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「……手持ち無沙汰だ」
翌朝、公爵家の自室にて。
私は最高級の羽毛布団の中で目を覚まし、天井を見上げて呆然と呟いた。
時計の針は朝の七時を回っている。
いつもなら五時に起床し、洗顔と身支度を十分で済ませ、馬車の中で王城へ向かう間の三十分を使って一日のスケジュール確認と、部下への指示書作成を行っている時間だ。
しかし、今の私は「無職」。
二度寝をしようにも、長年染み付いた社畜……いえ、勤労の習慣がそれを許さない。
体が勝手に覚醒し、脳がタスクを求めて回転を始めてしまうのだ。
「いけないわ、カロリーナ。貴女は今日から優雅な有閑階級。お茶を飲みながら、バラの世話でもするのが仕事なのよ」
自分に言い聞かせ、私は優雅にベルを鳴らしてメイドを呼んだ。
「お嬢様、おはようございます。朝食はいかがなさいますか?」
「ええ、庭のガゼボでいただくわ。……ところで」
「はい?」
「私の『マイ枕』と『愛用マグカップ』、それに『肩こり解消クッション』が見当たらないのだけれど」
「あ……それは、王城の執務室に置いたままでは?」
「……!」
しまった。
昨夜は颯爽と帰ってきたが、私物の回収を忘れていた。
特にあのクッションは、激務の私が開発した魔導具の試作品で、替えが効かない逸品だ。
あれがないと、優雅なニート生活の質(QOL)に関わる。
「……取りに行きましょう」
「えっ? 王城にですか? 昨夜あんなことがあったのに?」
「私物の回収は退職者の権利よ。それに、最後にきちんとお別れ(・・・・・)も言っておかないとね」
私は不敵な笑みを浮かべ、再び外出着に袖を通した。
***
王城に到着すると、そこは既に戦場と化していた。
「おい! 決裁書類が見当たらないぞ!」
「隣国からの招待状の返信期限、今日までだぞ!? 誰かドラフト書いてないのか!?」
「予算委員会が始まるぞ! 資料はどこだ!?」
廊下を走り回る文官たちの怒号と悲鳴。
それをBGMに、私は人目を避けて裏口から元・自分の執務室へと向かった。
ガチャリ、とドアを開ける。
そこには、書類の山に埋もれて死にかけている一人の男性がいた。
「……し、死ぬ……」
目の下に深い隈を作り、絶望的な表情で天井を仰いでいるのは、近衛騎士団長兼、宰相補佐のギルバートだ。
私の入室に気づき、彼は弾かれたように顔を上げた。
「か、カロリーナ!? 戻ってきてくれたのか!!」
彼は椅子から転げ落ちるようにして私に駆け寄ってきた。
まるで地獄で仏に出会ったような顔だ。
「戻ってきてくれたんだな! ああ、神よ! 昨日の今日で君が来るはずがないと諦めていたが、やはり君はこの国のことを……!」
「おはようございます、ギルバート様。いえ、復職ではありません。私物を取りに来ただけです」
私はすっと彼の横をすり抜け、自分のデスクへと向かう。
「え?」
「あら、あったわ。これこれ」
私は引き出しから愛用のマグカップとクッションを取り出し、持参した風呂敷にテキパキと包み始めた。
ギルバートが呆然と口を開ける。
「ま、待ってくれ! それだけか? 今の城内の惨状が見えないのか!? エドワード殿下は朝から部屋に閉じこもっているし、文官たちはパニックだ! 今日の正午から重要会議があるんだぞ!?」
「存じております。北方地域の治水工事に関する最終予算会議ですね」
「そうだ! その資料がどこにもないんだ! 君が管理していただろう!?」
「ええ、していましたが?」
私は風呂敷の結び目をきゅっと締め、にっこりと微笑んだ。
「その件、私の管轄から外れましたので」
「は?」
