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「……遅い」
『黒字屋』のカウンター席。
私はいつもの特等席で、懐中時計と睨めっこをしていた。
午後三時十五分。
普段であれば、この時間には「視察」と称して仕事をサボ……休憩しに来るクラウス公爵が現れるはずだ。
彼は私の淹れた紅茶(一杯金貨一枚)を飲みながら、国の経済状況や、私への愛の囁き(投資勧誘)をするのが日課になっている。
しかし、今日は現れない。
「珍しいですね、オーナー。あの『アイーダ中毒』の閣下が遅刻なんて」
店長がグラスを磨きながら首を傾げる。
「何かトラブルかしら。……まあいいわ。来ないなら『予約キャンセル料』を請求するだけだから」
私は強がって見せたが、胸の奥で小さな計算ミスのような違和感が広がっていた。
あの几帳面な男が、連絡もなく遅れるだろうか?
その時。
バァァァン!!
店の扉が乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、財務省の若手官僚だった。
彼は顔面蒼白で、肩で息をしている。
「あ、アイーダ様!! き、緊急事態です!!」
「……何事です? 大声はお客様の迷惑になりますよ」
「そ、そんなことを言っている場合ではありません! か、閣下が……クラウス閣下が……!」
「閣下が?」
「倒れられました!!」
ガタンッ!
私が立ち上がった拍子に、椅子が倒れた。
「……倒れた? あの『鉄の心臓』と『氷の理性』を持つ男が?」
「はい……! ここ数日、徹夜続きで……先ほど執務室で意識を失い……!」
官僚は泣きそうな顔で叫んだ。
「財務省は今、大パニックです! 決裁者が不在で、機能不全に陥っています! アイーダ様、お願いします! 助けてください!」
「…………」
私は瞬時に状況を分析した。
クラウスが倒れた。
↓
財務省の機能停止。
↓
国家予算の執行遅延。
↓
経済の停滞。
↓
私の保有する国債および関連株の暴落。
↓
【資産価値の大幅な損失】
「……許容できませんね」
私は低い声で呟き、カウンターに金貨を叩きつけた。
「店長! 店は任せたわ! 私は『資産防衛』に行ってきます!」
「えっ、あ、はい! いってらっしゃいませ!」
私はスカートを翻し、店を飛び出した。
待たせてあった官僚の馬車に飛び乗り、御者に怒鳴る。
「出しなさい! 馬が潰れても構わないわ! 修理費は私が持つ!」
***
王城、財務省。
そこは地獄絵図と化していた。
「おい! 東部国境警備隊からの予算請求、どうなってるんだ!」
「知らん! 閣下の印鑑がないと金庫が開かない!」
「隣国の銀行団から督促状が! 利息の支払いが今日までだぞ!」
「誰か閣下を起こせ! 気付け薬を持ってこい!」
廊下まで書類が溢れ、職員たちがゾンビのように彷徨っている。
私はその混沌の中を、カツカツと足音を響かせて突き進んだ。
「どきなさい! 邪魔よ!」
「あ、アイーダ様!?」
職員たちが道を開ける。
最奥の執務室。
扉を開けると、そこにはソファーにぐったりと横たわるクラウスの姿があった。
顔色は紙のように白く、目の下には濃いクマがある。
「……閣下!」
私は駆け寄り、彼の頬に触れた。
熱い。かなりの高熱だ。
「……ん……アイーダ……か……?」
クラウスが薄く目を開けた。
「すまない……約束の時間に……行けなかった……」
「馬鹿なことを言わないでください。今の貴方の時給はゼロ……いえ、医療費がかかる分マイナスですよ」
私は悪態をつきながらも、ハンカチで彼の汗を拭った。
「一体、何があったのです?」
「……これだ」
クラウスは震える手で、机の上の書類を指差した。
それは『特別損失報告書』というタイトルの分厚い束だった。
私は中身をパラパラとめくり――絶句した。
「……これは……」
そこにあったのは、ロベルト王子が過去三年間に行った、ありとあらゆる「ツケ払い」の請求書だった。
『ロベルト殿下ご成婚(予定)記念・豪華客船貸切予約キャンセル料』
『ミシェル嬢への愛の証・巨大ダイヤの原石(未払い)』
『未来の宮殿建設予定地・土地購入手付金(詐欺被害)』
その数、数百件。
総額、国家予算の半分に匹敵する。
