28 / 68
あたらしい日々、あたらしい道
しおりを挟む
春の朝の澄んだ空気が、静かな部屋に満ちている。
「おはよう」
さゆが目を覚ますと、隣で眠っていたはずのタキは、もう支度を始めていた。さゆは時計を見る。七時過ぎ。
「早いね」
「パートさん達が来る前に、今日の段取りを決めないといけないからね」
タキは明らかにげっそりとしていて、足取りもフラフラだ。朝食も摂っていない。
「タキ、ご飯は?」
「時間ないから良いや。薬は飲んでるから大丈夫」
タキは急いで着替えると、さゆを見ずに足早にドアへ向かい、「行ってきます」と言い残して出ていった。
二千二十年、四月。新しい年度が、新しい暮らしが始まっていた。
都会の喧騒とタキの匂いの中で、さゆは毛布に包まって身を起こす。目覚めたルークが鳴くので、抱き上げるとさゆにスリスリする。もう、ずっと、ここ半月位、こんな毎日だ。タキは学校が休校になった影響で、工場の受注が爆発的に増え、週七日で働く事も多いそうだ。たまの休みの日はひたすら寝ている。顔色も白く、とても具合が悪そうだ。
(タキ、ずっとそのペースでは働けないんじゃないの?)
二人の会話はほとんどない。今のタキには、前と違う張り詰めた何かがあった。
(何か、思ってたのと違うなあ)
初めての同棲で、どこかドラマみたいな甘い毎日を期待していたのだけれど。実際は、ひたすら生活に追われているだけの日々だ。さゆは自転車で片道一時間のマスク工場で、運よく派遣の仕事を見つけ、週三日ほどはそこで働けていた。他の時間は、家事やネット古書店、そしてライターの業務に当てている。ルークがいるので、タキのアパートには絵の具ではなく、野分から貰った色鉛筆だけを持って来ていた。
ミャアミャアと話すルークを撫でると、膝の上で丸まった。
「ふふ。私も二度寝しちゃおうかな」
今日は派遣の仕事はない。後でネット古書店の発送をしなきゃな、と残してある店のSNSを開く。在宅している人が多い為か、かつての常連達から頻繁にメッセージを貰えるのが有難かった。注文も毎日数冊は入る。目ぼしい本はタキの本棚の横に、ルークが触れない様に大きな箱を幾つか買って保管している。
流れてゆくメッセージを読みながら、ふわふわのルークを撫でる。
(私たち、どうなってしまうんだろうな)
とふと、不安がまた、胸を掠めた。
店は、三月末で無事に閉じられた。後は、撤去工事の立会いぐらいだ。なんだかんだで本は徐々に売れ、最後の週はほとんど商品も無くなり、古本屋というよりも、さゆの絵画制作を見たり、絵を買ったりしてお布施をする店になっていた。
『朝霧さん、有名な実業家のお陰もあって、現代アートが今人気なの、御存知ですよね?ユーチューブでライブペイントとか、フリマアプリで作品販売とか、朝霧さんならきっと上手く行きますよ。大変な時ですが、僕は朝霧さんに、画家として生き残って欲しいです』
SNSでのその書き込みを見て、店の様子を試しにスマホでライブ中継したら、意外と評判が良かった。ネットやキャッシュレス決済は、こんな時本当に有難い。どこからでも、小額でも支援をして貰える。
閉店を決めてから一ヶ月は、本当に絶望と不安に苛まれたけれど、少しづつ、少しづつ、新しい道が見えようとしていた。
それでも。
「朝霧さん、色々落ち着いたら、また立川に来てよ。ウチの商店街も、もうシャッター商店街寸前だから、きっと物件も空いてるよ。安く借りられるよう、自分からもお願いするから」
最後に理事長にそう言われ、静かに明かりの消えた店に佇んだ時、さゆはなんとも言えない寂寞とした想いに囚われた。
(ああ、私、もう、明日から古本屋じゃないんだな)
肩をすぼめて帰宅し、タキにLINEしたいなとスマホを握ったけれど、その前にツイッターで最後の挨拶をしようと、月並みな文面で感謝の言葉を投稿した。
そのままツイッターを閉じようとした、ら。
『朝霧さん、これで終わりじゃないよね』
この頃感染防止の為に、外出を控えているという常連の高齢の男性から、リプが届いていた。
『宅配でも古本屋を続けて貰える事、本好きの1人として嬉しく思います。また買わせて下さい。昔おまけで付けてくれた自筆の太陽の絵のしおり、今も大切に使っています。また良かったら付けて下さい。そしたら沢山買うよ(笑)。
またいつの日か、生きて会いましょう。どうかお元気で』
その閉店の投稿には数百の「いいね」を貰い、リプは次の日も一日中続いた。さゆは作業の合間を縫って、返信を打ち続けた。全部宝物にしておきたいメッセージだった。
そして思ったのだ。
(ああ、私)
いつか、また。
自分の古本屋をやりたい、と。
「おはよう」
さゆが目を覚ますと、隣で眠っていたはずのタキは、もう支度を始めていた。さゆは時計を見る。七時過ぎ。
「早いね」
「パートさん達が来る前に、今日の段取りを決めないといけないからね」
タキは明らかにげっそりとしていて、足取りもフラフラだ。朝食も摂っていない。
「タキ、ご飯は?」
「時間ないから良いや。薬は飲んでるから大丈夫」
タキは急いで着替えると、さゆを見ずに足早にドアへ向かい、「行ってきます」と言い残して出ていった。
二千二十年、四月。新しい年度が、新しい暮らしが始まっていた。
都会の喧騒とタキの匂いの中で、さゆは毛布に包まって身を起こす。目覚めたルークが鳴くので、抱き上げるとさゆにスリスリする。もう、ずっと、ここ半月位、こんな毎日だ。タキは学校が休校になった影響で、工場の受注が爆発的に増え、週七日で働く事も多いそうだ。たまの休みの日はひたすら寝ている。顔色も白く、とても具合が悪そうだ。
(タキ、ずっとそのペースでは働けないんじゃないの?)
