15 / 68
海を描く
しおりを挟む
両手幅よりも少し小さめ位のサイズのキャンバスに、無数の薄桃色のクラゲが踊っている。息を止めてしまいそうな、深い海の蒼の中で。遠くに見える海面が、鱗の様な模様を創っている。
今までの自分の絵とは違うな、とさゆはアパートで七割方描いた絵を見て思った。油絵に挑戦するのも久々だ。
(色彩が、柔らかいのに鮮やかで明るい)
これまでのどんな明るく見える作品にも、通低音の様に流れていた「観る者を突き放す絶望」が、ここには滲んでいない。そんな気がした。
「海を描いて」というタキの要望に応えて描き始めた作品。タキには、鎌倉の後、一度越谷の夏の古本市を手伝ってもらった。
(普通に話せてたかな)
自信がない。鎌倉でキスした後、ずっと赤くなったままポーッとしているさゆをタキは心配して「ごめん、嫌だった?」と聞かれた。
(全然嫌じゃないけど)
自分が恋人とキスする日が来るなんて思わなかった。あまりに驚いて、幸せで、完全にのぼせてしまい、タキの問い掛けにもブンブン首を振るだけだった。乗り換えの武蔵小杉駅まで、更に心配したタキと手を繋いだままだったけれど、それにも気付かない位だった。
(び、びっくりした)
八月も終わりそうな今でも思い出すと動機が止まらない。海に着彩する手を止めて、さゆは布団に転がった。クッションを抱いて、満ち足りた溜息を吐く。
(はあ、私本当に、タキの事、好きになっちゃったな)
タキは今まで出会った他の誰とも違う。さゆを見下したり、バカにしたり、良いように利用したりしようともせず、ただ好意だけをくれる。
(好きだな)
ただ、とさゆは心の中に、ドス黒い雲が滲んでゆくのをかんじる。
(キスしたら、つぎはそれ以上もしなきゃいけないよね……)
怖い。ひたすらに怖い。かつてこの同じ部屋でされた暴力的なセックスを思い出して、さゆはまた震えが止まらなくなって来た。歯を食いしばって呻る。
タキはそんな乱暴なことはきっとしない。それは頭では分かっている。
もしタキに望まれたら。身体を預けてみたい、と思う反面、きっとトラウマが蘇るだろう自分が、おかしくなってしまいそうな予感と。
それでももう簡単にタキと別れられない予感が、さゆの中で交差していた。
シャワーを浴びているとルークが、風呂のドアをカリカリとひっかくシルエットが見えた。何百回みても、そのお腹が可愛いなあと思う。
今日は久々の夜勤だった。ダルくなった身体の汗をぬるいシャワーで洗い流し、タオルで水分を拭きとってから、足元に絡まるルークをひと撫でした。
「どうした?ご飯足りなかった?」
ルークは「みゃあみゃあ」と何度か鳴く。トランクスだけを履いて、ルークに先導されるようにソファに腰掛けた。ルークはすぐにタキの膝に納まった。
(さゆもこんな風にもっと甘えてくれたらなあ)
出会って1年経っても、彼女はどこか遠慮がちだ。壁に掛けられた鴉の絵に眼をやった。ルークが爪とぎしないように上からプラスティックを被せてあるけれど、ルークもその絵がタキの「大切なもの」だと分かっているらしく、パンチもしない。
この頃不意に襲って来る、さゆを強く抱き締めたい衝動がまた首をもたげて、タキはルークを撫でながらため息を吐いた。
(きっとまだ俺の事、完全には信用していないんだろうな)
身体を繋げたい、と思う事は正直ままある。叶うなら毎日でも会いたい。もっと近づきたい。ルークにも会わせたい。
でも。
(さゆが恐怖を感じないのが、一番大事だから)
二十代のもっと若い頃だったら、こうやって性衝動をコントロール出来なかっただろうなと思う。見上げるルークの頭を撫ででテレビを点けると、朝のニュースで児童虐待の再現ドラマをしていて、慌てて消した。片手で頭に手をやる。ルークが心配したように鳴いた。
――――――――――もう乗り越えたはずのくるしみも、いたみも、つらさも、消える事は無く、ほんの小さなスイッチでまた胸の奥から染み出してくるのだ。
無意識に腕をさする。そこにも、背中にも、足にも、無数に白いミミズの様な切り傷の跡があった。背中の一部には、煙草を押し付けられた跡もある。もう二十年以上前の事だ。今まで夜を共にした女達には、気味悪がられたり、面白がられたり、あえて無視されて来た傷だった。業務用のドーランを塗れば、ほぼ隠す事も出来るけれど、さゆにはなんだか、いつか身体を重ねる日には、包み隠さず見せたいと思っていた。
(さゆも、同じ様な過去を、背負ってるのかも知れない)
あの彼女だけが魅せる「翳り」の正体を、タキは知りたい、受け止めたいと思う。