「昨日、殿下から解雇(婚約破棄)を言い渡されましたから。業務に関する一切の権限と責任は、最高責任者である殿下に返還いたしました」
「そ、そんな……いや、だが引き継ぎは!? 後任への申し送り事項とか、資料の所在とか、そういうのはあるだろう!?」
ギルバートが必死に食い下がる。
真面目な彼らしい反応だ。
私は手に持っていた荷物を一度置き、デスクの一番上の引き出しを開けた。
「ああ、そうですね。一応、これをご用意しておきました」
取り出したのは、一枚の薄い紙だ。
ギルバートが希望に満ちた目でそれを奪い取る。
「こ、これか! 引継書は!」
彼は急いでその紙に目を通した。
しかし、数秒後。
彼の動きがピタリと止まる。
「……カロリーナ?」
「はい」
「これ、白紙なんだが」
「ええ」
私は悪びれもせずに頷いた。
「『引継ぎ資料はございません』。それが引継ぎ事項です」
「……は?」
「私の業務は多岐にわたりすぎていて、文書化するには三年はかかります。それを昨日、即日解雇されたのですから、作成する時間が物理的に存在しません。よって、引継ぎは『なし』。以上です」
あまりに正論かつ無慈悲な通告。
ギルバートの手から、ヒラリと白紙が落ちた。
「そ、そんな……じゃあ、あの膨大な案件はどうすれば……」
「殿下にお聞きください。殿下は常々仰っていました。『カロリーナの仕事など、誰にでもできる雑用だ』と。ならば、あの方が把握されているはずです」
「あいつが把握しているわけがないだろう!!」
ギルバートの絶叫が部屋に響く。
「知っています」
「知っているなら!!」
「ですが、私はもう『部外者』です。部外者が国の機密情報に触れるわけにはいきません。情報漏洩になりますから」
私は荷物を抱え直し、出口へと向かう。
「あ、そうだ。有給休暇の申請書も置いておきますね」
「有給……?」
「婚約者時代、一度も休みを取っていませんでしたので。計算したら、あと三年分くらい溜まっていました。というわけで、しばらく旅に出ます(実家に引きこもります)。探さないでください」
「待て! 頼む、待ってくれカロリーナ! 給金なら弾む! 今の倍、いや三倍出す! だから……!」
ギルバートが私のスカートの裾を掴まんばかりの勢いで追いすがってくる。
しかし、私は冷徹に眼鏡を光らせた。
「お金の問題ではありません。これは『尊厳』と『労働環境』の問題です。……それでは、ギルバート様。過労死なさらぬよう、ご自愛くださいませ」
「カロリーナァァァァァ!!」
悲痛な叫び声を背に受けながら、私は執務室を後にした。
廊下に出ると、ちょうど向こうからエドワード殿下とミミ嬢が歩いてくるのが見えた。
「ああ、もう! なんで僕がこんな朝早くから起きなきゃいけないんだ! 誰だ、会議なんて入れたのは!」
「殿下ぁ、眠いですぅ~。お茶会しましょ、お茶会」
二人はまだ、事の重大さに気づいていないらしい。
私は彼らとすれ違いざま、目礼もせずに通り過ぎた。
「あ、おい! カロリーナ!」
殿下が気づいて声を上げてくる。
「ちょうどいいところに! おい、書類が見つからないんだ! どこにやった!」
私は足を止めず、背中越しに一言だけ投げかけた。
「ゴミ箱の中か、あるいは殿下の頭の中(空っぽ)にあるのでは?」
「な、なんだと貴様!」
激昂する殿下を無視して、私は颯爽と裏口から出た。
青い空。
白い雲。
そして、手元には愛用のクッション。
「……完璧だわ」
これで心置きなく、引きこもれる。
私は晴れやかな気分で馬車に乗り込んだ。
そう、この時の私は本気で思っていたのだ。
これで全て終わった、と。
しかし、長年染み付いた「性(さが)」というのは、そう簡単に消えるものではないらしい。
