朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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岐路

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四月中旬。花見客のほとんどいない大きな川沿いの桜が、風にゆっくりと舞っている。電車に揺られながら遠く、さゆはそれを眺めた。マスクにも大分慣れた。その日さゆは、江東区内のスタジオを訪れていた。普段はミュージシャンのライブを行うスタジオだが、今は臨時休業している。
 ネットで見て問い合わせると、ここでさゆがライブペインティングする模様を、生配信させてくれるという。しかも格安でだ。配信は全くの未経験だが、気さくな若い店主と話し、さゆの心は決まった。
(やってみよう)
 機材の貸し出しはあるものの、家のオンボロパソコンでどこまで出来るか分からないけれど、立ち止まっていても仕方ない。
(今は、空いた時間を利用して、出来る事なんでもやってみよう)
 そう思えるのは、独りではないからかも知れない。
 もう、描きたい題材は決まっている。
 桜だ。
 鮮やかな、希望の桜を描きたいと思った。昔描いたものより、もっとずっと大きなキャンバスで。
 軽い足取りで地下からの階段を上がる。
(あ、ルークのフード、終わりそうだったな)
 そう思っていると、電話が鳴った。
「?」
 都内の見知らぬ番号からだ。
「あ、はい、もしもし」
 電話の相手は、タキの会社の人だった。
『あの、すみません、榎本さんね、具合が悪くなって・・・ちょっと倒れちゃったんですよ。緊急連絡先がそちらになっていたんでね、ご連絡差し上げまして。それで、今から言う病院に来れそうですかね?』
 確か、タキと暮し始めてすぐに、会社の緊急連絡先をさゆにしていいか聞かれた気がする。本当は親族のみだけれど、タキの事情を知っている上司がそれでも良いと言ってくれたらしい。
(でも、そんなすぐに電話が来るなんて)
 病院名と住所を、クロッキー帳に鉛筆で書く。文字が震える。
(どうしよう)
 電話を切り、グーグルマップで病院までの交通手段を調べる。
(私、どうしよう)

 受付でタキの居場所を聞くと、どこかに電話をした後、二階の奥の廊下にいると告げられた。ごめんなさいね、今ベッドが空いていなくて、と事務員は申し訳なさそうに言う。
 さゆは泣きそうになりながら、二階への階段を駆け上がった。
(あ)
 廊下の隅に見慣れた人影が横たわっている。
「タキ」
 タキは見た事のない作業着姿だった。眼を閉じて、横に跪いて呼びかけても返事がない。点滴がポタポタとしたたり落ちていた。さゆはそのまま呆然と、冷たい床に座り込んだ。
(もし、タキが働けなくなったら)
 間違いなく自分達の生活は破綻する。
「朝霧さんですか?」
 その時、医師に声を掛けられた。
「榎本さんから、病状をお話しても良いとの事でしたので」
 医師に促されて、さゆは少し離れた診察室に入った。

 タキの診断は、過労だった。ただ、腎臓の数値が悪化しているので、無理は禁物と釘を刺された。
「ごめんね」
 帰りはなけなしのお金でタクシーに乗った。タキはずっと気持ちが悪そうで、瞳を閉じてドアに寄り掛かった。前もこんな風に、タキにタクシーの中で謝られたなと、運転席と後部座席との透明な仕切りを見ながら、さゆは思い出す。
 もう、世界が変わってしまう前の全部が、ずっと昔の事みたいだ。
 タクシーを下りると、タキを支えながらゆっくり二人で階段を登り、同棲を始めた時に貰ったさゆの合鍵で、ドアを開ける。ただごとではない雰囲気を察したルークが、鳴きながら足元に絡みついた。
「ルーク、大丈夫だから、ちょっと待ってね」
 自分でも何が大丈夫か分からないままさゆはそう言って、タキをベッドに転がした。
「あ・・・俺・・・会社にLINE・・・」
 タキがそう呟くので、さゆはタキの鞄から、スマフォを出して渡してやる。タキは眩暈に苦しみながらも、なんとか会社とやりとりをする。
「ひとまず明後日まで休みだって・・・」
「うん、休んだ方が良いよ。タキ、この頃大変そうだったもん」
「・・・でも、俺は・・・他のまっとうな社会人みたいに・・・頑張りたかったんだよ・・・」
 タキは右腕を瞳の上に翳した。さゆは掛ける言葉もなく、しばらくしてから、
「・・・着替え、手伝おうか?パジャマ着た方が良いよ」
 と声を掛けた。ルークは動揺が収まらないようで、床に伏せて低く鳴き続けている。
 二人で四苦八苦してなんとかタキにパジャマを着せた。タキに薬を飲ませると、「ありがとう」と掠れた声で呟いて、そのまま眠りについた。
(痩せたな、タキ)
 改めて見ると、一時少しだけふっくらしていたのに、今のタキはひたすらに顔色が白く、痩せこけていた。肌もカサカサしている。さゆはタキの頬にそっと触れた。
「ルーク、びっくりしたね。もう大丈夫だからね」
 さゆがルークを呼ぶと、ルークは走ってきて、体当たりするようにさゆに身体をこすりつける。その背を撫でながら、夕陽の中でさゆは考えた。
 もし、働けるのが自分ひとりになったら。どんな仕事でもしなきゃいけなくなるんだろうか。
 タキと、ルークのために。