「……あのバカ王子……!」
私はギリリと歯を噛み締めた。
「婚約破棄されたことで、今まで『次期国王』の信用で待ってもらっていた業者たちが、一斉に取り立てに来たのか……」
「ああ……。これの処理に……ここ三日、寝ていなくてな……」
クラウスが苦しげに咳き込む。
「だが……まだ終わらない……。私が倒れるわけには……」
彼は起き上がろうとするが、私はその肩を強く押し戻した。
「寝ていてください。これ以上、私の将来の資産(貴方)を摩耗させないで」
「しかし……」
「私がやります」
「……え?」
私は立ち上がり、仁王立ちになった。
「私が代行します。この程度の数字の羅列、私の敵ではありません」
「だ、だが、これは国家機密で……君には権限が……」
「非常時です! 法なんて後で書き換えればいいのです!」
私は執務室の扉を開け放ち、廊下で右往左往している官僚たちに向かって叫んだ。
「全員、聞きなさい! ただ今より、この財務省の指揮権は、私アイーダ・フォン・ローゼンバーグが一時的に掌握します!」
シーン、と静まり返る現場。
「い、いや、しかし……部外者がそんな……」
「文句がある者は前に出なさい! その代わり、この山のような借金処理を一人でやってもらいます!」
誰も動かない。
「よろしい。では業務開始! まず、借金取りへの対応班を編成! 相手を待たせてお茶を出して時間を稼ぎなさい! お茶菓子は出しちゃダメよ、コストがかかるから!」
「は、はい!」
「次に、ロベルト殿下の私的流用分のリスト化! これは国庫からは出しません! 王家の私財を切り売りして充てます! 王宮の宝物庫を開放させなさい!」
「ええっ!? 陛下が泣きますよ!?」
「泣かせておきなさい! 息子の尻拭いです!」
「了解しました!」
「そして、隣国の銀行団への交渉! 『今すぐ返せと言うなら、国ごと破産して一銭も返さない。待ってくれるなら利息を払う』と脅しなさい! 銀行は貸し倒れを一番恐れます!」
「な、なるほど……!」
私の矢継ぎ早の指示に、死んでいた官僚たちの目に光が戻る。
司令塔を得た組織は強い。
財務省という巨大な歯車が、私の計算に合わせて再び回り始めた。
私はクラウスの椅子(革張りで座り心地が良い)に座り、ペンのインクが切れるほどの速度で書類にサインを続けた。
「……却下。……承認。……保留。……これは詐欺ね、憲兵へ通報」
一時間で百件。
二時間で三百件。
その姿を、ソファーの上のクラウスが呆然と見つめていた。
「……すごい」
彼は熱に浮かされた瞳で呟いた。
「女神だ……。私の……勝利の女神だ……」
「寝言は寝て言ってください、閣下」
私は手を止めずに返した。
「この労働分の請求書、後で回しますからね。特別緊急ボーナス(ハザード手当)付きで」
「ああ……払おう。いくらでも……」
クラウスはふっと笑い、安心して目を閉じた。
「私の全財産でも……足りないくらいだ……」
その寝顔を見届け、私はさらにギアを上げた。
「さあ、ラストスパートよ! 今日中にこの国の赤字を黒字に変えてやるわ!」
私の怒号(激励)が飛ぶ。
その夜。
財務省の窓からは、夜明けまで明かりが消えることはなかった。
それは後に、『アイーダの奇跡』あるいは『悪役令嬢の独裁政権一夜』として、官僚たちの間で語り継がれることになる伝説の夜だった。
そして、この騒動の元凶であるロベルト王子が、翌日どうなったかは……言うまでもない。
『黒字屋』のカウンター席。
私はいつもの特等席で、懐中時計と睨めっこをしていた。
午後三時十五分。
普段であれば、この時間には「視察」と称して仕事をサボ……休憩しに来るクラウス公爵が現れるはずだ。
彼は私の淹れた紅茶(一杯金貨一枚)を飲みながら、国の経済状況や、私への愛の囁き(投資勧誘)をするのが日課になっている。
しかし、今日は現れない。
「珍しいですね、オーナー。あの『アイーダ中毒』の閣下が遅刻なんて」
店長がグラスを磨きながら首を傾げる。
「何かトラブルかしら。……まあいいわ。来ないなら『予約キャンセル料』を請求するだけだから」
私は強がって見せたが、胸の奥で小さな計算ミスのような違和感が広がっていた。
あの几帳面な男が、連絡もなく遅れるだろうか?
