探す獣のような鋭い視線で周囲を警戒している。
「カイン、あそこ! あの倒木の陰に、紫色の穂先が見えるわ!」
「あれが鬼ノワラビですか。確かに毒々しい色をしておりますね」
「毒なんて、アク抜きをすれば最高のスパイスになるわ。さあ、掘るわよ!」
アルカはスコップを突き立て、凍った地面をものともせずに掘り進める。
カインは黙ってその横に立ち、彼女が掘り出したワラビを丁寧に拭き取り、籠に収めていく。
「お嬢様、これ以上は籠が持ちません。それに、背後の茂みから視線を感じます」
「視線? ああ、あれね。さっきから私たちが掘るのを待っている『スノーラット』よ。彼らもこのワラビが好物なの。でも、譲らないわよ。これは私のオムレツの具材なんだから!」
アルカが威嚇するようにスコップを振ると、茂みの中からキーキーという鳴き声と共に巨大なネズミが逃げ出していった。
「……お嬢様。今、魔物の一種を追い払いましたね」
「食べ物の恨みは魔物より深いのよ。さあ、次はあっちの沢へ行くわ!」
「……まだ行くのですか」
二時間が経過した頃、カインの両腕には山のような山菜と、アルカが「ついでに」と捕まえた川魚の入ったバケツがぶら下がっていた。
極寒の中での重労働。しかし、アルカは疲れるどころか、ますます血色を良くしている。
「カイン、そんなに暗い顔をしないで。帰ったらこのワラビをたっぷり入れた、特製のスープを作ってあげるから」
「それは楽しみでございます。ですが、私の筋肉が明日まで持ちこたえるか、甚だ疑問でございます」
「あら、カイン。あなたのその引き締まった筋肉は、美味しいものを運ぶためにあるのよ。誇りに思いなさい」
「……光栄に存じます」
ようやく離宮へ戻ると、玄関先でヨハンが呆れた顔をして立っていた。
「おい、あんたら……。本気でその格好で森へ入ったのか? あそこには凶暴な魔物が出るんだぞ」
「魔物? ああ、いくつか見かけましたけど、お肉が少なそうだったので無視しましたわ」
アルカは平然と言い放つと、カインから籠を取り上げ、台所へと鼻歌混じりに消えていった。
ヨハンは、疲れ果てた様子で雪を払うカインの肩を叩いた。
「……兄ちゃん、あんたも大変だな。あんなお嬢様に仕えるなんて、前世でどんな悪行を積んだんだ?」
「……私にもわかりません。ただ一つ言えるのは、私の胃袋だけは、彼女なしでは生きていけなくなっているということだけです」
カインは自嘲気味に笑うと、アルカの呼ぶ声に応えるべく、再び背筋を伸ばした。
「カイン! 火力が足りないわ! もっと薪をくべて!」
「今、参ります。……お嬢様、火力の管理は調理人の基本ではないのですか?」
「私は今、味付けという神聖な儀式に忙しいのよ!」
北の離宮に、香ばしいワラビの香りと、主従の絶え間ないやり取りが満ちていく。
カインの受難は、どうやらこれからも長く、そして「美味しく」続いていくようであった。
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