「婚約破棄? ええ、どうぞ!(食い気味)」

黒猫かの

文字の大きさ
21 / 28

21

しおりを挟む
嵐のような夜会が幕を閉じ、静寂が王宮を包み込んでおりました。


普通の方なら、慣れないダンス(格闘)の疲れを癒やすために泥のように眠る時間でしょう。
ですが、私は違いますわ。


「おーっほっほっほ! パーティーの後の静寂……それは、埃たちの断末魔を聞くのに最高のコンディションですわ!」


私はドレスを脱ぎ捨て、いつもの動きやすい侍女服に着替えると、誰もいなくなったバルコニーへと足を運びました。
手には、お気に入りの最高級ネル生地の雑巾。
月明かりの下で、欄干の隙間に溜まった「パーティーの残骸」を拭き取る作業は、何物にも代えがたい至福の時間ですわ。


「……やっぱりここにいたんだね、リオナ」


背後から、低くて心地よい声が響きました。
振り返ると、正装の上着を脱ぎ、シャツの襟元を少し寛がせたシオン殿下が立っておりました。


「殿下。お疲れ様でしたわ。あんなに回ったのですから、今頃はベッドで天井の回転を楽しんでいらっしゃるかと思いましたのに」


「ははは、残念ながら目が冴えてしまってね。……君が、また勝手に『残業』を始めているんじゃないかと思って」


シオン殿下は私の隣に立ち、夜風に銀髪をなびかせました。
その瞳は、いつになく真剣な光を湛えています。


「殿下、残業ではありませんわ。これは私の『魂の整理整頓』ですの。……ところで、殿下の立ち位置、少し左にずれてくださる? そこの大理石に、殿下の影が落ちて磨き残しが見えにくいんですわ」


「リオナ。……今は、掃除の話はやめないか」


シオン殿下が、私の持つ雑巾の上から、そっと自分の手を重ねてきました。
大きな、温かい手。
その温度が私の指先から伝わり、なぜか心臓がドクンと跳ねましたわ。


「……殿下? 手が汚れますわよ。この雑巾、さっきカナッペのソースを拭き取ったばかりなんですの」


「汚れても構わない。……君に、どうしても伝えなければならないことがあるんだ」


シオン殿下が、私の体を自分の方へと優しく向けさせました。
至近距離で見つめられる、その真っ直ぐな瞳。
月光に照らされた彼の美貌は、もはや暴力的なまでの破壊力を秘めておりました。


「リオナ。君がこの国に来てから、私の毎日は一変した。……朝起きるのが楽しみになり、君の掃除の音を聞くだけで心が安らぐ。……君が笑うと、世界中のどんな宝石よりも眩しいと感じるんだ」


「まあ、殿下! そんなに私の清掃スキルを高く評価してくださるなんて。侍女冥利に尽きますわ!」


「……違う。侍女として言っているんじゃない」


シオン殿下は私の両手を握りしめ、さらに一歩、距離を詰めました。
彼の吐息が、私の額にかかるほど近く。


「私は、君を愛している。……元公爵令嬢としてでも、有能な侍女としてでもない。……突拍子もないことを言い出し、猪突猛進に埃を追いかけ、誰よりも自由に、誰よりも誇り高く生きる『リオナ』という一人の女性を、心から愛しているんだ」


静寂の中に、殿下の言葉だけが深く響き渡りました。
愛している。
かつてヴィンス王子からも、何度か聞いたはずの言葉。
ですが、目の前の殿下から放たれたその言葉には、胸を締め付けるような、逃げ出したくなるほど重くて温かい「真実」が宿っておりました。


「……殿下。それは、もしや……『終身雇用』のプロポーズかしら?」


私は震える声を抑え、必死にユーモアの防壁を築こうとしました。


「いいえ、もっと深刻な……『生涯福利厚生の完全保証』? あるいは、『全権清掃管理官』としての昇進のお話?」


「……リオナ。茶化さないでくれ。私は本気だ」


シオン殿下の手の力が、少しだけ強くなりました。


「君は、ヴィンス殿下との婚約で、自由を奪われる恐怖を知っている。……だからこそ、私が君を『王妃』という名の籠に閉じ込めようとしているのではないかと、不安に思っているんだろう?」


私は言葉を失いました。
……そうですわ。
私がなぜ、殿下の好意に気づかないフリを続けてきたのか。
それは、彼を愛してしまうことで、またあの「息苦しい未来」に戻ってしまうのではないかと、本能が警鐘を鳴らしていたからですの。


「約束する、リオナ。私の隣にいることが、君の自由を奪うことはない。……君が掃除をしたいなら、国中の城を磨き上げればいい。君が旅をしたいなら、私が君の護衛としてどこまでもついていく。……君は君のままでいい。私は、ただ君の隣にいる権利が欲しいだけなんだ」


「……殿下……」


「君の答えを、今すぐとは言わない。……ただ、これだけは覚えておいてくれ。私の心の中の『特等席』は、既に君が完璧に磨き上げ、予約済みなんだ」


シオン殿下は、私の手の甲に、羽が触れるような優しいキスを落としました。
そして、名残惜しそうに私の手を離すと、ふっと微笑んで背を向けました。


「……おやすみ、リオナ。……あまり夜更かしして、明日の仕事に響かないようにな」


殿下の足音が遠ざかっていきます。
私は一人、バルコニーに取り残されました。


手元の雑巾は、もう冷たくなっていました。
ですが、私の顔は、茹で上がったタコのように真っ赤に火照っておりました。


「……な、なんてことですの。……シオン殿下、あんなに『いい声』で、あんなに『真っ直ぐ』な瞳で……。これでは、私の『防壁』がボロボロになってしまいますわ」


私は欄干に縋り付き、夜の空を仰ぎました。
シオン殿下の告白。
それは、掃除や仕事という盾では防ぎきれない、私の心の一番奥深くに届いてしまったのです。


「……おーっほっほっほ! ……だ、ダメですわ、笑い声が震えてしまいますわよ……」


月明かりの下、私は一晩中、バルコニーを磨き続けました。
そうでもしなければ、胸の高鳴りで、自分が溶けて消えてしまいそうだったからですの。


アステリアの夜は、これまでになく甘く、そして私にとっての「新しい悩み」を運んできたのでした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄されたので契約を終了しただけですが? ~王国が崩壊したのは私のせいではありません~

しおしお
恋愛
王立学園の卒業舞踏会。 王太子レオナードは突然、婚約者である公爵令嬢アデリーナとの婚約破棄を宣言する。 隣に立つのは、涙を流す義妹ミレイナ。 「お姉様に虐げられてきました」と訴える彼女の言葉を、貴族たちは信じてしまう。 悪女として断罪され、追放を宣告されるアデリーナ。 だが彼女は怒りも悲しみも見せず、ただ静かに微笑んだ。 「承知いたしました。では――契約を終了いたします」 その一言が、すべての始まりだった。 公爵家による融資、貿易、軍需支援。 王国を支えていたすべてが、静かに停止する。 財務は崩壊し、軍は止まり、商人は離反。 王都は混乱に包まれていく。 やがて明らかになる義妹の嘘。 そして王太子の責任。 すべてが暴かれたとき、二人を待っていたのは―― 完全な破滅だった。 一方アデリーナは、隣国で静かな紅茶の時間を過ごしていた。 これは、 婚約破棄された公爵令嬢が“何もしなかった”ことで始まる、 王国崩壊と地獄のざまぁの物語。 ――その報告書を、彼女が読むことは一度もなかった。

《完結》悪女と噂されたわたくしのざまぁ

ヴァンドール
恋愛
悪女と噂のわたくしとの結婚なら、どれほど軽んじても問題はないと思っていた旦那様。 ところが……。

断罪予定の悪役令嬢ですが、王都でカフェを開いたら婚約者の王太子が常連になりました

由香
恋愛
公爵令嬢エリザベートは、自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生していることに気付く。 このままでは一年後の夜会で婚約破棄され、断罪された上で国外追放されてしまう運命だ。 「――だったら、その前に稼げばいいわ!」 前世の記憶を頼りに、王都の裏通りで小さなカフェを開くことにしたエリザベート。 コーヒーやケーキは評判となり、店は少しずつ人気店へと成長していく。 そんなある日、店に一人の青年が現れる。 落ち着いた雰囲気のその客は、毎日のように通う常連になった。 しかし彼の正体は――なんと婚約者である王太子レオンハルトだった!? 破滅回避のために始めたカフェ経営が、やがて運命を変えていく。 これは、悪役令嬢が小さなカフェから幸せを掴む ほのぼのカフェ経営×溺愛ロマンスストーリー。

ある日、私は事故で死んだ───はずなのに、目が覚めたら事故の日の朝なんですけど!?

