朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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終着点

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二千二十年、三月上旬。緊急事態宣言の出た日。さゆは、不動産屋に今月末で店を閉店し、明け渡す旨を伝えた。
悩んで、悩んで、悩み抜いたけれど。先の真っ黒な今、店を続ける為に借金をしても、もう、返せるあては、ない。
馴染んだ昼間の商店街を、遣り切れない思いを抱えてゆっくり歩いた。途中で惣菜店のおかみさんが、
「朝霧さん、これ、お昼に食べてよ!元気出して、ね」
 とコロッケが数個入った包みをさゆに差し出した。固辞しようとしたけれど、「ウチの子にずっと絵本ありがとうね」とおかみさんはさゆに包みを握らせた。
 店に帰ってうがいと手洗いを済ませてから1人、コロッケを頬張った。ふと、昨日から水以外何もとっていない事を、そこでようやく思い出す。年始と比べると、少し痩せた。
 既に閉店セールを始めている店内は、それでも客がほとんど来ない。今後はネット通販だけは続けようと思っているので、時間のある限り、商品をネットに上げ続け、他の古本屋のサイトを参考に訪れていた。バイトも出来るだけ入っている。
 しかし、さゆの絵を置いている画廊も、百貨店も、やはり休業の連絡が入っていた。
 今後の生活の見通しは、全く、立たない。

 まだ寒さの厳しい三月の多摩の夜道を、さゆは1人、フラフラと自宅に戻った。
(ああ、私)
 ぼんやりと、思い至った。
(私、八年以上、古本屋だったんだな)
 大変な事も多かったけれど、古本屋として働けた事は幸せだったと思う。
 それ以外の仕事をしたいとは、全く思えないほどに。
 絵の具の匂いが漂う、狭いアパートのドアを後ろ手に閉めると、さゆは、崩れ落ちる様に玄関に座り込んだ。そこから一歩も動けずに、声を殺して泣いた。悲しみが後から後から溢れて来て、心臓を震わせて、ひたすらに痛く、辛かった。
 ――――さゆは、上京する時、こう思っていた。
『もし、ここで暮していけなくなったら、田舎には戻らない』
 またあの地獄を味わいたくない。ここで、終わりにしよう、と。
 そして今、唐突に『その時』を目の前に突き付けられて、恐怖と混乱におののいている自分がいる。
(どうしよう)
(私、どうしよう)
 頭の中がぐちゃぐちゃで、上手くものを考えられない。その間にも悲しみがまたつき上がって来て、さゆは衝動的に、靴のままアパートに上がって、台所の包丁を握った。そのまま首を切ろうとして、怖くなって、手が震えて包丁を取り落とした。
(タキ)
 震えが止まらない手でスマフォを取り出して、タキに電話を掛けた。
(私何してるんだろうな)
 こんな遅くに。タキだって仕事をしていて、疲れているかも知れないのに。
(私なんて)
 死ぬなら勝手に死ねばいいのに。
『さゆ、どうしたの?』
 電話を切ろうとした、その時。タキの福音の様な声が、さゆの耳に響いた。
「あ、ご、ごめん、タキ・・・ま、まだ仕事中だよね・・・?」
『いや、さっき帰った所だよ。大丈夫?』
 タキの声は変わらず優しいけれど、明らかに疲れていた。さゆは時計を見る。午後十時。
「あ、ううん・・・・店、もう・・・閉める事にしたから・・・・」
 涙声でなんとかそう言うと、タキは暫くの沈黙の後、『そっか』とだけ言った。
『お疲れ様、さゆ』
 さゆはまた涙がとめどなく溢れて来て、何度も何度も頷いた。
「タキ、会いたいな」
『さゆが、もし来れるなら、来てもいいよ』
「・・・・・行きたい・・・・」
 もうすぐ真夜中とか、明日も仕事とか、そういう事がさゆは全部考えられなくなって、『じゃあ、待ってるね』というタキの言葉を聞き終わる前に、そのままドアを開けて外に飛び出した。
 
 酷く空いた電車に乗っている一時間半が、とてつもなく長く感じられた。何をする気力もなく、さゆはずっと俯いて過ごした。
 押上の駅から、トボトボとタキのアパートに向かった。二階建ての古びたアパートに着いてピンポンを鳴らすと、すぐに部屋着のタキがドアを開けた。
「ごめんね、タキ。待たせて」
「ううん」
 タキは夜目にも顔色が悪く、痩せたようだった。ルークは頭だけ上げてさゆを見ると、再び横になる。
「お風呂沸かしといたから、入ってね・・・ごめんね、俺、ちょっと疲れてて」
 さゆにそう言うと、タキは重い足取りでベッドに座り込んだ。
「うん、タキ、眠っていいよ。明日も七時位にここ、出るから」
「落ち着いたら、ゆっくり話したりしようね」
 タキは申し訳無さそうにそう言うと、ベッドに入る。さゆが風呂から上がると、眼を閉じて、眠っているようだった。さゆもベッドに潜り込む。
(ああ、あったかいなあ)
 タキの背中に手を回すと、また悲しくなって、嗚咽を抑えきれずに泣いた。
 やっと、泣く事で悲しみが外に出て行ける様な涙だった。
「さゆ、大丈夫?」
 タキがそっと、さゆの髪を撫でた。
「ごめんね、タキ。起こしちゃった?」
 タキはかぶりを振る。
「今まで頑張ったよ、さゆ。ずっと、何年も1人で頑張って来て、偉いよ」
 タキの腕の中で、さゆはひとしきり泣いて、そしてそのまま吸い込まれるように、眠りに落ちた。

 遠くで、鳥の声と、自動車の音が聞こえる。カーテンの隙間から、朝の柔らかい日差しが降り注いでいた。
 もうすぐの春の再来を告げる、暖かみのある朝日だった。
 さゆは目覚めたら、まだ、タキの腕の中にいた。
(はわわわわわわ)
 急に自分の行動が恥ずかしくなって、さゆは身じろぎする。
「おはよ、さゆ」
 頭の上で、タキの声がする。
「お、おはよ、タキ。ごめんね、ちゃんと眠れた?」
「うん、大丈夫。俺、元々横になる時間が長くても、睡眠時間はあんまり長くないんだよね。さゆは、大丈夫?」
「・・・・・うん・・・・・。タキ、ありがとう。朝ごはん、どうしよっか?」
「うーん、俺、無くても大丈夫かな。ごめんね。この頃食べてなくて」
「ううん、私も今日はいいかな」
 そのまま暫く二人で抱き合った。
「さゆ」
「ん?」
「これからの事、ゆっくり考えよう・・・と言いたいけど、お金がないね」
「うん」
「ひとまず、ここに出来るだけ住むようにしたら?」
「いいの?」
「俺も忙しすぎて、もうあんまり会いに行けないし。ルークも日中ずっとひとりきりだから、居てもらえると助かる。もし、さゆのアパートを引き払ったら、家賃も浮くしさ」
「うん・・・でも、ネットで古本を売る予定だから、在庫がここだけだと置ききれないね、あと画材も・・・」
「そっか、じゃあアパートはひとまずそのままがいいかな」
「うん、そうする。ただ、タキが良かったらここに基本的に住もうかな。自転車も買って」
 この頃、電車が止まるか大幅な間引き運転がされる、という噂が流れていた。
(タキに会えなくなるの、怖いな)
 日雇い派遣の仕事も、圧倒的に都心周辺が多い。ここなら、臨海部の工場へも自転車で頑張ればいけそうだ。
「さゆ、それかさ」
「?」
「もう、結婚しちゃう?」
 さゆは心臓がバクバク言い過ぎて気を喪いそうだった。
(ええええええええええええ!?)
 まさかそんな事。自分の人生で。
 言われる日が来るなんて思わなかった。
「・・・・・ごめん、冗談」
 何言ってるんだろうね、俺は、とタキの苦笑した声がした。
「でも、考えといて。今すぐじゃなくていいから。もっと、色んな事が落ち着いた後に」
 タキはそう言うと、ベッドから抜け出した。カーテンにじゃれ付くルークに朝ごはんをあげながら、「ルーク、さゆがもうすぐ一緒に住んでくれるって。うれしいね」と話しかけながら撫でた。
「俺も正直、ものすごく忙しくて・・・納期とかの負担も多くて、ずっとこの仕事続けられるか自信ないけど・・・頑張るから」
「うん・・・無理しないでね」
 さゆもベッドから起き上がりながらそう言った。幸福と不幸のジェットコースターの様な日だ。
 終着駅に見えたその向こうに。新しい毎日が広がってゆく予感がしていた。
 ―――――――この時は。


 




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