その時。
バァァァン!!
店の扉が乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、財務省の若手官僚だった。
彼は顔面蒼白で、肩で息をしている。
「あ、アイーダ様!! き、緊急事態です!!」
「……何事です? 大声はお客様の迷惑になりますよ」
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「閣下が?」
「倒れられました!!」
ガタンッ!
私が立ち上がった拍子に、椅子が倒れた。
「……倒れた? あの『鉄の心臓』と『氷の理性』を持つ男が?」
「はい……! ここ数日、徹夜続きで……先ほど執務室で意識を失い……!」
官僚は泣きそうな顔で叫んだ。
「財務省は今、大パニックです! 決裁者が不在で、機能不全に陥っています! アイーダ様、お願いします! 助けてください!」
「…………」
私は瞬時に状況を分析した。
クラウスが倒れた。
↓
財務省の機能停止。
↓
国家予算の執行遅延。
↓
経済の停滞。
↓
私の保有する国債および関連株の暴落。
↓
【資産価値の大幅な損失】
「……許容できませんね」
私は低い声で呟き、カウンターに金貨を叩きつけた。
「店長! 店は任せたわ! 私は『資産防衛』に行ってきます!」
「えっ、あ、はい! いってらっしゃいませ!」
私はスカートを翻し、店を飛び出した。
待たせてあった官僚の馬車に飛び乗り、御者に怒鳴る。
「出しなさい! 馬が潰れても構わないわ! 修理費は私が持つ!」
***
王城、財務省。
そこは地獄絵図と化していた。
「おい! 東部国境警備隊からの予算請求、どうなってるんだ!」
「知らん! 閣下の印鑑がないと金庫が開かない!」
「隣国の銀行団から督促状が! 利息の支払いが今日までだぞ!」
「誰か閣下を起こせ! 気付け薬を持ってこい!」
廊下まで書類が溢れ、職員たちがゾンビのように彷徨っている。
私はその混沌の中を、カツカツと足音を響かせて突き進んだ。
「どきなさい! 邪魔よ!」
「あ、アイーダ様!?」
職員たちが道を開ける。
最奥の執務室。
扉を開けると、そこにはソファーにぐったりと横たわるクラウスの姿があった。
顔色は紙のように白く、目の下には濃いクマがある。
「……閣下!」
私は駆け寄り、彼の頬に触れた。
熱い。かなりの高熱だ。
「……ん……アイーダ……か……?」
クラウスが薄く目を開けた。
「すまない……約束の時間に……行けなかった……」
「馬鹿なことを言わないでください。今の貴方の時給はゼロ……いえ、医療費がかかる分マイナスですよ」
私は悪態をつきながらも、ハンカチで彼の汗を拭った。
「一体、何があったのです?」
「……これだ」
クラウスは震える手で、机の上の書類を指差した。
それは『特別損失報告書』というタイトルの分厚い束だった。
私は中身をパラパラとめくり――絶句した。
「……これは……」
そこにあったのは、ロベルト王子が過去三年間に行った、ありとあらゆる「ツケ払い」の請求書だった。
『ロベルト殿下ご成婚(予定)記念・豪華客船貸切予約キャンセル料』
『ミシェル嬢への愛の証・巨大ダイヤの原石(未払い)』
『未来の宮殿建設予定地・土地購入手付金(詐欺被害)』
その数、数百件。
総額、国家予算の半分に匹敵する。
「……あのバカ王子……!」
私はギリリと歯を噛み締めた。