実家に帰り着き、念願の「何もしない時間」を手に入れたはずの私は、わずか数時間後、庭の芝生を見ながら無意識に「植生改善計画書」を作り始めていたのである。
翌朝、公爵家の自室にて。
私は最高級の羽毛布団の中で目を覚まし、天井を見上げて呆然と呟いた。
時計の針は朝の七時を回っている。
いつもなら五時に起床し、洗顔と身支度を十分で済ませ、馬車の中で王城へ向かう間の三十分を使って一日のスケジュール確認と、部下への指示書作成を行っている時間だ。
しかし、今の私は「無職」。
二度寝をしようにも、長年染み付いた社畜……いえ、勤労の習慣がそれを許さない。
体が勝手に覚醒し、脳がタスクを求めて回転を始めてしまうのだ。
「いけないわ、カロリーナ。貴女は今日から優雅な有閑階級。お茶を飲みながら、バラの世話でもするのが仕事なのよ」
自分に言い聞かせ、私は優雅にベルを鳴らしてメイドを呼んだ。
「お嬢様、おはようございます。朝食はいかがなさいますか?」
「ええ、庭のガゼボでいただくわ。……ところで」
「はい?」
「私の『マイ枕』と『愛用マグカップ』、それに『肩こり解消クッション』が見当たらないのだけれど」
「あ……それは、王城の執務室に置いたままでは?」
「……!」
しまった。
昨夜は颯爽と帰ってきたが、私物の回収を忘れていた。
特にあのクッションは、激務の私が開発した魔導具の試作品で、替えが効かない逸品だ。
あれがないと、優雅なニート生活の質(QOL)に関わる。
「……取りに行きましょう」
「えっ? 王城にですか? 昨夜あんなことがあったのに?」
「私物の回収は退職者の権利よ。それに、最後にきちんとお別れ(・・・・・)も言っておかないとね」
私は不敵な笑みを浮かべ、再び外出着に袖を通した。
***
王城に到着すると、そこは既に戦場と化していた。
「おい! 決裁書類が見当たらないぞ!」
「隣国からの招待状の返信期限、今日までだぞ!? 誰かドラフト書いてないのか!?」
「予算委員会が始まるぞ! 資料はどこだ!?」
廊下を走り回る文官たちの怒号と悲鳴。
それをBGMに、私は人目を避けて裏口から元・自分の執務室へと向かった。
ガチャリ、とドアを開ける。
そこには、書類の山に埋もれて死にかけている一人の男性がいた。
「……し、死ぬ……」
目の下に深い隈を作り、絶望的な表情で天井を仰いでいるのは、近衛騎士団長兼、宰相補佐のギルバートだ。
私の入室に気づき、彼は弾かれたように顔を上げた。
「か、カロリーナ!? 戻ってきてくれたのか!!」
彼は椅子から転げ落ちるようにして私に駆け寄ってきた。
まるで地獄で仏に出会ったような顔だ。
「戻ってきてくれたんだな! ああ、神よ! 昨日の今日で君が来るはずがないと諦めていたが、やはり君はこの国のことを……!」
「おはようございます、ギルバート様。いえ、復職ではありません。私物を取りに来ただけです」
私はすっと彼の横をすり抜け、自分のデスクへと向かう。
「え?」
「あら、あったわ。これこれ」
私は引き出しから愛用のマグカップとクッションを取り出し、持参した風呂敷にテキパキと包み始めた。
ギルバートが呆然と口を開ける。
「ま、待ってくれ! それだけか? 今の城内の惨状が見えないのか!? エドワード殿下は朝から部屋に閉じこもっているし、文官たちはパニックだ! 今日の正午から重要会議があるんだぞ!?」
「存じております。北方地域の治水工事に関する最終予算会議ですね」
「そうだ! その資料がどこにもないんだ! 君が管理していただろう!?」
「ええ、していましたが?」
私は風呂敷の結び目をきゅっと締め、にっこりと微笑んだ。
「その件、私の管轄から外れましたので」
「は?」
「昨日、殿下から解雇(婚約破棄)を言い渡されましたから。業務に関する一切の権限と責任は、最高責任者である殿下に返還いたしました」