二人の会話はほとんどない。今のタキには、前と違う張り詰めた何かがあった。
(何か、思ってたのと違うなあ)
初めての同棲で、どこかドラマみたいな甘い毎日を期待していたのだけれど。実際は、ひたすら生活に追われているだけの日々だ。さゆは自転車で片道一時間のマスク工場で、運よく派遣の仕事を見つけ、週三日ほどはそこで働けていた。他の時間は、家事やネット古書店、そしてライターの業務に当てている。ルークがいるので、タキのアパートには絵の具ではなく、野分から貰った色鉛筆だけを持って来ていた。
ミャアミャアと話すルークを撫でると、膝の上で丸まった。
「ふふ。私も二度寝しちゃおうかな」
今日は派遣の仕事はない。後でネット古書店の発送をしなきゃな、と残してある店のSNSを開く。在宅している人が多い為か、かつての常連達から頻繁にメッセージを貰えるのが有難かった。注文も毎日数冊は入る。目ぼしい本はタキの本棚の横に、ルークが触れない様に大きな箱を幾つか買って保管している。
流れてゆくメッセージを読みながら、ふわふわのルークを撫でる。
(私たち、どうなってしまうんだろうな)
とふと、不安がまた、胸を掠めた。
店は、三月末で無事に閉じられた。後は、撤去工事の立会いぐらいだ。なんだかんだで本は徐々に売れ、最後の週はほとんど商品も無くなり、古本屋というよりも、さゆの絵画制作を見たり、絵を買ったりしてお布施をする店になっていた。
『朝霧さん、有名な実業家のお陰もあって、現代アートが今人気なの、御存知ですよね?ユーチューブでライブペイントとか、フリマアプリで作品販売とか、朝霧さんならきっと上手く行きますよ。大変な時ですが、僕は朝霧さんに、画家として生き残って欲しいです』
SNSでのその書き込みを見て、店の様子を試しにスマホでライブ中継したら、意外と評判が良かった。ネットやキャッシュレス決済は、こんな時本当に有難い。どこからでも、小額でも支援をして貰える。
閉店を決めてから一ヶ月は、本当に絶望と不安に苛まれたけれど、少しづつ、少しづつ、新しい道が見えようとしていた。
それでも。
「朝霧さん、色々落ち着いたら、また立川に来てよ。ウチの商店街も、もうシャッター商店街寸前だから、きっと物件も空いてるよ。安く借りられるよう、自分からもお願いするから」
最後に理事長にそう言われ、静かに明かりの消えた店に佇んだ時、さゆはなんとも言えない寂寞とした想いに囚われた。
(ああ、私、もう、明日から古本屋じゃないんだな)
肩をすぼめて帰宅し、タキにLINEしたいなとスマホを握ったけれど、その前にツイッターで最後の挨拶をしようと、月並みな文面で感謝の言葉を投稿した。
そのままツイッターを閉じようとした、ら。
『朝霧さん、これで終わりじゃないよね』
この頃感染防止の為に、外出を控えているという常連の高齢の男性から、リプが届いていた。
『宅配でも古本屋を続けて貰える事、本好きの1人として嬉しく思います。また買わせて下さい。昔おまけで付けてくれた自筆の太陽の絵のしおり、今も大切に使っています。また良かったら付けて下さい。そしたら沢山買うよ(笑)。
またいつの日か、生きて会いましょう。どうかお元気で』
その閉店の投稿には数百の「いいね」を貰い、リプは次の日も一日中続いた。さゆは作業の合間を縫って、返信を打ち続けた。全部宝物にしておきたいメッセージだった。
そして思ったのだ。
(ああ、私)
いつか、また。
自分の古本屋をやりたい、と。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる