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ほんとうの、秘密
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テレビで除夜の鐘を聴きながら、さゆはもくもくと色鉛筆を動かしていた。この頃色鉛筆画に改めて凝っている。昼間は古本屋で働き、夜は槍ヶ岳の向こうに沈む夕日の絵に、ここ何日かは手を入れていた。何故今故郷・長野の絵を描きたくなったのかは分からない。一日三時間位しか眠れない。年末年始はお客も増えるので、休みを無しにして年末まで働きづめにした。
忙しくしていれば、意外にも日々は何気なく過ぎてゆく。タキが急に顔を見せなくなった事を、きっと商店街の皆も気付いていたのだけれど、誰も触れずにいてくれる。
(二千二十年か)
東京オリンピックの年だ。自分の暮らしは、タキに出会う前と変わらず、まだ続いていくのだろうな、という予感がしていた。
近い将来、義父の介護問題や借金問題で破綻するまでは。
タキからは、なんの連絡もない。さゆもLINEを送らなかった。
このまま、自分達はゆっくり終わってゆくのだろうと思う。時折、細波の様な哀しみを呼び起こしながら。
一月上旬までは、そんな風にいつも通りの日常、毎年変わらない新年が始まった。三が日は商店街の福引大会を手伝い、甘酒を貰い、ライブペインティングで虹色の鯛を描いた。
テレビでは、武漢での様子と、遂に日本でもその患者が見つかった、というニュースが流れていた。それでもまだこの頃は、お客が例年よりは減らず、ギャラリーと百貨店の営業も始まり、さゆは休み無しの忙しい毎日を過ごした。
事態が急転したのは、一月の中旬だった。
その日が最終日の、川越での青空古本市には、絵本と日本の伝統工芸の本を仕入れて持って行っていた。家族連れも多く、寒さにブルブル震えながら、ホッカイロで手を温めて似顔絵を何枚も描いた。売れ残った本を片付けながら、隣のブースの店主と武漢での悲惨な様子のニュースが怖いね、マスク買った方が良いのかね、と話す。ふと、
(ひとりでも大丈夫だけど、片付けやっぱり大変だな)
と思い、さみしさが込み上げた。夜七時過ぎ、電車で立川への岐路に着く。冬の、よく澄んだ刺す様なつめたい空気を、肺の奥まで吸い込む。ひとり立川の路地を歩き、途中、寒椿の花を見つけて写真に収めた。
そこで、「綺麗だね」と言い合える相手がもういないのに、不意に気付いた。気付いてしまった。
(もう、ずっとこのままなんだな)
次の誕生日も、盆も、クリスマスも、新年も、ずっと、もう、ずっとひとりなんだと思い知る。「可愛い」と私に唯一言ってくれるひとは、暖かく抱き締めてくれるひとは。
もう、いない。
それを今更ながらに思い知ると、身がちぎれそうだった。
(早く帰って続きを描こう)
「さゆ」
店に近づいた頃、急に聞き慣れた声が聴こえた気がして、さゆは耳を疑った。
(え)
息が止まった。その薄茶色のダウンコートには、見覚えがあった。去年の春に、タキが亀戸駅で酔っ払って倒れた際、着ていたものだ。
「あ、あ、あ、タキ………」
幻じゃないかと、思った。会いた過ぎて、幻を見てしまった気がした。
「久しぶり。明けましておめでとう」
タキは少し気まずそうに、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「あ、あ、う、うん」
挨拶を、返さなきゃと思うけれど、もう胸が一杯になって、先に涙が溢れた。涙が溢れて、止まらなくて、何も考えずにタキに走り寄った。腕を広げるタキにしがみついて、声を上げてわんわん泣いた。
「ごめん、ごめんね。さみしかったよね。ずっと連絡しなくてごめんね」
さゆの背中と髪を撫でながら、タキが繰り返し謝る。しばらくタキのあたたかい腕の中で泣いた後、さゆは人目を思い出してあわてて離れた。タキが差し出したティッシュで顔を拭くと、マスカラもアイシャドーも全部落ちて、ティッシュにカラフルな染みを作った。
「俺、どういう風にLINE送ったらいいか分からなくて………。『嫌な事しない』って言ったのに、怖い思いをさせてごめんね」
さゆは首を横に振った。
「………さゆ」
タキが、思い詰めたような表情で、さゆの名前を呼んだ。
「俺………ずっと、さゆに黙ってた事がある」
「…………え?」
思わぬ告白に、頭がついていかない。
「今日は、それを話しに来たんだ」
「今日は俺に払わせて」とタキに連れて来られたのは、駅から少し離れた、落ち着いた雰囲気の、靴を脱いで上がる居酒屋だった。障子で一つ一つの和室が仕切られていて、いつも二人で行っていたお店と比べて、段違いに高級そうなお店だ。
「タ、タキ………こんな高そうなところ……悪いよ」
さゆはファーストフードでもファミレスでもタキと一緒なら楽しかった。
「いいんだ。今まで、あんまり高いお店連れて来られなかったから」
契約社員になったしね、と向かい合って座りながらタキが呟く。さゆはふかふか過ぎて居心地の悪い座布団に正座した。メニューを開いてみたが、和食の凝った創作料理らしく、どんな料理なのかいまいち分からない。どうしようかとタキを見ると、タキもメニューを持ったまま固まっている。思わず眼を合わせて笑いあった。
「あ、私これにしようかな。湯葉のサラダ?みたいなの」
それならタキも食べられそうだ。
「あ、じゃあ俺はこのオリーブオイルと海老のサラダと、おひたし、あと揚げものも頼もうかな」
お互いにお互いが好きそうなものを頼んだ。タキは珈琲と一緒に、さゆのオレンジジュースも注文してくれる。去年初めてデートした時飲んだのを、ふと思い出した。
(もう、本当に昔の事みたいだ)
料理を食べながらしばらくは、お互いの近況を話した。タキは年末年始は以前神保町で買った本を読み、ほぼ家で過ごしたらしい。ルークに新しい魚型のおもちゃを買ってあげると、大層気に入ったらしく、いつも枕にして寝ていると微笑んだ。
その話を聞きながら、さゆは料理の美味しさを噛み締めていた。
(料理にカラフルな色がついている感じ)
ここ暫くは、固形食とスポーツドリンク、良くて冷凍食品ばかりで、いつの間にか痩せている。ほんとうに久しぶりに「食事」をしていた。
(美味しい)
タキの「話したいこと」も気になったけれど、タキと食事するのがただ楽しくて、デザートの創作わらびもちを頬張りながら、さゆは正月に書いた鯛の絵の記念写真を見せた。
「あ、百貨店見に行ったよ。銀座の。初売りの時」
「え、ほ、ほんとに?」
「うん」
「朝霧紗雪はやっぱり、素晴らしい画家なんだなあと、実感した。星座の絵とか、胸に迫って来る気迫があって」
「あ、ありがと……」
タキがこの一ヶ月近くの間、自分を忘れたわけでは無かったのが、何より嬉しかった。
「さゆ」
不意に、タキが改まった様子で、珈琲を一口、飲んだ。
さゆは喉を鳴らす。
「俺は…………俺は、さゆにはきっと、ふさわしくないと、思う」
「そ、そんな事・・・」
自分はただの、絵を描く中年の古本屋だ。
けれど、タキは首を横に振った。
「………俺は、二十年ちょっと前、中学を卒業したばかりの頃、東北の田舎から片道切符で出て来たんだ。さゆも薄々感づいていると思うけど………俺の両親は、賭け事と酒が好きで、もうどうしようもない人達で、暴力も日常的だったんだ。俺は、卒業式が終わったら、その足で、よくない仲間とよくない事をして貯めたお金で切符を買って、東京に来た。前からそうしようと決めていたから」
