朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

文字の大きさ
2 / 68

運命

しおりを挟む
少しだけ冷たさを纏った秋の朝の日差しが、狭い部屋で伸びをする白い猫の毛を、さらさらと照らしていた。その背後には、壁面一杯に飾られた、あの百億の鴉の絵がある。
「ルーク、じゃあ、行ってくるからね」
 そう言って猫を一撫でし、タキは改めて数日前に届いた絵を振り返った。運んで来た業者も、亀戸のアパートの余りの狭さに呆れたようだった。築四十年越え、部屋は一応二つあるけれど、その内の一部屋は神保町などで買った本で溢れている。
「うみゃあ」と返事をするルークをもういちど軽く撫で、タキは部屋を後にし、リズミカルに階段を下りてゆく。
 目指すは浅草の書店。友人と参加する読書イベントだ。

「え、スゴいカッコイイ絵じゃん。いくらしたの?」
 友人の日下部湊(くさかべみなと)は、待ち合わせた上野駅すぐのスターバックスで、タキが生まれて初めて絵を買った話をすると、スマホを覗き込んで屈託ない笑顔を向けた。黄色の原色のジェケットに茶色の編み上げブーツ。薄くピンクに染めた髪。彼女は社交的で友人も多い。
「三万五千円…………」
「さんまんごせんえん!?」
 驚きの声を上げた湊は、ふと絵のサインを見て、「あれ、あたしこの人雑誌で見たことあるかも………」と呟いた。
「え?」とタキが聞き返すと、湊は自分のスマホを取り出して、多摩地域のサブカル誌の電子版を開いた。真ん中辺りの特集、タイトルは「今注目の地元アーティスト」。その中の四ページに渡り、ある女性作家が掲載されている。タイトルは「生きることの絶望と苦しみ、そして一匙の希望を描く、生まれながらのアーティスト」。
「あ」
 黒い丈の長いワンピースを纏い、染めていないショートカットで少し俯く二十代半ば位の女性。
 間違いない、彼女だ。おまけに、掲載されている絵の中には、あの満開の桜の絵もあった。
「でしょ?」
「うん」
「あたしもこの絵、好きだなと思って覚えてたんだ」
 あ、時間が、と湊が気付き、二人は慌てて店を後にした。
 まさかその後、あんな運命が待ち受けているとも知らずに。

 その日の読書イベントの演目は、『新潮文庫・レイチェル・カーソン「沈黙の春」を読む』だった。登壇者は著名なブックライターで、タキもHONZなどで度々その記事を好んで読んでいた。タキは本に関連した催しも好きで、都内で開催されたイベントに、今まででもう何回出たか分からない。
 大きな書店の一角がパーテーションで区切られ、数十人の様々な参加者が集まっている。司会の書店員とライターがひととおり話した後は自由な雰囲気で、ライターへの質問や本の感想や見解を手を挙げてゆるく発言していた。タキは自分から発言する性分ではないので、それを静かに聞いていた。
 と。
(え?)
 端の方で同じく静かにパイプ椅子に座っている女性から、タキは眼が離せなくなった。
 隣に座っていた湊が、タキの視線に気付いて「おっ」と声を上げた。
「すごい偶然じゃん。運命みたい」
 息が止まりそうだった。長身で、少しぽっちゃりとした柔らかい雰囲気。深緑のカーディガンに白いワイドパンツを合わせた彼女の輪郭が、淡く光っているような気がした。慌てて視線を逸らすと、眩暈がした。
「榎本の好みドンピシャな感じ」
 湊が口元に手をやってブフフと笑った。
 イベントの間中、もう話の内容が頭に入って来なかった。彼女に眼を遣らないように努め、タキは終始俯いていた。
 やがてイベントが終わり、拍手と共にライターが退場すると、参加者はちりぢりに散っていった。タキもそのまま帰ろうと腰を上げたら、
「お、チャンス!」
 なんと湊が彼女にズンズンと歩み寄ってゆく。
「え、え、ちょっと湊、良いって!俺はそういうのは無理だから」
「別に知り合う位いいじゃん」
 湊は構わず彼女―――――――――朝霧紗雪に声を掛ける。タキも焦って後を追った。
「こんにちは。いきなりすみません。はじめまして、あたし、日下部湊っていいます。これは、榎本多希。朝霧紗雪さんですよね?二人ともあなたの絵のファンで、ちょっとお話出来たら良いなと思って。この後忙しいですか?」
「え、あ、は、はい」
 紗雪は驚いて肩を竦ませた。
(あ、不味い)
 怖がらせた、とタキは激しく後悔して、湊の腕を引っ張って立ち去ろうとした。
「コイツなんて銀座の画廊で朝霧さんの絵を買ったんですよ。鴉の絵。覚えてません?」
 湊は尚も食い下がる。
 絵の話をすると、紗雪の顔がパッと輝いた。
「えっと………すみませんお顔は………でも、絵を買って下さった方はなんとなく覚えてます………」
 ヒバリの様な声だった。気付くと、なんとなく周囲の視線を感じる。「画家らしいよ」
「え、知らない」「何、有名人?」などのヒソヒソ声が聞こえて、居心地が悪い。
 折角湊に作ってもらった、千載一遇のチャンスだ。タキは勇気を振り絞った。
「あ、あの、お洒落なカフェを知ってるので、一時間だけ良かったら…………」
 スローモーションの様に、時が流れた。
 数秒後、タキは紗雪が俯きがちに頷くのを確かに、眼にした。
  
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end**

処理中です...