「婚約破棄されたことで、今まで『次期国王』の信用で待ってもらっていた業者たちが、一斉に取り立てに来たのか……」
「ああ……。これの処理に……ここ三日、寝ていなくてな……」
クラウスが苦しげに咳き込む。
「だが……まだ終わらない……。私が倒れるわけには……」
彼は起き上がろうとするが、私はその肩を強く押し戻した。
「寝ていてください。これ以上、私の将来の資産(貴方)を摩耗させないで」
「しかし……」
「私がやります」
「……え?」
私は立ち上がり、仁王立ちになった。
「私が代行します。この程度の数字の羅列、私の敵ではありません」
「だ、だが、これは国家機密で……君には権限が……」
「非常時です! 法なんて後で書き換えればいいのです!」
私は執務室の扉を開け放ち、廊下で右往左往している官僚たちに向かって叫んだ。
「全員、聞きなさい! ただ今より、この財務省の指揮権は、私アイーダ・フォン・ローゼンバーグが一時的に掌握します!」
シーン、と静まり返る現場。
「い、いや、しかし……部外者がそんな……」
「文句がある者は前に出なさい! その代わり、この山のような借金処理を一人でやってもらいます!」
誰も動かない。
「よろしい。では業務開始! まず、借金取りへの対応班を編成! 相手を待たせてお茶を出して時間を稼ぎなさい! お茶菓子は出しちゃダメよ、コストがかかるから!」
「は、はい!」
「次に、ロベルト殿下の私的流用分のリスト化! これは国庫からは出しません! 王家の私財を切り売りして充てます! 王宮の宝物庫を開放させなさい!」
「ええっ!? 陛下が泣きますよ!?」
「泣かせておきなさい! 息子の尻拭いです!」
「了解しました!」
「そして、隣国の銀行団への交渉! 『今すぐ返せと言うなら、国ごと破産して一銭も返さない。待ってくれるなら利息を払う』と脅しなさい! 銀行は貸し倒れを一番恐れます!」
「な、なるほど……!」
私の矢継ぎ早の指示に、死んでいた官僚たちの目に光が戻る。
司令塔を得た組織は強い。
財務省という巨大な歯車が、私の計算に合わせて再び回り始めた。
私はクラウスの椅子(革張りで座り心地が良い)に座り、ペンのインクが切れるほどの速度で書類にサインを続けた。
「……却下。……承認。……保留。……これは詐欺ね、憲兵へ通報」
一時間で百件。
二時間で三百件。
その姿を、ソファーの上のクラウスが呆然と見つめていた。
「……すごい」
彼は熱に浮かされた瞳で呟いた。
「女神だ……。私の……勝利の女神だ……」
「寝言は寝て言ってください、閣下」
私は手を止めずに返した。
「この労働分の請求書、後で回しますからね。特別緊急ボーナス(ハザード手当)付きで」
「ああ……払おう。いくらでも……」
クラウスはふっと笑い、安心して目を閉じた。
「私の全財産でも……足りないくらいだ……」
その寝顔を見届け、私はさらにギアを上げた。
「さあ、ラストスパートよ! 今日中にこの国の赤字を黒字に変えてやるわ!」
私の怒号(激励)が飛ぶ。
その夜。
財務省の窓からは、夜明けまで明かりが消えることはなかった。
それは後に、『アイーダの奇跡』あるいは『悪役令嬢の独裁政権一夜』として、官僚たちの間で語り継がれることになる伝説の夜だった。
そして、この騒動の元凶であるロベルト王子が、翌日どうなったかは……言うまでもない。
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