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女郎蜘蛛
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その日も急いでさゆが風呂から上がると、脱衣所で義父が仁王立ちしていた。『ガキが風呂なんか入るんじゃねえ』と怒鳴りこまれる事は、日常茶飯事だった。
『いや…………出てって………』
小さく膨らんだ胸をタオルで必死に隠して、さゆは震えながら精一杯抗議した。「男を誘うから」と髪はずっと刈り上げにさせられていた。
『うるせえ!食わして貰ってるのに口ごたえするんじゃねえよ!!』
母はきっと、上の階でテレビのボリュームを上げている。義父はずかずかと近寄って来ると、酒臭い息でさゆの胸を揉み、ももを摑んで足を開かせた。
『やあ!やだ!!いやだっ!!』
泣きながら抗議しても義父は何も聞いていない。泥の付いた黒いゴツゴツした指を膣に押し込まれ、痛みにさゆは飛び上がった。いつもそうしてしばらく身体を触られるのだ。義父の汚いハアハアという息と緩んだ醜い顔を間近に眺めながら、さゆは「ここにいるのは自分じゃない」「私には本当は優しいお父さんがどこかにいる」と何度も自分に言い聞かせて天井を仰いだ。
どうせまた後で、『もう一度風呂に入らせてやるからそれでいいだろ』と言われるのだと知りながら。
自分の泣き叫ぶ声に眼を覚ますと、全身が固かった。動かしづらい。午前三時。真っ暗な自分の部屋だ。もう何が悲しいのか自分でも良く分からないままにしばらく泣いて、起き上がれるようになった所で「ああ、絵を描きたいな」と衝動に駆られた。
今日は店は休み、午前中にライターの原稿と次の個展の計画をする予定だった。
(蜘蛛、蜘蛛がいい)
図鑑とネット、記憶を頼りに、それから四時間を掛けて六十号の巨大なキャンパス一杯に、描けるだけ沢山の女郎蜘蛛やタランチュラを描いた。五十匹はいるだろう。背景は樹にした。昨年タキと行った新宿御苑の樹だ。半分ほど描き終わった絵を見て、冷静な頭で「三万円位なら売れそうだな」と思った。意外と暗い色調の絵の方が売れる。
(また時間を置いて手直ししよう)
こうやってもうずっと、絵を描く事でなんとか、精神のバランスを保っている。
一息付くと、もう外が明るかった。空気の澄んだ、二○一九年一月の奥多摩の朝だ。シャワーを浴び、アパートの窓を開けて、さゆは朝食と弁当作りに取り掛かった。クックパッドで見つけた減塩で低タンパクなキーマカレーを四苦八苦しながら作っていると、LINEが鳴った。
『さゆ、おはよう』
『おはよう』
タキのLINEは最初の頃はシンプルだったけれど、この頃は猫のスタンプがたまに送られてくる。ルークに良く似た白い猫だ。
『今日楽しみだよ。十二時に立川駅北口にいるね。この前美味しいりんごジュース見つけたから、それも持っていくね』
『うん、ありがとう』
優しいタキとLINEをしながら、さゆはなんだか後ろめたいような、タキが怖いような思いに駆られる。タキも男なんだ、と思うと会うのが怖い。一度料理を中断して、また蜘蛛のスケッチに入った。
タキはあの義父とは違う、と知りながら。
「うわ、広いね」
年末年始はLINEを送りあったのみだったので、久々にタキと会った。初めて入った昭和記念公園の原っぱの広さに、タキは感動した声を上げた。その横でさゆは少しぎこちない笑顔を向けた。サザンカの花を見て、日本家屋に立ち寄り、園内を散策した後だった。
(ダメだ、なんか上手く楽しめないや)
タキは年末に浅草のTSUTAYAでDVDをまとめてレンタルしたらしく、「ベニスに死す」が美しかった、「アース」を観たらルークがテレビにじゃれついて大変だったよ、と楽しそうに話したけれど、さゆは微笑んで頷くのが精一杯だった。
(タキは何も悪くないのに)
なんとか仕上げたキーマカレーを「美味しい」とタキは頬張り、さゆはタキの持って来てくれた濃厚なジュースをなんとか口に運んだ。
「さゆ」
「ん?」
「今日、なんか元気ないね」
「え……そ、そうかな……」
「具合悪い?」
「ううん」
さゆは慌てて首を振った。本当の事は話せない。
「………俺、こうやって会い続けるの、迷惑かな?」
「え?え?なんで?そんな事ないよ!」
自信なさげにタキは少し俯いていた。
「タキ、ご、ごめんね。ちょっと……その……気がかりな事があっただけ」
その後も二人で夕方まで園内を散策したけれど、どことなくぎくしゃくした時間が流れた。
(あ、あ、どうしよう。もう会ってくれなくなったら)
もっと自分が色々気を遣えれば良いのにと、さゆは歯噛みした。
夕方、混んできた立川駅前を、二人でゆっくり歩いていたら、さゆのLINEが鳴った。「先に見て」とタキは言い、伊勢丹の前で二人とも隅に寄った。
「あ」
さゆは思わず声を洩らした。いつも絵を置いて貰っている、銀座の画廊の店主だった。
「どした?」
タキがさゆの顔を覗き込んだ。
「あ、あのね。私の絵、銀座の百貨店に置きたいって依頼が来てるって………」
「え!?すごい」
嘘みたいな話だった。その場で来週の打ち合わせに向けて、空いている日を送る。
「おめでとう、さゆ」
「うん」
さゆはタキに笑顔を向けた。二十代の頃は、画廊に何度絵を持ち込んでも断られてばかりだった。あの日々を思い出すと、嬉しさがこみ上げて来る。今日初めて心から笑えた気がした。
「さゆ、あのさ………」
「?」
夕暮れの立川の街のざわめきが、二人を優しく包んでいた。
「もし、話したい事があったら、幾らでも俺に話してよ。俺、そんな簡単にさゆから離れていかないよ」
「う、うん………」
「俺、もっとさゆの話を聞きたい。さゆの事知りたいから」
さゆはただ頷いた。そんな事を言われるのは初めてだった。「女は言う事を聞け」とばかり言われていたから。
きっと自分が何かを抱えている事に、もうタキは気付いているのだ。
「あ、ありがとう………」
「あ、あとこれ」
タキが鞄からGUのビニール袋を取り出した。礼を言って受け取り、開けてみると薄桃色のカーディガンだった。さゆが普段着ない色だ。
「安物でごめんね。そういうのも、さゆ、似合うと思って」
「う、ううん。嬉しい」
その場でタグを取って羽織ると、タキは眼を細めて微笑んだ。
ゆっくり手を振って、その日は別れた。
疫病の影もまだ無い、未来への希望を感じる、新しい年の始まりだった。
『いや…………出てって………』
小さく膨らんだ胸をタオルで必死に隠して、さゆは震えながら精一杯抗議した。「男を誘うから」と髪はずっと刈り上げにさせられていた。
『うるせえ!食わして貰ってるのに口ごたえするんじゃねえよ!!』
母はきっと、上の階でテレビのボリュームを上げている。義父はずかずかと近寄って来ると、酒臭い息でさゆの胸を揉み、ももを摑んで足を開かせた。
『やあ!やだ!!いやだっ!!』
泣きながら抗議しても義父は何も聞いていない。泥の付いた黒いゴツゴツした指を膣に押し込まれ、痛みにさゆは飛び上がった。いつもそうしてしばらく身体を触られるのだ。義父の汚いハアハアという息と緩んだ醜い顔を間近に眺めながら、さゆは「ここにいるのは自分じゃない」「私には本当は優しいお父さんがどこかにいる」と何度も自分に言い聞かせて天井を仰いだ。
どうせまた後で、『もう一度風呂に入らせてやるからそれでいいだろ』と言われるのだと知りながら。
自分の泣き叫ぶ声に眼を覚ますと、全身が固かった。動かしづらい。午前三時。真っ暗な自分の部屋だ。もう何が悲しいのか自分でも良く分からないままにしばらく泣いて、起き上がれるようになった所で「ああ、絵を描きたいな」と衝動に駆られた。
今日は店は休み、午前中にライターの原稿と次の個展の計画をする予定だった。
(蜘蛛、蜘蛛がいい)
図鑑とネット、記憶を頼りに、それから四時間を掛けて六十号の巨大なキャンパス一杯に、描けるだけ沢山の女郎蜘蛛やタランチュラを描いた。五十匹はいるだろう。背景は樹にした。昨年タキと行った新宿御苑の樹だ。半分ほど描き終わった絵を見て、冷静な頭で「三万円位なら売れそうだな」と思った。意外と暗い色調の絵の方が売れる。
(また時間を置いて手直ししよう)
こうやってもうずっと、絵を描く事でなんとか、精神のバランスを保っている。
一息付くと、もう外が明るかった。空気の澄んだ、二○一九年一月の奥多摩の朝だ。シャワーを浴び、アパートの窓を開けて、さゆは朝食と弁当作りに取り掛かった。クックパッドで見つけた減塩で低タンパクなキーマカレーを四苦八苦しながら作っていると、LINEが鳴った。
『さゆ、おはよう』
『おはよう』
タキのLINEは最初の頃はシンプルだったけれど、この頃は猫のスタンプがたまに送られてくる。ルークに良く似た白い猫だ。
『今日楽しみだよ。十二時に立川駅北口にいるね。この前美味しいりんごジュース見つけたから、それも持っていくね』
『うん、ありがとう』
優しいタキとLINEをしながら、さゆはなんだか後ろめたいような、タキが怖いような思いに駆られる。タキも男なんだ、と思うと会うのが怖い。一度料理を中断して、また蜘蛛のスケッチに入った。
タキはあの義父とは違う、と知りながら。
「うわ、広いね」
年末年始はLINEを送りあったのみだったので、久々にタキと会った。初めて入った昭和記念公園の原っぱの広さに、タキは感動した声を上げた。その横でさゆは少しぎこちない笑顔を向けた。サザンカの花を見て、日本家屋に立ち寄り、園内を散策した後だった。
(ダメだ、なんか上手く楽しめないや)
タキは年末に浅草のTSUTAYAでDVDをまとめてレンタルしたらしく、「ベニスに死す」が美しかった、「アース」を観たらルークがテレビにじゃれついて大変だったよ、と楽しそうに話したけれど、さゆは微笑んで頷くのが精一杯だった。
(タキは何も悪くないのに)
なんとか仕上げたキーマカレーを「美味しい」とタキは頬張り、さゆはタキの持って来てくれた濃厚なジュースをなんとか口に運んだ。
「さゆ」
「ん?」
「今日、なんか元気ないね」
「え……そ、そうかな……」
「具合悪い?」
「ううん」
さゆは慌てて首を振った。本当の事は話せない。
「………俺、こうやって会い続けるの、迷惑かな?」
「え?え?なんで?そんな事ないよ!」
自信なさげにタキは少し俯いていた。
「タキ、ご、ごめんね。ちょっと……その……気がかりな事があっただけ」
その後も二人で夕方まで園内を散策したけれど、どことなくぎくしゃくした時間が流れた。
(あ、あ、どうしよう。もう会ってくれなくなったら)
もっと自分が色々気を遣えれば良いのにと、さゆは歯噛みした。
夕方、混んできた立川駅前を、二人でゆっくり歩いていたら、さゆのLINEが鳴った。「先に見て」とタキは言い、伊勢丹の前で二人とも隅に寄った。
「あ」
さゆは思わず声を洩らした。いつも絵を置いて貰っている、銀座の画廊の店主だった。
「どした?」
タキがさゆの顔を覗き込んだ。
「あ、あのね。私の絵、銀座の百貨店に置きたいって依頼が来てるって………」
「え!?すごい」
嘘みたいな話だった。その場で来週の打ち合わせに向けて、空いている日を送る。
「おめでとう、さゆ」
「うん」
さゆはタキに笑顔を向けた。二十代の頃は、画廊に何度絵を持ち込んでも断られてばかりだった。あの日々を思い出すと、嬉しさがこみ上げて来る。今日初めて心から笑えた気がした。
「さゆ、あのさ………」
「?」
夕暮れの立川の街のざわめきが、二人を優しく包んでいた。
「もし、話したい事があったら、幾らでも俺に話してよ。俺、そんな簡単にさゆから離れていかないよ」
「う、うん………」
「俺、もっとさゆの話を聞きたい。さゆの事知りたいから」
さゆはただ頷いた。そんな事を言われるのは初めてだった。「女は言う事を聞け」とばかり言われていたから。
きっと自分が何かを抱えている事に、もうタキは気付いているのだ。
「あ、ありがとう………」
「あ、あとこれ」
タキが鞄からGUのビニール袋を取り出した。礼を言って受け取り、開けてみると薄桃色のカーディガンだった。さゆが普段着ない色だ。
「安物でごめんね。そういうのも、さゆ、似合うと思って」
「う、ううん。嬉しい」
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