 そのままタキは次の日の昼まで眠り続けた。タキを抱き締めてさゆも眠り、ルークは二人の枕元で丸まった。さゆは今日もバイトが休みで良かったと思いつつ、通販の発送とスーパーへ食材を買出しに出掛けた。
「あ、おかえり」
 さゆが帰ると、タキは横になったままで、眼を開けている。
「タキ!気分は?」
 さゆはコートに慌てて除菌スプレーを吹きかける。
「うん、昨日より大分良い。明後日からはきっと、出勤出来るよ」
「・・・うん」
 さゆは複雑な気分で頷くと、そのまま部屋着に着替え、料理を始めた。
「ありがとう、嬉しいなあ」
(あ)
 その眼を細めて微笑むタキの雰囲気が、久々に柔らかくて、さゆは昔のタキが戻って来た気がして、とても嬉しかった。
「ご飯何にしようか、すごく迷ったんだけどね。大根と豚肉を柔らかく煮込んだのとかにしようかなって・・・」
「いいね。すごく美味しそう」
 塩分とたんぱく質、そしてカリウムまで制限されるタキの料理は、初心者の自分には難しい。それでもネットを見ながらさゆはなんとか、野菜と肉、そして少量の豆腐を使った料理を作った。豚肉を煮込んでいる間、タキの横に座って、ルークを撫でながらタキのスマフォで美術館の動画や野分の動画を観た。ルークが喉を鳴らす。その瞬間だけは、平和そのものだった。
 今、自分達や世界を取り巻く嵐など、全て嘘のような昼下がりだった。
 やがて昼食が出来ると、タキはベッドからゆっくり起き上がった。
「気持ち悪さ、大分収まって来たみたい」
「良かった」
 二人で本当に久々に、ゆっくりご飯を食べた。タキはさゆが少しづつ盛った料理を、どれも「美味しいね」と言いながら平らげた。ルークがタキの膝の上からどうしてもどきたくない素振りを見せるので、膝の横にキャットフードの皿を持って来た。
「ルーク、心配掛けたね、ありがとうね」
 ルークを撫でながら、まるで二人は昨日までもそうだったように、他愛ない会話をした。ネット上では各地の動物園や水族園、美術館が公式でも個人でも多数の動画を公開していて、タキは「もっと時間があったら観たいのが沢山あるね」と残念そうだった。
 さゆが片付けをする間、タキはシャワーを浴びる。出てくるとそのまま、もう一度横になった。
「ありがとう、さゆ。もうちょっと眠らせて」
「うん」
 さゆは返事をしながら、スケッチブックを取り出した。今日は、ライブペインティングの下書きをしようと思っていた。
「さゆ」
「ん?」
「ここで描いてよ。俺、寝てるけど」
 タキがベッドの端に寄り、自分の横をぽんぽんと叩いた。さゆは少し照れながら、ベッドに座り込む。タキの右手が、さゆの左手を捕まえる。そのままタキは瞳を閉じた。
 アパートにタキの寝息とさゆの鉛筆の音、ルークの遊ぶ足音が響いた。


 音の無い何かに、ずっと締め付けられているような朝が、そしてまたやって来た。午前六時。今年の東京には絶え間なく、通低音の様な緊張感が漂っている。
(今日は仕事、行かなきゃな)
 工場の派遣の仕事は販売とまた勝手が違って、忙しくて大変だ。そう言えば、古本の仕入れの為に市場に行く日程も決めないと、と思っていた、ら。
「おはよう、さゆ」
「タキ、起きてたの?」
 タキは眼を細めてさゆの髪を優しく撫でる。さゆはタキにしがみついた。薄いTシャツ越しに、タキの骨ばった身体の感触を噛み締めた。
「心配掛けてごめんね。もう大丈夫だから」
「・・・でも、無理しないでね。タキが働けなくなったら私・・・」
「うん、もうちょっとだけ頑張ってみるよ。やっぱり正社員にはなりたいし」
 タキの決意は固く、さゆはもう何も言えずに沈黙した。
「さゆ。俺、出来たらさゆに、絵を描くだけの暮らしをさせてあげたいって思ってる。さゆとルークに、楽な暮らしをさせてあげたい」
 タキは一言一言ゆっくりとそう口にする。
「さゆとルークは、俺のすべてだ」
「・・・ありがとう、タキ」
 さゆは不安と感謝からなんだか泣けて来て、タキの胸に顔を埋める。
「ずっと、これ、いつ渡そうかって思ってたんだけど・・・」
「え?」
 タキが身体を起こして、ベッドサイドの引き出しを開ける。
 タキが取り出したのは、小さな紙の箱だった。お洒落なロゴが印刷されている。
(まさか)
「さゆ、受け取って貰える?」
 箱の中には―――――――――金色のシンプルなペアリング。
「あ、あ、あ、うん」
 反射的にさゆは頷いてしまってから、それってどういう意味だろう、と混乱した頭で考えた。
(ゆ、ゆ、指輪って)
「ありがとう。俺、すごい嬉しい」
 タキが朝陽の差す部屋で、起き上がったさゆの、右手の薬指に、ゆっくり指輪を嵌めた。さゆもタキの右手を取って、見よう見まねで指輪を嵌めてみる。
「ごめんね、安物で。本当は、もっと良いの買いたかったんだけど」
「ううん」
「さゆ、この前の話、考えてくれた?」
「え?」
「結婚の話」
「あ、あ、え、えと」
 展開が急すぎて頭がついていかない。結婚については、毎日が忙しいのと、未だに自分から遠すぎるので全く考えていなかった。
「・・・俺ね。自分から言い出しといて何だけど、ここ数日、考えてみたんだ。さゆがもし、今、俺と結婚したいと思ってくれるなら、俺は入籍したい。でも、ちょっと考えたいって事なら、やっぱり無理して今結婚しない方がいいかなって。どう?」
「あ、私・・・正直、分からない。タキの事はすごく好きだけど・・・結婚とか・・・現実感もないし・・・あんまり、結婚に良い印象なくて」
 自分の見てきた結婚は、どうしようもない地獄だった。
「そっか。じゃあ今入籍しない方が良いね・・・俺、考えたんだけど。どちらかが入院したりして、その生活費とか医療費とか賄えなくなるまでっていう約束で、出来るだけ長く、俺達、一緒にいよう?生活費も上手く分担して。できれば、あと、五十年とか。俺は子供はいらないし。さゆも子供はいいよね?」
「うん、いらないかな」
「じゃあきっとそれが、俺達らしいと思う」
「・・・うん、私もそうしたい」
 タキやルークと長く一緒にいたいと思えるのは本当だった。
「それでこの先、必要になったら、事実婚しても良いし」
「?うん?」
 事実婚、とは何か、この時のさゆは知らなかった。
 タキはさゆをぎゅっと抱き締めた。愛してる、という吐息の様な声が耳元で聞こえた。
 その声は、少し震えていた。
 不安と幸せのあざなえる縄に絡め取られながら。さゆには、この後自分達を待っているのは、幸福な暮らしなのか破滅なのか、まだ、分からなかった。
 

 

 
 


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