タキはそこからの自分の半生を、ポツポツと語り出した。それを、さゆは、静かに頷きながら、耳を傾けた。
タキの半生は、あまりに壮絶で、ドラマのようだった。
東北から出て来たタキは、歌舞伎町に行き着いた。水商売で雇って貰おうと思っていたのだが、ネットの発達していない時代、東京の歓楽街と言えばそこしか知らなかった。タキが薄々十八歳未満なのに感づいていた支配人は、それでも多くを聞かずに彼をキャバクラのボーイとして雇ってくれた。
掃除、配膳、灰皿の交換と必死で働くも、キャストの管理などはしないタキの給料はあまり高くなく、生活するのにやっとだった。仕事を掛け持ちしたいとこぼすと、他のボーイから、デリヘルの運転手を勧められ、「車の免許が欲しい」と思い立つ。
タキは、十八になっていた。
ひとまず話をとデリヘルの事務所に行くと、新大久保の普通のマンションに、若い男が一人だけいた。
男はタキに、石田衣良の「娼年」を読んだ事があるか聴いた。
男娼になる事を勧められたタキは、軽い気持ちで引き受けた。
「とにかくお金が欲しかったんだ」
薄墨の様なトーンで、タキはそう呟いた。夜はボーイの仕事、昼は男娼を始めた事で、免許は取得出来た。お金の問題は一気に解決した………ように思えた。
「セックスに、ハマっちゃってね。依存症、みたいな感じになっちゃって」
若さと、ストレスと、過労と孤独が重なって、それを発散する何かがきっと欲しかったのだ。稼いだ金は貯金には回らず、女を買うのに費やした。将来の為とか、自己研鑽とかそんな事考えもしなかった。
次はいつセックス出来るか、それだけ。
それでも女に乱暴な事をしないタキは、女性達から人気だった。身体の傷もあり覚えられ易く、数人の常連客も出来た。
しかし。
キャバクラのキャストに手を出したタキは、二十三歳の頃にボーイを首になってしまう。
寮を追い出され、保証人がいないせいでアパートが借りられず、困っていたタキに、声を掛けてくれるひとが、いた。
常連客の連れて来た、三十代位の女性だった。
求められるままにホテルで寝た後、タキの丁寧なセックスを彼女は褒め、一枚の名刺を差し出した。
その名刺が、タキの運命を決定的に変えた。
「当時まだ珍しかった女性向けAVの会社のやり手社長でね。若い新人のAV男優を探していたんだ」
大阪の貧困地区出身だという社長は、とにかく面倒見が良かった。最初の仕事をする前に、不動産屋に一緒に行って保証人になりアパートを即日契約、他の男優を集めて顔合わせ、細かい演技指導などの研修、そして何より性依存症の治療の為、カウンセリングと互助会への加入まで手配してくれた。
「社長には今でも感謝しかないよ。何でそこまでしてくれるのか聞いたら『自分も生活に困っていた時期に、色んな人に助けて貰ったからだ』って、言うんだ」
恩を感じるなら、いつか本当に助けたい人が現れたら、その人を本気で手助けしてやれ、と豪快に笑う女性だった。
かくしてタキは、AV男優としてデビューする事になった。
段取りも細かく、咳払いも出来ないような撮影は、常に緊張の連続で、女性にも気を遣う、ストレスの多い仕事だった。男性向けのAVよりも、女性向けの方が設定やドラマも細かいものが多い。爪は小まめに切る。それをタキは七年近く続けた。メイクが業務用の肌色のドーランを全身に塗りたくり、人形の様になって、何本もの作品に出た。
小さい会社で、社長がよく現場に出られる体制の内は、それでも働き易かった。けれど、女性向けAVの業界は当時急拡大し、社員が増えた所で、金を積んで処女の女性に乱暴な行為をしたり、本来は撮影前に女優と細かく話し合って内容を決めるはずなのに、きちんとした同意を得ずに撮影を強行するような作品が出始めて、タキは精神的な負担が多き過ぎて辞めた。その頃には、まとまった額の貯金も出来、性依存も大分落ち着いていた。
「俺は、生きる為にAVの世界に入ったし、それを後悔はしていない。・・・・・・だけど、作品はDVDでも、配信でも半永久的に残る可能性があるものだから・・・・自分が家族を持つのは、諦めようと、俺は思っていたんだ。ほんとうは」
それでも、その頃過労と不摂生で腎臓の病気が発覚すると、寂しくて心細くてルークを保健所から引き取った。新しいアパートの保証人を、男優の先輩がかって出てくれた。やがて日雇いで軽作業の仕事を始めたタキは、無職になって数ヵ月後に、今の職場に出会う。
タキは、いつの間にか三十の大台を越えていた。
「・・・・今の会社の人は、タキの過去を知ってるの?」
「センター長と、直属の上司の課長は知ってる。それでも受け入れて、もう七八年位雇って貰えて、それも本当に感謝してるよ」
飲み会や休憩時間に、読書や芸術など文化や教養の楽しみを教えてくれたのも、課長だった。
「そっか・・・・・・・良かった」
さゆがほっとした表情を浮かべたのを見て、タキはありがとう、と呟いた。
「ごめんね、さゆ」
「え?」
謝られた事に驚いてタキを見ると、瞳がうるんでいる。
「本当は、もっと、もっと早く、付き合う前に言うつもりだったんだ。でも、何度も言おうとしたけど・・・・・・・どうしても言えなくて」
タキは下を向いて、込み上げる涙を堪えた。保健所と病院で、性感染症の検査をして貰い、何も異常がないのが分かると、思わず彼女にキスをした事を思い出す。
「さゆが」
テーブルの上に握った手が白い。
「さゆが、あんまり可愛くて・・・・・・離れていくのが、怖かったんだ。ごめん」
さゆは首を横に振った。何か騙されていたとか、そんな気持ちは無かった。
(誰にでも言えない事はある)
さゆ自身も、義父の事や、性暴力を振るわれた詳細をタキに語れるかと言われたら。
きっと、出来ない。
「・・・・今まで本当に楽しかった。ありがとう」
不意にタキが口にした一言に、さゆは耳を疑った。
「え?」
「もう、会いに来たりしないから。さゆの画家としての成功と・・・・・もっと、良い人と幸せに暮せること、心から祈ってる。さゆは、俺のモノクロの生活に、虹色の光をくれたんだ。死ぬまで忘れないよ」
「・・・・・なんで・・・・・・・」
さゆはあられもなくまた泣き出した。後から後から涙が零れて、頬を伝い、服の上を真珠の様に転がってゆく。
「・・・・タキは・・・・私と、もう、別れたいの・・・・・?」
「別れたいわけじゃないよ。でも、俺と一緒に街を歩いたら、たまに俺に気付くひとが必ずいるから。俺と付き合い続けるときっと、さゆはそれで嫌な思いをするよ」
「そんなのどうだっていいよ!タキと一緒にいられる事に比べたらどうだって」
自分が清廉な人間だなんてさゆは思っていない。高校に行くのにも反対された底辺の出身で、ずっと泥臭く生きていくしかない。
そのどうしようもない苦しみの人生の中に、タキも一緒にいて欲しかった。
「平凡な幸せ」があまりにも遠い、自分の人生の中に。
泣き続けるさゆの傍にゆっくりタキは回りこみ、髪を撫でながら抱き締めた。ありがとう、ありがとう、と何度もつぶやく。タキの胸に顔を埋めて、さゆは喉を鳴らして泣いた。
二人しばらく、遠い宴会の歓声を聞きながら、そっと抱き合った。
(ああ、私)
やっと、本当のタキの姿を見られたんだな、とさゆは思った。
「・・・・・・さゆ、愛してる」
耳元でタキが囁いた。軽くキスを交わし、ゆっくり離れる。
(あ、今だ)
なんの前触れもなく、さゆの中でパズルのピースが合わさったように、すんなり決心がついた。自然に。
「ね、タキ、明日仕事?」
「いや・・・・・実は有給取って来た。ショックで明日仕事にならなそうだったから」
「じゃ、じゃあ、ね・・・・・」
