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百億の鴉
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その百億の鴉は、銀座の小さな画廊の片隅で、音も無く羽ばたいていた。
長身の榎本多希(えのもとたき)の、両手を広げても足りない位の大きなキャンパスびっしりに、艶のある鴉の絵が描かれていた。夕暮れの、人が増え始める画廊で。タキは一人、その絵の前から動けなくなった。
三人展、と入口には貼られている。絵の下のサインを見ると、朝霧紗雪(あさぎりさゆき)という名前と、「記憶」というタイトルが彫られた銀色のプレートが、淡く黄色い光に照らされている。
言葉には言い表せない、何か強い磁場が、その絵にはあった。
まるでタキの運命を、どこか遠い場所に連れ去ってゆくような。
「あの、すみません」
しばしの逡巡の後、タキは軽く手を挙げて、近くのオーナーらしき男性に声を掛けた。
亀戸の一人暮らしの狭いアパートに飾れるのかとか、三十半ばを過ぎて今だ十年近く工場のバイト暮らしをしている自分に、果たして買える値段なのかとか、細かいことが全部どうでも良くなって、思わず聞いてしまう。
「この絵って、買えますか?」
「今丁度、出ちゃってたんですよね朝霧さん。今日、午後から在廊されてたんですけど」
画廊の隅にある上品なテーブルに通されたタキは、場違いな雰囲気に緊張しながら腰を下ろす。お電話で確認して来ますね、と紅茶を出しながらオーナーは別室へ歩いて行った。
ぐるり、とタキは二十畳も無いだろう画廊を見渡す。十枚ほどの絵が飾られている中で、彼女の絵が一番多い。他の二人と違い、彼女の絵は特徴的だった。
幾つもの針に身体を貫かれて血を流す人々。ブラックホールに吸い込まれてゆく光達。土砂降りの夜の森。重苦しい地獄と絶望がそこにはあった。けれど、その一方で、一枚だけは満開の桜吹雪が鮮やかに描写されていた。
「お待たせしました。大丈夫だそうですよ、お値段これ位でいかがですか?」
差し出された紙には、三万五千円とペンで書かれている。
「……あの……分割で良ければ」
「それは勿論」
そう言うとオーナーは上機嫌で売買契約と配送の段取りを始めた。
(銀座SIXに本を買いに来ただけだったのに、大きな買い物をしちゃったな)
タキは内心天を仰いだが、もう後の祭りだ。
日が暮れた銀座は、九月だとシャツにカーディガンだけだと三月の終わりではもう冷える。契約を終えたタキは、オーナーに見送られて画廊を後にしようとした。
と。
「あの、ありがとうございます!」
灰色のタートルネックに焦茶色のパンツを穿いた、やや長身の女性が早足で歩いて来てオーナーの横で止まり、頭を下げた。
「あ、朝霧さん、間に合ったの」
のんびりとオーナーがいう。二十代半ば位だろうか。クリクリっとした眼と柔らかな雰囲気で、あんな絶望に満ちた絵を描くひとにはとても見えなかった。
タキは何を言っていいか分からず、ただペコリと頭を下げた。
彼女にはどこかでまた会えるような。
そんな予感がしていた。
長身の榎本多希(えのもとたき)の、両手を広げても足りない位の大きなキャンパスびっしりに、艶のある鴉の絵が描かれていた。夕暮れの、人が増え始める画廊で。タキは一人、その絵の前から動けなくなった。
三人展、と入口には貼られている。絵の下のサインを見ると、朝霧紗雪(あさぎりさゆき)という名前と、「記憶」というタイトルが彫られた銀色のプレートが、淡く黄色い光に照らされている。
言葉には言い表せない、何か強い磁場が、その絵にはあった。
まるでタキの運命を、どこか遠い場所に連れ去ってゆくような。
「あの、すみません」
しばしの逡巡の後、タキは軽く手を挙げて、近くのオーナーらしき男性に声を掛けた。
亀戸の一人暮らしの狭いアパートに飾れるのかとか、三十半ばを過ぎて今だ十年近く工場のバイト暮らしをしている自分に、果たして買える値段なのかとか、細かいことが全部どうでも良くなって、思わず聞いてしまう。
「この絵って、買えますか?」
「今丁度、出ちゃってたんですよね朝霧さん。今日、午後から在廊されてたんですけど」
画廊の隅にある上品なテーブルに通されたタキは、場違いな雰囲気に緊張しながら腰を下ろす。お電話で確認して来ますね、と紅茶を出しながらオーナーは別室へ歩いて行った。
ぐるり、とタキは二十畳も無いだろう画廊を見渡す。十枚ほどの絵が飾られている中で、彼女の絵が一番多い。他の二人と違い、彼女の絵は特徴的だった。
幾つもの針に身体を貫かれて血を流す人々。ブラックホールに吸い込まれてゆく光達。土砂降りの夜の森。重苦しい地獄と絶望がそこにはあった。けれど、その一方で、一枚だけは満開の桜吹雪が鮮やかに描写されていた。
「お待たせしました。大丈夫だそうですよ、お値段これ位でいかがですか?」
差し出された紙には、三万五千円とペンで書かれている。
「……あの……分割で良ければ」
「それは勿論」
そう言うとオーナーは上機嫌で売買契約と配送の段取りを始めた。
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タキは内心天を仰いだが、もう後の祭りだ。
日が暮れた銀座は、九月だとシャツにカーディガンだけだと三月の終わりではもう冷える。契約を終えたタキは、オーナーに見送られて画廊を後にしようとした。
と。
「あの、ありがとうございます!」
灰色のタートルネックに焦茶色のパンツを穿いた、やや長身の女性が早足で歩いて来てオーナーの横で止まり、頭を下げた。
「あ、朝霧さん、間に合ったの」
のんびりとオーナーがいう。二十代半ば位だろうか。クリクリっとした眼と柔らかな雰囲気で、あんな絶望に満ちた絵を描くひとにはとても見えなかった。
タキは何を言っていいか分からず、ただペコリと頭を下げた。
彼女にはどこかでまた会えるような。
そんな予感がしていた。
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