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「あのぉ……オーナー。お話がありますぅ」
『黒字屋』の閉店後。
売上計算をしていた私の元に、ミシェルがもじもじとやって来た。
その顔は、珍しく「あざとい笑顔」ではなく、真剣そのもの。
そして頬は、熟れた桃のように染まっている。
「……何です? 時給アップの交渉なら、先月したばかりですよ」
私は手を止めずに言った。
「違います。……その、これを受け取ってください」
ミシェルが差し出したのは、ピンク色の封筒に入った一通の手紙だった。
表書きには、『退職願』の文字。
「…………」
私の手が止まった。
電卓を打つ指が、空中で凍りついた。
「……退職? 貴女が?」
「はい。……実は、プロポーズされまして」
「プロポーズ?」
「はい。相手は……第三騎士団の、副団長さんです」
「第三騎士団……?」
私は記憶のデータベースを検索した。
以前、ロベルト殿下の「救出劇」で店を取り囲んだ、あの筋肉集団のナンバー2か。
確か、あの後も店に謝罪に来て、ミシェルのクッキーを大量買いしていた真面目そうな男だ。
「……なるほど。あざとい接客(ハニートラップ)に引っかかったカモ……いえ、お客様と愛を育んだわけですね」
「カモじゃありません! とっても優しくて、力持ちで……『君のドジなところも全部守ってあげたい』って言ってくれたんですぅ!」
ミシェルは両手で頬を包み、身悶えている。
幸せオーラで店内の温度が二度くらい上がった気がする。
だが、私の心の中では、緊急警報(アラート)が鳴り響いていた。
『看板娘ミシェルの喪失』
↓
『男性客の来店率、四〇パーセント減少予測』
↓
『ロベルト翻訳業務の停滞』
↓
【経営危機】
「……認めません」
私は即答した。
「えっ?」
「契約書第十二条。『乙(ミシェル)が退職する場合、三ヶ月前までに申し出ること』。急な退職は契約違反です。違約金が発生しますよ?」
「そ、そんなぁ……。でも、彼が『すぐにでも結婚したい』って……。田舎の領地で一緒に暮らそうって……」
「田舎!? 王都を離れるのですか?」
「はい。彼の実家が農場をやっていて……私、そこで牛の乳搾りをして暮らすのが夢だったんですぅ」
「……王宮のダンスパーティーより、牛の乳搾りが夢?」
「はい! 私、こう見えて田舎育ちですから!」
ミシェルの瞳に嘘はない。
彼女は本気だ。
きらびやかなドレスよりも、エプロンと牧場を選んだのだ。
「ううっ……うわぁぁぁん!!」
その時、バックヤードの陰から号泣する声が聞こえた。
ロベルトだ。
モップを握りしめたまま、床に突っ伏して泣いている。
「ミシェルぅぅ! 結婚しちゃうのかぁぁ!?」
「あ、ロベルト様……」
「おめでとう! おめでとうだけど……寂しいよぉぉ! 僕のポエム、誰が翻訳してくれるんだよぉぉ!」
「自分で勉強してくださいよぉ」
「ううっ……幸せになれよぉ! 副団長なら僕より強いし、給料も安定してるし……くそぉぉ、完敗だぁぁ!」
ロベルトは悔し涙と嬉し涙でぐしゃぐしゃだ。
元婚約者(王子)としての未練よりも、同じ職場(底辺)で戦った戦友としての情が勝っているようだ。
「……はぁ」
私は大きなため息をついた。
そして、電卓を置いた。
引き止めようと思えば、いくらでも引き止められる。
契約を盾に取ることも、給料を倍にして誘惑することもできる。
でも。
目の前のミシェルの顔は、今までで一番輝いている。
作り笑いではない、心からの笑顔。
それを「損得」で奪うのは……私の美学(ビジネス・ポリシー)に反する。
「……ミシェル様。違約金の計算をします」
「えっ……ほ、本当に取るんですか?」
ミシェルが怯える。
私は新しい羊皮紙を取り出し、万年筆を走らせた。