ねーさん
恋愛
   アイリスは十六歳の誕生日の前の日に、姉ヴィクトリアと幼なじみジェイドと共に馬車で王宮に向かう途中、事故に遭い命を落とした───はずだったが、目覚めると何故か事故の日の朝に巻き戻っていた。  何度もその日を繰り返して、その度事故に遭って死んでしまうアイリス。  何度目の「今日」かもわからなくなった頃、目が覚めると、そこにはヴィクトリアの婚約者で第三王子ウォルターがいた。  「明日」が来たんだわ。私、十六歳になれたんだ…

虐げられた人生に疲れたので本物の悪女に私はなります

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
伯爵家である私の家には両親を亡くして一緒に暮らす同い年の従妹のカサンドラがいる。当主である父はカサンドラばかりを溺愛し、何故か実の娘である私を虐げる。その為に母も、使用人も、屋敷に出入りする人達までもが皆私を馬鹿にし、時には罠を這って陥れ、その度に私は叱責される。どんなに自分の仕業では無いと訴えても、謝罪しても許されないなら、いっそ本当の悪女になることにした。その矢先に私の婚約者候補を名乗る人物が現れて、話は思わぬ方向へ・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

ヒロインが私の婚約者を攻略しようと狙ってきますが、彼は私を溺愛しているためフラグをことごとく叩き破ります

奏音 美都
恋愛
 ナルノニア公爵の爵士であるライアン様は、幼い頃に契りを交わした私のご婚約者です。整った容姿で、利発で、勇ましくありながらもお優しいライアン様を、私はご婚約者として紹介されたその日から好きになり、ずっとお慕いし、彼の妻として恥ずかしくないよう精進してまいりました。  そんなライアン様に大切にされ、お隣を歩き、会話を交わす幸せに満ちた日々。  それが、転入生の登場により、嵐の予感がしたのでした。

え?わたくしは通りすがりの元病弱令嬢ですので修羅場に巻き込まないでくたさい。

ネコフク
恋愛
わたくしリィナ=ユグノアは小さな頃から病弱でしたが今は健康になり学園に通えるほどになりました。しかし殆ど屋敷で過ごしていたわたくしには学園は迷路のような場所。入学して半年、未だに迷子になってしまいます。今日も侍従のハルにニヤニヤされながら遠回り(迷子)して出た場所では何やら不穏な集団が・・・ 強制的に修羅場に巻き込まれたリィナがちょっとだけざまぁするお話です。そして修羅場とは関係ないトコで婚約者に溺愛されています。

夫に君も愛人を作ればいいと言われましたので

麻麻(あさあさ)
恋愛
「君も愛人を作ればいい」と夫に言われたので売り言葉に買い言葉で出会った愛人候補は自分が魔法使い伯爵と言いました。 全15話。プロローグから4話まで一挙公開。 翌日からは20時に2話ずつ公開。11日は最終話まで3話一挙公開。 登場人物 マーリン・ダグラス 結婚2年目にして夫の不倫を問い詰めたら黒だった令嬢。母に聞かされた結婚は夫となる人を大事にという言葉を守ってるが夫のギルバートにブチギレてこの度愛人を探すと決める。 デミトリアス・ドラモンドまたはアロン マーリンが仮面舞踏会で知り合った自称魔法使い伯爵。次の日にマーリン好みの執事アロンに姿を変えて彼女の屋敷に来る。 ギルバート・ダグラス マーリンの夫で伯爵。ギルと呼ばれている。愛人を作れば発言をした。 シェリー・モーヴ ギルバートの愛人 エミリー マーリンの親友で既婚者。 ララとリリー マーリンの屋敷のメイド達。

処理中です...