「?」
タキの手を両手で握って、さゆは恥ずかしさに俯いて、小さな声で言った。
「私も明日、午後から店に出ればいいから・・・・・」
こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。
「・・・・今夜・・・・ルークに会いに行ってもいい?」
「いいの?」と少し驚いた声でタキが問い返す。小さくさゆは頷いた。
忙しくしていれば、意外にも日々は何気なく過ぎてゆく。タキが急に顔を見せなくなった事を、きっと商店街の皆も気付いていたのだけれど、誰も触れずにいてくれる。
(二千二十年か)
東京オリンピックの年だ。自分の暮らしは、タキに出会う前と変わらず、まだ続いていくのだろうな、という予感がしていた。
近い将来、義父の介護問題や借金問題で破綻するまでは。
タキからは、なんの連絡もない。さゆもLINEを送らなかった。
このまま、自分達はゆっくり終わってゆくのだろうと思う。時折、細波の様な哀しみを呼び起こしながら。
一月上旬までは、そんな風にいつも通りの日常、毎年変わらない新年が始まった。三が日は商店街の福引大会を手伝い、甘酒を貰い、ライブペインティングで虹色の鯛を描いた。
テレビでは、武漢での様子と、遂に日本でもその患者が見つかった、というニュースが流れていた。それでもまだこの頃は、お客が例年よりは減らず、ギャラリーと百貨店の営業も始まり、さゆは休み無しの忙しい毎日を過ごした。
事態が急転したのは、一月の中旬だった。
その日が最終日の、川越での青空古本市には、絵本と日本の伝統工芸の本を仕入れて持って行っていた。家族連れも多く、寒さにブルブル震えながら、ホッカイロで手を温めて似顔絵を何枚も描いた。売れ残った本を片付けながら、隣のブースの店主と武漢での悲惨な様子のニュースが怖いね、マスク買った方が良いのかね、と話す。ふと、
(ひとりでも大丈夫だけど、片付けやっぱり大変だな)
と思い、さみしさが込み上げた。夜七時過ぎ、電車で立川への岐路に着く。冬の、よく澄んだ刺す様なつめたい空気を、肺の奥まで吸い込む。ひとり立川の路地を歩き、途中、寒椿の花を見つけて写真に収めた。
そこで、「綺麗だね」と言い合える相手がもういないのに、不意に気付いた。気付いてしまった。
(もう、ずっとこのままなんだな)
次の誕生日も、盆も、クリスマスも、新年も、ずっと、もう、ずっとひとりなんだと思い知る。「可愛い」と私に唯一言ってくれるひとは、暖かく抱き締めてくれるひとは。
もう、いない。
それを今更ながらに思い知ると、身がちぎれそうだった。
(早く帰って続きを描こう)
「さゆ」
店に近づいた頃、急に聞き慣れた声が聴こえた気がして、さゆは耳を疑った。
(え)
息が止まった。その薄茶色のダウンコートには、見覚えがあった。去年の春に、タキが亀戸駅で酔っ払って倒れた際、着ていたものだ。
「あ、あ、あ、タキ………」
幻じゃないかと、思った。会いた過ぎて、幻を見てしまった気がした。
「久しぶり。明けましておめでとう」
タキは少し気まずそうに、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「あ、あ、う、うん」
挨拶を、返さなきゃと思うけれど、もう胸が一杯になって、先に涙が溢れた。涙が溢れて、止まらなくて、何も考えずにタキに走り寄った。腕を広げるタキにしがみついて、声を上げてわんわん泣いた。
「ごめん、ごめんね。さみしかったよね。ずっと連絡しなくてごめんね」
さゆの背中と髪を撫でながら、タキが繰り返し謝る。しばらくタキのあたたかい腕の中で泣いた後、さゆは人目を思い出してあわてて離れた。タキが差し出したティッシュで顔を拭くと、マスカラもアイシャドーも全部落ちて、ティッシュにカラフルな染みを作った。
