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第3章:最初の亀裂
しおりを挟む「嘆きの森」に足を踏み入れた瞬間から、エルザの不満は頂点に達していた。ぬかるんだ獣道は歩きにくく、幾重にも重なる木々の枝葉が陽光を遮り、辺りは薄暗く湿っている。理論上、最も非効率なルート。それが彼女の評価だった。
「見てください、このぬかるみを。これでは行軍速度が計画の六割以下です。それに、視界も悪い。奇襲を受ける危険性が…」
「奇襲はない」
俺は、エルザの抗議を背中で聞きながら、簡潔に言い放った。
「この森の空気は淀みすぎている。小動物の気配すらない。それは、この一帯が強力な捕食者の縄張りである証拠だ。ゴブリン共も、この主(ぬし)を避けて、森の中央にしか巣を作れん」
「…縄張りの主? 記録にない魔物です。何を根拠に…」
「俺の目に映るものが根拠だ」
俺は地面に残る巨大な爪痕や、不自然にへし折られた大木を指し示した。それは、長年この森で生きてきた者でなければ読み取れない、微かな痕跡。エルザは怪訝な顔をしながらも、その的確な指摘に言葉を失った。俺にとっては、己の庭を散策するようなものだった。この森の魔物の生態系もまた、かつての俺が作り上げた秩序の一部なのだから。
リリアナは、ただ黙って俺の背中を不安そうに見つめている。彼女の純粋な気配は、この淀んだ森ではあまりに異質だった。
数時間後、俺たちは一切の魔物と遭遇することなく、ゴブリンの集落を見下ろせる崖の上に行き着いていた。エルザが提案した西ルートを進んでいれば、今頃は擬態スライムの酸で骨も残っていなかっただろう。
眼下には、粗末な木材で組まれた櫓や天幕が広がり、数十匹のゴブリンが棍棒を手にうろついている。集落の中心には、一際大きな体躯を持つホブゴブリンの姿もあった。
「…信じられませんわ。本当に裏をつけた…」
エルザが驚愕の声を漏らす。
俺は彼女の感嘆など意にも介さず、冷徹に指示を飛ばした。
「エルザ、三秒後にあの見張り櫓を火球(ファイアボール)で破壊しろ。術式構成は最短で、威力は最大。その後、集落の入り口を岩壁(ロックウォール)で塞げ」
「さ、三秒!? そんな精密な連続発動は…!」
「できる。お前ならな」
俺の断言に、エルザは一瞬怯んだが、その瞳に挑戦的な光が宿った。
「リリアナ、お前は俺の三歩後ろから動くな。何があってもだ。治癒(ヒール)の準備だけしておけ。詠唱は不要だ。常に意識を集中させておけ」
「は、はい…!」
俺は聖剣エクスカリオンを抜き放つ。その刀身が、森の薄闇の中で青白い光を放った。
「――始めるぞ」
エルザの放った火球が、宣言通り三秒後に見張り櫓を粉砕した。爆音とゴブリンたちの混乱の叫び声が、作戦開始の合図だった。
俺は崖から躊躇なく跳躍し、混乱の渦中へと降り立った。
その後の戦闘は、もはや蹂躙と呼ぶのが正しかった。
俺の動きには、勇者譚に語られるような華麗さも、正々堂々とした気高さもなかった。ただひたすらに、効率的に敵の命を刈り取っていくだけだ。敵の攻撃は最小限の動きで避け、剣閃は必ず急所――喉や心臓、眉間を正確に貫く。それは騎士の剣術ではなく、暗殺者の技法に近かった。
後方から飛来するエルザの魔法が敵の陣形を乱し、俺がその隙を突いて敵将を討つ。完璧な連携。いや、俺が一方的に彼女の能力を把握し、駒として動かしているだけだ。
エルザとリリアナは、ただ唖然として俺の戦いぶりを見ていた。特にエルザは、その戦慄を隠そうともしない。目の前の勇者が、自分の知るどんな人間ともかけ離れた存在であることを、本能で理解し始めていた。
だが、その時だった。
追い詰められたホブゴブリンが、卑劣な手段に出た。捕らえていたのであろう、ボロボロの服を纏った村人の少女を盾にしたのだ。
「こ、こいつがどうなってもいいのか!」
原作にはなかった展開。歴史が、あるいは単なる運命の気まぐれが、俺に新たな選択を突きつけていた。
「チッ…」
俺の動きが止まる。
その隙を見逃さず、エルザが叫んだ。
「勇者アレク! 合図を! 人質ごと焼き払います! ここでリーダーを逃す方が、将来的な被害は甚大です! 合理的に判断を!」
その言葉は、かつての魔王ゼノンであれば即座に肯定したであろう、冷徹な正論だった。犠牲は一つに。それが戦場の鉄則だ。俺は一瞬、エルザの提案を呑もうとした。それが最も「効率的」なのだから。俺の瞳から、人間的な感情が消え失せる。
「――待ってください!!」
甲高い叫び声が響いた。リリアナだった。彼女は俺の命令を破り、前に飛び出していた。
「命に、見捨てていい命なんて、ありません!」
彼女は癒やしの力ではなく、聖なる光の盾(ホーリーシールド)を少女の前に展開した。か弱く、今にも砕け散りそうな、しかし、絶対的な拒絶の意志を宿した光の壁。
ホブゴブリンの汚れた刃が、その光の壁に振り下ろされる。
「愚かな…!」
俺は舌打ちと同時に、地面を蹴っていた。
リリアナの無謀な行動。非合理的で、感情的で、愚の骨頂。
だが、その姿を見た瞬間、俺の脳裏に、これまで自分が踏みにじってきた無数の命の記憶が、灼熱の奔流となって逆流した。助けを乞う声、呪詛の言葉、絶望の瞳。それら全てを「合理性」の名の下に切り捨ててきた結果が、あの孤独な死だったではないか。
俺の身体は、思考よりも速く動いていた。
聖剣の輝きが、一瞬だけ闇色を帯びる。勇者の神速と、魔王の殺気が融合した、あり得ない踏み込み。ホブゴブリンは、背後に現れた俺の気配に気づくことすらできなかった。
聖剣の切っ先が、人質の少女の肩を掠め、ホブゴブリンの心臓だけを寸分の狂いもなく貫いていた。
断末魔の叫びを上げることもなく、巨体は崩れ落ち、森は静寂を取り戻した。
「…助かった、のか…?」
救い出された少女が、呆然と呟く。
戦いは終わった。結果だけを見れば、人質を救い、敵を殲滅した、完璧な勝利だった。
だが、俺たちの間に生まれた空気は、勝利の歓喜とは程遠い、冷え冷えとしたものだった。
リリアナが、震える声で俺に感謝を述べた。
「あ…ありがとうございます、アレク様。助けてくださって…」
しかし、その瞳の奥には、俺が一瞬見せた、全てを切り捨てるかのような冷酷な眼差しへの恐怖が色濃く残っていた。
エルザは、忌々しげに俺を睨みつけていた。
「…あなた、いったい何者ですの? あの動き、あの殺気…人間のものとは思えません。まるで…」
まるで、魔族のよう、と続けようとした言葉を、彼女は寸でのところで飲み込んだ。
俺は二人からの視線を受けながら、聖剣に付着した血を無言で振り払った。
リリアナを助けたのは、善意からだったのか。それとも、この先の旅に不可欠な「聖女」という駒を失わないための、打算的な判断だったのか。その答えは、俺自身にも分からなかった。
初陣は、完璧な勝利で幕を閉じた。
だが、俺たちの心の間には、決して埋めることのできない、最初の深い亀裂が刻み込まれていた。それは、この歪な旅路の始まりを告げる、不吉な兆候だった。
第1部 完
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