「まず、契約期間満了前の退職によるペナルティ。……金貨百枚」
「ひゃ、百枚!? そんなの払えません!」
「次に、急な人員補充にかかる広告費および採用コスト。……金貨五十枚」
「ひぃぃっ!」
「そして、私が貴女という優秀な部下を失うことによる『精神的損失』。……プライスレス」
「え……?」
私は書き上げた請求書……ではなく、『退職合意書』を彼女に渡した。
「合計、金貨〇枚。……今回は特別に、全額免除とします」
「お、オーナー……?」
「その代わり、条件があります」
私はカウンターの下から、分厚い革袋を取り出した。
ずしりと重い。中身は、金貨だ。
「これを受け取りなさい」
「えっ? こ、これ……?」
「『特別退職金』兼『結婚祝い』です。中には金貨五百枚入っています」
「ご、五百枚!? そ、そんな大金、受け取れません! 私、ただのバイトですし……」
「受け取りなさい。これは貴女がこの店で稼ぎ出した利益の、正当な配当(ボーナス)です」
私は腕を組み、ツンと顔を背けた。
「貴女がいなければ、この店はここまで大きくなりませんでした。ロベルトのポエムも売れなかったし、私の悪評も払拭できなかった。……貴女は、私の最高のビジネスパートナーでした」
「オーナー……」
ミシェルの目に涙が溢れる。
「それに、農場の生活は初期投資がかかるでしょう? 牛を買うにも、小屋を直すにも金が入る。……私の元従業員が、金に困って不幸になるなんて、私のブランドに傷がつきますからね」
「うっ、うぅっ……! アイーダ様ぁぁぁ!」
ミシェルはカウンター越しに私に抱きついた。
「ありがとうございますぅぅ! 私、アイーダ様のこと、大好きですぅぅ! 一生忘れませんんん!」
「ちょ、ちょっと! 鼻水がつきます! クリーニング代請求しますよ!」
「払いますぅ! 出世払いで払いますぅ!」
私は彼女の背中を、不器用にポンポンと叩いた。
胸の奥が少しだけチクリとする。
これが「寂しさ」という感情のコストなのだろうか。
「……結婚式には呼んでくださいね。ご祝儀の元が取れるくらい、美味しい料理を出させますから」
「はい! 絶対に! 一番前の席を用意します!」
ロベルトも泣きながら加わってきた。
「僕も行くよぉ! ウェディングソング作って歌うよぉ!」
「それは遠慮しておきますぅ」
「なんでだよぉぉ!」
店内は涙と笑いに包まれた。
数日後。
ミシェルは店を去った。
彼女が去った後の『黒字屋』は、少しだけ静かになった。
「……いらっしゃいませー……」
ロベルトが一人で呼び込みをしているが、やはり華がない。
客足も少し落ちた。
「……ふぅ。赤字ではないけれど、減収減益ね」
私は帳簿を見ながら呟いた。
「寂しいか、アイーダ」
いつもの席で紅茶を飲んでいたクラウスが、静かに尋ねる。
「……経営者として、優秀な人材の流出を嘆いているだけです」
「強がるな。目が赤いぞ」
「花粉症です」
私は鼻をすすり、電卓を叩くふりをした。
「……でも、まあ。彼女が幸せになるなら、それも一つの『投資成功』と言えるかもしれませんね」
「そうだな。彼女の笑顔は、金貨五百枚以上の価値がある」
「……閣下。貴方まで甘いことを言わないでください」
私は窓の外を見た。
空は晴れ渡っている。
きっと遠くの空の下で、あのあざとい元ヒロインは、牛に向かって「ミルク出してくださぁい♡」と上目遣いをしているのだろう。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「さて、感傷に浸っている暇はありません。求人広告を出さなくては」
私は気持ちを切り替え、新しい羊皮紙を取り出した。
『急募:看板娘。条件:あざとく、逞しく、金にがめついこと。※元悪役令嬢、元ヒロイン優遇』
私の店は、今日も営業中だ。
出会いと別れを繰り返し、それでも逞しく利益を積み上げていく。