「そ、そんな……いや、だが引き継ぎは!? 後任への申し送り事項とか、資料の所在とか、そういうのはあるだろう!?」
ギルバートが必死に食い下がる。
真面目な彼らしい反応だ。
私は手に持っていた荷物を一度置き、デスクの一番上の引き出しを開けた。
「ああ、そうですね。一応、これをご用意しておきました」
取り出したのは、一枚の薄い紙だ。
ギルバートが希望に満ちた目でそれを奪い取る。
「こ、これか! 引継書は!」
彼は急いでその紙に目を通した。
しかし、数秒後。
彼の動きがピタリと止まる。
「……カロリーナ?」
「はい」
「これ、白紙なんだが」
「ええ」
私は悪びれもせずに頷いた。
「『引継ぎ資料はございません』。それが引継ぎ事項です」
「……は?」
「私の業務は多岐にわたりすぎていて、文書化するには三年はかかります。それを昨日、即日解雇されたのですから、作成する時間が物理的に存在しません。よって、引継ぎは『なし』。以上です」
あまりに正論かつ無慈悲な通告。
ギルバートの手から、ヒラリと白紙が落ちた。
「そ、そんな……じゃあ、あの膨大な案件はどうすれば……」
「殿下にお聞きください。殿下は常々仰っていました。『カロリーナの仕事など、誰にでもできる雑用だ』と。ならば、あの方が把握されているはずです」
「あいつが把握しているわけがないだろう!!」
ギルバートの絶叫が部屋に響く。
「知っています」
「知っているなら!!」
「ですが、私はもう『部外者』です。部外者が国の機密情報に触れるわけにはいきません。情報漏洩になりますから」
私は荷物を抱え直し、出口へと向かう。
「あ、そうだ。有給休暇の申請書も置いておきますね」
「有給……?」
「婚約者時代、一度も休みを取っていませんでしたので。計算したら、あと三年分くらい溜まっていました。というわけで、しばらく旅に出ます(実家に引きこもります)。探さないでください」
「待て! 頼む、待ってくれカロリーナ! 給金なら弾む! 今の倍、いや三倍出す! だから……!」
ギルバートが私のスカートの裾を掴まんばかりの勢いで追いすがってくる。
しかし、私は冷徹に眼鏡を光らせた。
「お金の問題ではありません。これは『尊厳』と『労働環境』の問題です。……それでは、ギルバート様。過労死なさらぬよう、ご自愛くださいませ」
「カロリーナァァァァァ!!」
悲痛な叫び声を背に受けながら、私は執務室を後にした。
廊下に出ると、ちょうど向こうからエドワード殿下とミミ嬢が歩いてくるのが見えた。
「ああ、もう! なんで僕がこんな朝早くから起きなきゃいけないんだ! 誰だ、会議なんて入れたのは!」
「殿下ぁ、眠いですぅ~。お茶会しましょ、お茶会」
二人はまだ、事の重大さに気づいていないらしい。
私は彼らとすれ違いざま、目礼もせずに通り過ぎた。
「あ、おい! カロリーナ!」
殿下が気づいて声を上げてくる。
「ちょうどいいところに! おい、書類が見つからないんだ! どこにやった!」
私は足を止めず、背中越しに一言だけ投げかけた。
「ゴミ箱の中か、あるいは殿下の頭の中(空っぽ)にあるのでは?」
「な、なんだと貴様!」
激昂する殿下を無視して、私は颯爽と裏口から出た。
青い空。
白い雲。
そして、手元には愛用のクッション。
「……完璧だわ」
これで心置きなく、引きこもれる。
私は晴れやかな気分で馬車に乗り込んだ。
そう、この時の私は本気で思っていたのだ。
これで全て終わった、と。
しかし、長年染み付いた「性(さが)」というのは、そう簡単に消えるものではないらしい。
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