「俺、どういう風にLINE送ったらいいか分からなくて………。『嫌な事しない』って言ったのに、怖い思いをさせてごめんね」
さゆは首を横に振った。
「………さゆ」
タキが、思い詰めたような表情で、さゆの名前を呼んだ。
「俺………ずっと、さゆに黙ってた事がある」
「…………え?」
思わぬ告白に、頭がついていかない。
「今日は、それを話しに来たんだ」
「今日は俺に払わせて」とタキに連れて来られたのは、駅から少し離れた、落ち着いた雰囲気の、靴を脱いで上がる居酒屋だった。障子で一つ一つの和室が仕切られていて、いつも二人で行っていたお店と比べて、段違いに高級そうなお店だ。
「タ、タキ………こんな高そうなところ……悪いよ」
さゆはファーストフードでもファミレスでもタキと一緒なら楽しかった。
「いいんだ。今まで、あんまり高いお店連れて来られなかったから」
契約社員になったしね、と向かい合って座りながらタキが呟く。さゆはふかふか過ぎて居心地の悪い座布団に正座した。メニューを開いてみたが、和食の凝った創作料理らしく、どんな料理なのかいまいち分からない。どうしようかとタキを見ると、タキもメニューを持ったまま固まっている。思わず眼を合わせて笑いあった。
「あ、私これにしようかな。湯葉のサラダ?みたいなの」
それならタキも食べられそうだ。
「あ、じゃあ俺はこのオリーブオイルと海老のサラダと、おひたし、あと揚げものも頼もうかな」
お互いにお互いが好きそうなものを頼んだ。タキは珈琲と一緒に、さゆのオレンジジュースも注文してくれる。去年初めてデートした時飲んだのを、ふと思い出した。
(もう、本当に昔の事みたいだ)
料理を食べながらしばらくは、お互いの近況を話した。タキは年末年始は以前神保町で買った本を読み、ほぼ家で過ごしたらしい。ルークに新しい魚型のおもちゃを買ってあげると、大層気に入ったらしく、いつも枕にして寝ていると微笑んだ。
その話を聞きながら、さゆは料理の美味しさを噛み締めていた。
(料理にカラフルな色がついている感じ)
ここ暫くは、固形食とスポーツドリンク、良くて冷凍食品ばかりで、いつの間にか痩せている。ほんとうに久しぶりに「食事」をしていた。
(美味しい)
タキの「話したいこと」も気になったけれど、タキと食事するのがただ楽しくて、デザートの創作わらびもちを頬張りながら、さゆは正月に書いた鯛の絵の記念写真を見せた。
「あ、百貨店見に行ったよ。銀座の。初売りの時」
「え、ほ、ほんとに?」
「うん」
「朝霧紗雪はやっぱり、素晴らしい画家なんだなあと、実感した。星座の絵とか、胸に迫って来る気迫があって」
「あ、ありがと……」
タキがこの一ヶ月近くの間、自分を忘れたわけでは無かったのが、何より嬉しかった。
「さゆ」
不意に、タキが改まった様子で、珈琲を一口、飲んだ。
さゆは喉を鳴らす。
「俺は…………俺は、さゆにはきっと、ふさわしくないと、思う」
「そ、そんな事・・・」
自分はただの、絵を描く中年の古本屋だ。
けれど、タキは首を横に振った。
「………俺は、二十年ちょっと前、中学を卒業したばかりの頃、東北の田舎から片道切符で出て来たんだ。さゆも薄々感づいていると思うけど………俺の両親は、賭け事と酒が好きで、もうどうしようもない人達で、暴力も日常的だったんだ。俺は、卒業式が終わったら、その足で、よくない仲間とよくない事をして貯めたお金で切符を買って、東京に来た。前からそうしようと決めていたから」
タキはそこからの自分の半生を、ポツポツと語り出した。それを、さゆは、静かに頷きながら、耳を傾けた。
タキの半生は、あまりに壮絶で、ドラマのようだった。