物思いにふけるタキの膝の上で、ルークが大きく伸びをした。
今までの自分の絵とは違うな、とさゆはアパートで七割方描いた絵を見て思った。油絵に挑戦するのも久々だ。
(色彩が、柔らかいのに鮮やかで明るい)
これまでのどんな明るく見える作品にも、通低音の様に流れていた「観る者を突き放す絶望」が、ここには滲んでいない。そんな気がした。
「海を描いて」というタキの要望に応えて描き始めた作品。タキには、鎌倉の後、一度越谷の夏の古本市を手伝ってもらった。
(普通に話せてたかな)
自信がない。鎌倉でキスした後、ずっと赤くなったままポーッとしているさゆをタキは心配して「ごめん、嫌だった?」と聞かれた。
(全然嫌じゃないけど)
自分が恋人とキスする日が来るなんて思わなかった。あまりに驚いて、幸せで、完全にのぼせてしまい、タキの問い掛けにもブンブン首を振るだけだった。乗り換えの武蔵小杉駅まで、更に心配したタキと手を繋いだままだったけれど、それにも気付かない位だった。
(び、びっくりした)
八月も終わりそうな今でも思い出すと動機が止まらない。海に着彩する手を止めて、さゆは布団に転がった。クッションを抱いて、満ち足りた溜息を吐く。
(はあ、私本当に、タキの事、好きになっちゃったな)
タキは今まで出会った他の誰とも違う。さゆを見下したり、バカにしたり、良いように利用したりしようともせず、ただ好意だけをくれる。
(好きだな)
ただ、とさゆは心の中に、ドス黒い雲が滲んでゆくのをかんじる。
(キスしたら、つぎはそれ以上もしなきゃいけないよね……)
怖い。ひたすらに怖い。かつてこの同じ部屋でされた暴力的なセックスを思い出して、さゆはまた震えが止まらなくなって来た。歯を食いしばって呻る。
タキはそんな乱暴なことはきっとしない。それは頭では分かっている。
もしタキに望まれたら。身体を預けてみたい、と思う反面、きっとトラウマが蘇るだろう自分が、おかしくなってしまいそうな予感と。
それでももう簡単にタキと別れられない予感が、さゆの中で交差していた。
シャワーを浴びているとルークが、風呂のドアをカリカリとひっかくシルエットが見えた。何百回みても、そのお腹が可愛いなあと思う。
今日は久々の夜勤だった。ダルくなった身体の汗をぬるいシャワーで洗い流し、タオルで水分を拭きとってから、足元に絡まるルークをひと撫でした。
「どうした?ご飯足りなかった?」
ルークは「みゃあみゃあ」と何度か鳴く。トランクスだけを履いて、ルークに先導されるようにソファに腰掛けた。ルークはすぐにタキの膝に納まった。
(さゆもこんな風にもっと甘えてくれたらなあ)
出会って1年経っても、彼女はどこか遠慮がちだ。壁に掛けられた鴉の絵に眼をやった。ルークが爪とぎしないように上からプラスティックを被せてあるけれど、ルークもその絵がタキの「大切なもの」だと分かっているらしく、パンチもしない。
この頃不意に襲って来る、さゆを強く抱き締めたい衝動がまた首をもたげて、タキはルークを撫でながらため息を吐いた。
(きっとまだ俺の事、完全には信用していないんだろうな)
身体を繋げたい、と思う事は正直ままある。叶うなら毎日でも会いたい。もっと近づきたい。ルークにも会わせたい。
でも。
(さゆが恐怖を感じないのが、一番大事だから)
二十代のもっと若い頃だったら、こうやって性衝動をコントロール出来なかっただろうなと思う。見上げるルークの頭を撫ででテレビを点けると、朝のニュースで児童虐待の再現ドラマをしていて、慌てて消した。片手で頭に手をやる。ルークが心配したように鳴いた。
――――――――――もう乗り越えたはずのくるしみも、いたみも、つらさも、消える事は無く、ほんの小さなスイッチでまた胸の奥から染み出してくるのだ。
無意識に腕をさする。そこにも、背中にも、足にも、無数に白いミミズの様な切り傷の跡があった。背中の一部には、煙草を押し付けられた跡もある。もう二十年以上前の事だ。今まで夜を共にした女達には、気味悪がられたり、面白がられたり、あえて無視されて来た傷だった。業務用のドーランを塗れば、ほぼ隠す事も出来るけれど、さゆにはなんだか、いつか身体を重ねる日には、包み隠さず見せたいと思っていた。
(さゆも、同じ様な過去を、背負ってるのかも知れない)
あの彼女だけが魅せる「翳り」の正体を、タキは知りたい、受け止めたいと思う。
物思いにふけるタキの膝の上で、ルークが大きく伸びをした。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる