悪役令嬢の契約解除(婚約破棄)、所定の違約金を請求します!

黒猫かの

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「頼む……! 一目、一目でいいから彼女に合わせてくれ……!」

バーンスタイン公爵邸の正門前。

そこに、かつて「氷の貴公子」と呼ばれた美貌の騎士団長、ギルバート・フォン・ラインハルトの見る影もない姿があった。

整えられていた銀髪はボサボサで、目の下にはクマができ、自慢の白銀の鎧は砂埃で薄汚れている。

彼は門扉にしがみつき、まるで捨てられた子犬のような目で門番に訴えかけていた。

「いや、ですからね、団長さん」

門番(兼、私の新しい秘書)のセバスが、困り顔で対応する。

「お嬢様は今、『堆肥(たいひ)の黄金比率』の発見にあと一歩というところでして。『たとえ国王陛下が来ても通すな。発酵温度が下がる』と仰せなのです」

「堆肥!? 国の存亡よりも肥料が大事なのか!?」

「お嬢様曰く、『国は滅んでも土は残る。ならば土を肥やすのが人類の使命』だそうで」

「あの人は相変わらずブレないな……!」

ギルバートはガクリと膝をついた。

王城を出てから三日三晩、馬を飛ばしてようやく辿り着いたというのに、まさか肥料に負けるとは。

意識が遠のきそうになったその時。

「――騒がしいですね。私の可愛い微生物たちが怯えてしまうではありませんか」

凛とした、しかしどこか弾んだ声が響いた。

ギルバートがバッと顔を上げる。

そこにいたのは、彼の知る「悪役令嬢カロリーナ」ではなかった。

つばの広い麦わら帽子。

首に巻いたタオル。

そして、泥だらけの作業用つなぎ(オーバーオール)。

右手にはスコップ、左手には土の入った試験管を持った、完全に「農家のお姉さん」と化したカロリーナだった。

「か、カロリーナ……?」

「あら、ギルバート様ではありませんか。どうなさいました、そのお姿は。ゾンビ映画のエキストラにしては、役作りが少し甘いようですが」

カロリーナは眼鏡の位置を(土で汚れた手で触らないよう)手首でクイッと押し上げ、冷徹に観察した。

「肌のツヤが欠如しています。水分摂取量が足りていませんね。あと、その目の下のクマ。睡眠不足は判断能力を四十パーセント低下させますよ」

「誰の……誰のせいだと思っているんだ……!」

ギルバートはふらふらと立ち上がり、鉄柵越しに彼女を見つめた。

「君がいなくなってから、城は地獄だ。書類は山積み、予算は破綻、エドワード殿下は現実逃避して部屋から出てこない。ミミ嬢に至っては、城の庭をピンク色に染めようとしてペンキを撒き散らしている」

「まあ。それは景観条例違反ですね。罰金の徴収をお勧めします」

「そんなレベルの話じゃない! 機能不全なんだ! 君というOSを失ったコンピューターのように、国というシステムが動かないんだよ!」

ギルバートの悲痛な叫び。

しかし、カロリーナは「ふむ」と興味なさげに頷いただけだった。

「それは『バグ』ですね。システム自体に欠陥があったのです。一度完全にクラッシュさせて、再インストールすることをお勧めします」

「国を再インストールさせるな! 頼む、カロリーナ。戻ってきてくれ」

ギルバートは必死に手を伸ばした。

「君が必要なんだ。あのバカ王子のためじゃない。この国に生きる、罪のない民のために……そして、過労死寸前の俺たちのために!」

「お断りします」

即答だった。

「なぜだ! 条件なら飲む! 給金も弾む! なんなら俺の私財を全部投げ打ってもいい!」

「ギルバート様。今の私は、見ての通り『研究』で忙しいのです」

カロリーナは愛おしそうに試験管の土を見つめた。

「この土、素晴らしいでしょう? 牛糞と落ち葉、そして魔法薬草の配合比率を1:3:0・5に変えたところ、微生物の活性化率が昨日の二倍になったのです。これで今年の小麦の収穫量は、理論値で一・八倍が見込めます」

「す、すごいな……(何の話だ?)」

「この革命的な発見を前にして、王城の『終わらない書類整理』や『殿下の尻拭い』に戻れと? 生産性が低すぎます。今の私にとって、殿下の価値は、この堆肥1グラム以下です」

「一国の王太子が堆肥以下……!」

あまりの言い草に、ギルバートは逆に感心してしまった。

だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

彼は最後の力を振り絞り、騎士としてのプライドもかなぐり捨てて叫んだ。

「カロリーナ! 個人的な願いだ! 俺を……俺を助けてくれ!」

「……」

「君がいなくなって、初めて分かったんだ。俺が今まで剣を振るい、前線で戦えていたのは、君が後方で完璧な兵站(へいたん)を維持してくれていたからだと。君がいない俺は、ただの『剣を持った迷子』だ!」

ギルバートの瞳から、一筋の涙(と疲労の汗)が流れる。

「寂しいんだよ! 君のあの、理詰めのお説教が聞きたい! 『効率が悪いです』と罵ってくれ! 君の淹れた完璧な温度の紅茶が飲みたいんだ!」

もはや愛の告白なのか、ドMの叫びなのか分からない。

しかし、その必死さは伝わったらしい。

カロリーナは少しだけ目を見開き、そして――ため息をついた。

「……はぁ。ギルバート様。貴方という人は」

彼女はスコップを地面に突き刺し、腕を組んだ。

「相変わらず、情に厚く、非効率な方ですね」

「カロリーナ……」

「分かりました。そこまで仰るなら、話くらいは聞きましょう」

「本当か!?」

「ただし」

カロリーナの眼鏡が、キラリと光った。

「タダで戻るつもりはありません。私はもう、王太子の『都合の良い婚約者』ではないのです。私を動かしたければ、それ相応の『契約』を結んでいただきます」

「け、契約……?」

「ええ。ビジネスです、ギルバート様。感情論ではなく、利害の一致によるドライな関係。……それでもよろしければ、中へどうぞ。ちょうど、お茶の時間にしようと思っていたところです」

カロリーナはセバスに目配せをした。

「開けて差し上げなさい。お客様よ」

「はっ」

重厚な門扉が、ギギーッと音を立てて開く。

ギルバートはふらつく足で、その門をくぐった。

それは、彼が地獄(王城)から天国(カロリーナの管理下)へと足を踏み入れた瞬間だった。

「さあ、シャワーを浴びてきてください。その格好では、私の新しい執務室(温室)に入れるわけにはいきませんから」

カロリーナは歩き出しながら、背中越しに言った。

「その後で、じっくりと話し合いましょう。『救済』の値段について」

その言葉に、ギルバートは安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。

(勝った……! いや、負けたのか? とにかく、これで眠れる……!)

泥だらけの悪役令嬢(農家ver.)の後ろ姿が、今の彼にはどんな聖女よりも神々しく見えたのだった。
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