それが、私の生き方だから。
『黒字屋』の閉店後。
売上計算をしていた私の元に、ミシェルがもじもじとやって来た。
その顔は、珍しく「あざとい笑顔」ではなく、真剣そのもの。
そして頬は、熟れた桃のように染まっている。
「……何です? 時給アップの交渉なら、先月したばかりですよ」
私は手を止めずに言った。
「違います。……その、これを受け取ってください」
ミシェルが差し出したのは、ピンク色の封筒に入った一通の手紙だった。
表書きには、『退職願』の文字。
「…………」
私の手が止まった。
電卓を打つ指が、空中で凍りついた。
「……退職? 貴女が?」
「はい。……実は、プロポーズされまして」
「プロポーズ?」
「はい。相手は……第三騎士団の、副団長さんです」
「第三騎士団……?」
私は記憶のデータベースを検索した。
以前、ロベルト殿下の「救出劇」で店を取り囲んだ、あの筋肉集団のナンバー2か。
確か、あの後も店に謝罪に来て、ミシェルのクッキーを大量買いしていた真面目そうな男だ。
「……なるほど。あざとい接客(ハニートラップ)に引っかかったカモ……いえ、お客様と愛を育んだわけですね」
「カモじゃありません! とっても優しくて、力持ちで……『君のドジなところも全部守ってあげたい』って言ってくれたんですぅ!」
ミシェルは両手で頬を包み、身悶えている。
幸せオーラで店内の温度が二度くらい上がった気がする。
だが、私の心の中では、緊急警報(アラート)が鳴り響いていた。
『看板娘ミシェルの喪失』
↓
『男性客の来店率、四〇パーセント減少予測』
↓
『ロベルト翻訳業務の停滞』
↓
【経営危機】
「……認めません」
私は即答した。
「えっ?」
「契約書第十二条。『乙(ミシェル)が退職する場合、三ヶ月前までに申し出ること』。急な退職は契約違反です。違約金が発生しますよ?」
「そ、そんなぁ……。でも、彼が『すぐにでも結婚したい』って……。田舎の領地で一緒に暮らそうって……」
「田舎!? 王都を離れるのですか?」
「はい。彼の実家が農場をやっていて……私、そこで牛の乳搾りをして暮らすのが夢だったんですぅ」
「……王宮のダンスパーティーより、牛の乳搾りが夢?」
「はい! 私、こう見えて田舎育ちですから!」
ミシェルの瞳に嘘はない。
彼女は本気だ。
きらびやかなドレスよりも、エプロンと牧場を選んだのだ。
「ううっ……うわぁぁぁん!!」
その時、バックヤードの陰から号泣する声が聞こえた。
ロベルトだ。
モップを握りしめたまま、床に突っ伏して泣いている。
「ミシェルぅぅ! 結婚しちゃうのかぁぁ!?」
「あ、ロベルト様……」
「おめでとう! おめでとうだけど……寂しいよぉぉ! 僕のポエム、誰が翻訳してくれるんだよぉぉ!」
「自分で勉強してくださいよぉ」
「ううっ……幸せになれよぉ! 副団長なら僕より強いし、給料も安定してるし……くそぉぉ、完敗だぁぁ!」
ロベルトは悔し涙と嬉し涙でぐしゃぐしゃだ。
元婚約者(王子)としての未練よりも、同じ職場(底辺)で戦った戦友としての情が勝っているようだ。
「……はぁ」
私は大きなため息をついた。
そして、電卓を置いた。
引き止めようと思えば、いくらでも引き止められる。
契約を盾に取ることも、給料を倍にして誘惑することもできる。
でも。
目の前のミシェルの顔は、今までで一番輝いている。
作り笑いではない、心からの笑顔。
それを「損得」で奪うのは……私の美学(ビジネス・ポリシー)に反する。
「……ミシェル様。違約金の計算をします」
「えっ……ほ、本当に取るんですか?」
ミシェルが怯える。
私は新しい羊皮紙を取り出し、万年筆を走らせた。
「まず、契約期間満了前の退職によるペナルティ。……金貨百枚」
「ひゃ、百枚!? そんなの払えません!」
「次に、急な人員補充にかかる広告費および採用コスト。……金貨五十枚」