東北から出て来たタキは、歌舞伎町に行き着いた。水商売で雇って貰おうと思っていたのだが、ネットの発達していない時代、東京の歓楽街と言えばそこしか知らなかった。タキが薄々十八歳未満なのに感づいていた支配人は、それでも多くを聞かずに彼をキャバクラのボーイとして雇ってくれた。
掃除、配膳、灰皿の交換と必死で働くも、キャストの管理などはしないタキの給料はあまり高くなく、生活するのにやっとだった。仕事を掛け持ちしたいとこぼすと、他のボーイから、デリヘルの運転手を勧められ、「車の免許が欲しい」と思い立つ。
タキは、十八になっていた。
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男はタキに、石田衣良の「娼年」を読んだ事があるか聴いた。
男娼になる事を勧められたタキは、軽い気持ちで引き受けた。
「とにかくお金が欲しかったんだ」
薄墨の様なトーンで、タキはそう呟いた。夜はボーイの仕事、昼は男娼を始めた事で、免許は取得出来た。お金の問題は一気に解決した………ように思えた。
「セックスに、ハマっちゃってね。依存症、みたいな感じになっちゃって」
若さと、ストレスと、過労と孤独が重なって、それを発散する何かがきっと欲しかったのだ。稼いだ金は貯金には回らず、女を買うのに費やした。将来の為とか、自己研鑽とかそんな事考えもしなかった。
次はいつセックス出来るか、それだけ。
それでも女に乱暴な事をしないタキは、女性達から人気だった。身体の傷もあり覚えられ易く、数人の常連客も出来た。
しかし。
キャバクラのキャストに手を出したタキは、二十三歳の頃にボーイを首になってしまう。
寮を追い出され、保証人がいないせいでアパートが借りられず、困っていたタキに、声を掛けてくれるひとが、いた。
常連客の連れて来た、三十代位の女性だった。
求められるままにホテルで寝た後、タキの丁寧なセックスを彼女は褒め、一枚の名刺を差し出した。
その名刺が、タキの運命を決定的に変えた。
「当時まだ珍しかった女性向けAVの会社のやり手社長でね。若い新人のAV男優を探していたんだ」
大阪の貧困地区出身だという社長は、とにかく面倒見が良かった。最初の仕事をする前に、不動産屋に一緒に行って保証人になりアパートを即日契約、他の男優を集めて顔合わせ、細かい演技指導などの研修、そして何より性依存症の治療の為、カウンセリングと互助会への加入まで手配してくれた。
「社長には今でも感謝しかないよ。何でそこまでしてくれるのか聞いたら『自分も生活に困っていた時期に、色んな人に助けて貰ったからだ』って、言うんだ」
恩を感じるなら、いつか本当に助けたい人が現れたら、その人を本気で手助けしてやれ、と豪快に笑う女性だった。
かくしてタキは、AV男優としてデビューする事になった。
段取りも細かく、咳払いも出来ないような撮影は、常に緊張の連続で、女性にも気を遣う、ストレスの多い仕事だった。男性向けのAVよりも、女性向けの方が設定やドラマも細かいものが多い。爪は小まめに切る。それをタキは七年近く続けた。メイクが業務用の肌色のドーランを全身に塗りたくり、人形の様になって、何本もの作品に出た。
小さい会社で、社長がよく現場に出られる体制の内は、それでも働き易かった。けれど、女性向けAVの業界は当時急拡大し、社員が増えた所で、金を積んで処女の女性に乱暴な行為をしたり、本来は撮影前に女優と細かく話し合って内容を決めるはずなのに、きちんとした同意を得ずに撮影を強行するような作品が出始めて、タキは精神的な負担が多き過ぎて辞めた。その頃には、まとまった額の貯金も出来、性依存も大分落ち着いていた。
「俺は、生きる為にAVの世界に入ったし、それを後悔はしていない。・・・・・・だけど、作品はDVDでも、配信でも半永久的に残る可能性があるものだから・・・・自分が家族を持つのは、諦めようと、俺は思っていたんだ。ほんとうは」
それでも、その頃過労と不摂生で腎臓の病気が発覚すると、寂しくて心細くてルークを保健所から引き取った。新しいアパートの保証人を、男優の先輩がかって出てくれた。やがて日雇いで軽作業の仕事を始めたタキは、無職になって数ヵ月後に、今の職場に出会う。
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「・・・・今の会社の人は、タキの過去を知ってるの?」
「センター長と、直属の上司の課長は知ってる。それでも受け入れて、もう七八年位雇って貰えて、それも本当に感謝してるよ」
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「ごめんね、さゆ」
「え?」
謝られた事に驚いてタキを見ると、瞳がうるんでいる。
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さゆは首を横に振った。何か騙されていたとか、そんな気持ちは無かった。
(誰にでも言えない事はある)
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きっと、出来ない。
「・・・・今まで本当に楽しかった。ありがとう」
不意にタキが口にした一言に、さゆは耳を疑った。
「え?」
「もう、会いに来たりしないから。さゆの画家としての成功と・・・・・もっと、良い人と幸せに暮せること、心から祈ってる。さゆは、俺のモノクロの生活に、虹色の光をくれたんだ。死ぬまで忘れないよ」
「・・・・・なんで・・・・・・・」
さゆはあられもなくまた泣き出した。後から後から涙が零れて、頬を伝い、服の上を真珠の様に転がってゆく。
「・・・・タキは・・・・私と、もう、別れたいの・・・・・?」
「別れたいわけじゃないよ。でも、俺と一緒に街を歩いたら、たまに俺に気付くひとが必ずいるから。俺と付き合い続けるときっと、さゆはそれで嫌な思いをするよ」
「そんなのどうだっていいよ!タキと一緒にいられる事に比べたらどうだって」
自分が清廉な人間だなんてさゆは思っていない。高校に行くのにも反対された底辺の出身で、ずっと泥臭く生きていくしかない。
そのどうしようもない苦しみの人生の中に、タキも一緒にいて欲しかった。
「平凡な幸せ」があまりにも遠い、自分の人生の中に。
泣き続けるさゆの傍にゆっくりタキは回りこみ、髪を撫でながら抱き締めた。ありがとう、ありがとう、と何度もつぶやく。タキの胸に顔を埋めて、さゆは喉を鳴らして泣いた。
二人しばらく、遠い宴会の歓声を聞きながら、そっと抱き合った。
(ああ、私)
やっと、本当のタキの姿を見られたんだな、とさゆは思った。
「・・・・・・さゆ、愛してる」
耳元でタキが囁いた。軽くキスを交わし、ゆっくり離れる。
(あ、今だ)
なんの前触れもなく、さゆの中でパズルのピースが合わさったように、すんなり決心がついた。自然に。
「ね、タキ、明日仕事?」
「いや・・・・・実は有給取って来た。ショックで明日仕事にならなそうだったから」
「じゃ、じゃあ、ね・・・・・」
「?」
タキの手を両手で握って、さゆは恥ずかしさに俯いて、小さな声で言った。
「私も明日、午後から店に出ればいいから・・・・・」
こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。
「・・・・今夜・・・・ルークに会いに行ってもいい?」
「いいの?」と少し驚いた声でタキが問い返す。小さくさゆは頷いた。
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