「ひぃぃっ!」
「そして、私が貴女という優秀な部下を失うことによる『精神的損失』。……プライスレス」
「え……?」
私は書き上げた請求書……ではなく、『退職合意書』を彼女に渡した。
「合計、金貨〇枚。……今回は特別に、全額免除とします」
「お、オーナー……?」
「その代わり、条件があります」
私はカウンターの下から、分厚い革袋を取り出した。
ずしりと重い。中身は、金貨だ。
「これを受け取りなさい」
「えっ? こ、これ……?」
「『特別退職金』兼『結婚祝い』です。中には金貨五百枚入っています」
「ご、五百枚!? そ、そんな大金、受け取れません! 私、ただのバイトですし……」
「受け取りなさい。これは貴女がこの店で稼ぎ出した利益の、正当な配当(ボーナス)です」
私は腕を組み、ツンと顔を背けた。
「貴女がいなければ、この店はここまで大きくなりませんでした。ロベルトのポエムも売れなかったし、私の悪評も払拭できなかった。……貴女は、私の最高のビジネスパートナーでした」
「オーナー……」
ミシェルの目に涙が溢れる。
「それに、農場の生活は初期投資がかかるでしょう? 牛を買うにも、小屋を直すにも金が入る。……私の元従業員が、金に困って不幸になるなんて、私のブランドに傷がつきますからね」
「うっ、うぅっ……! アイーダ様ぁぁぁ!」
ミシェルはカウンター越しに私に抱きついた。
「ありがとうございますぅぅ! 私、アイーダ様のこと、大好きですぅぅ! 一生忘れませんんん!」
「ちょ、ちょっと! 鼻水がつきます! クリーニング代請求しますよ!」
「払いますぅ! 出世払いで払いますぅ!」
私は彼女の背中を、不器用にポンポンと叩いた。
胸の奥が少しだけチクリとする。
これが「寂しさ」という感情のコストなのだろうか。
「……結婚式には呼んでくださいね。ご祝儀の元が取れるくらい、美味しい料理を出させますから」
「はい! 絶対に! 一番前の席を用意します!」
ロベルトも泣きながら加わってきた。
「僕も行くよぉ! ウェディングソング作って歌うよぉ!」
「それは遠慮しておきますぅ」
「なんでだよぉぉ!」
店内は涙と笑いに包まれた。
数日後。
ミシェルは店を去った。
彼女が去った後の『黒字屋』は、少しだけ静かになった。
「……いらっしゃいませー……」
ロベルトが一人で呼び込みをしているが、やはり華がない。
客足も少し落ちた。
「……ふぅ。赤字ではないけれど、減収減益ね」
私は帳簿を見ながら呟いた。
「寂しいか、アイーダ」
いつもの席で紅茶を飲んでいたクラウスが、静かに尋ねる。
「……経営者として、優秀な人材の流出を嘆いているだけです」
「強がるな。目が赤いぞ」
「花粉症です」
私は鼻をすすり、電卓を叩くふりをした。
「……でも、まあ。彼女が幸せになるなら、それも一つの『投資成功』と言えるかもしれませんね」
「そうだな。彼女の笑顔は、金貨五百枚以上の価値がある」
「……閣下。貴方まで甘いことを言わないでください」
私は窓の外を見た。
空は晴れ渡っている。
きっと遠くの空の下で、あのあざとい元ヒロインは、牛に向かって「ミルク出してくださぁい♡」と上目遣いをしているのだろう。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「さて、感傷に浸っている暇はありません。求人広告を出さなくては」
私は気持ちを切り替え、新しい羊皮紙を取り出した。
『急募:看板娘。条件:あざとく、逞しく、金にがめついこと。※元悪役令嬢、元ヒロイン優遇』
私の店は、今日も営業中だ。
出会いと別れを繰り返し、それでも逞しく利益を積み上げていく。
それが、私の生き方だから。
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