26 / 68
地獄の釜の、入口で
しおりを挟む
大きなキャンバスに、さゆは幾重にも幾重にも、炎の色を塗り重ねる。薄い紅から濃い紅へ。そして紫、茶色へと。巨大な炎の流星群が、灰色の惑星に降り注いでゆく。
まるで、火の雨の様に全てを破壊してゆく。そんな絵をここ数日、さゆは描き続けていた。いつもと違うのは、ここが自宅ではなく、立川の店舗だという事だ。
二千二十年二月中旬。お客様が来ない。ほとんど来ない。街も、見た事のないほど、人の数が少ない。SNSで商品の入荷などを告知すると、常連客からリプは付くけれど、申し訳なさそうに「落ち着いたら欲しい」と言われるばかりだ。タキと以前UPしたネット通販の売上げと、エッセイなどの原稿料があるので、収入はゼロとは言えないけれど、このままでは赤字だ。古本市は軒並み中止になり始めていた。
さゆはネットで見つけた日雇い派遣の仕事も始めた。工場やスーパーなどのイベントの手伝いの仕事だ。それでも、厳しい。銀座の画廊のオーナーからも、「都心もガラガラだよ。毎日正月みたいだ」と連絡が来ていた。
さゆは手が空けば無心で絵を描く。やり場のない怒りと、哀しみと、不安を乗せて。両手を広げるよりも大きいキャンバスに、幾千の火の球を描く。喚起の為に開け放った扉の向こうから、時々通行人がそれを見学していた。
「あ、コーヒー、無料です。召し上がっていきませんか?」
とさゆが呼びかけると、
「いや、このご時勢だから大丈夫」
と、見学していた人々は散っていった。さゆは小さく、溜息を吐いた。
本当は今月がちょうど店の賃貸の更新日だけれど、不動産屋は特例として、来月まで更新するか良く考えて欲しいと言われた。一度契約したら、数年は店を続けないと、確実に多額の借金になる。
もし緊急事態宣言が出たら、商店街のほとんどの店は、一旦閉める事が決まった。百貨店も画廊も、臨時休業する可能性が、出て来た。公的な保証は不透明だ。
長い長い苦闘の果てに、あっけない終わりが、見えそうな気が、していた。
(きっとこの店は、五月までは持たない)
誰もいない店内で、さゆはもくもくと筆を動かし続ける。自分が古本屋でいられる残り日数のカウントダウンが、始まる。
不気味に静かな日々は、そうしてゆっくりと、真綿で首を絞めるように過ぎて行った。タキには今月になってから、ずっと会えていない。時々LINEをしていた。タキは今月になってから、仕事がとても忙しくなり、夜勤も増えたようだ。休みは週に一日程度、それも家で色々勉強しなくてはいけないと、LINEには書かれていた。
二月二十一日、金曜日。さゆは昼間、店を臨時休業にして、昭和記念公園へ出掛けた。タキとここへ来たのは、もう随分昔の事のように思える。何枚も何枚も、美しい花の写真を撮った。セツブンソウ、ウメ、大輪緋梅、フクジュソウ。ポカポカした、春の様な陽気の中で、可憐な花が咲いていた。おしるこの缶を飲みつつ、さゆは写真をたっぷりと撮り、持って来た数本の色鉛筆で、園内の様子をスケッチした。途中声を掛けられた親子連れに、似顔絵を描いて渡す。
独りそっと、曇りの無い青空を見上げた。LINEが鳴ったので開く。
湊からだ。
(そんな)
湊は失業した事と、国境が閉ざされる前に、なんとしても中国に渡る旨が書かれていた。迷った末にさゆは、「頑張ってね。無事でいてね」とだけ送る。戦時中みたいなメッセージだ。世の中が段々、そんな風になって来ているのを、感じる。
来年の今頃、自分は。
どこで、何をしているんだろう。
夕方、帰って来て店を開く。タキに撮り溜めた花の写真を何枚か送ったが、きっと既読が付くのは真夜中だ。さゆは苦笑した。
(何してるんだろうな、私。本当はもっと、するべき事があるんだろうに)
今日は、自分の、誕生日だ。去年はタキとテーマパークへ行った。
さゆはもうどうしようもなくさみしくなって、堪えきれないほどのさみしさが溢れて、店のカウンターの中で、俯いた。背後にはほぼ完成した炎の絵がある。
その時。
「朝霧さん、こんばんは。お邪魔するよ」
商店街の理事長と、何人かの店主が店に入って来た。さゆは何事だろうとカウンターから出ようとする。
「ああ、朝霧さん。いいんだよ。忙しいだろうから、事務とかしてて。大丈夫だから」
理事長はさゆにそう言うと、他の好々爺達と「いや、これが面白いんだよ」「これ孫に良いね」「これ前から気になってたんだよね」と口々に話して、カゴ三つを商品で一杯にしてゆく。
「朝霧さん、これ、みんな買うから計算お願いするね。また後で取りにくるから」
「え、あ、あ、そんな悪いですよ」
「いいんだ、いいんだ。本はね、心の財産になるからね」
「あ、ありがとうございます」
さゆは何度もお礼を言い、頭を下げた。
「朝霧さん、古本屋、ネットだけになってでも続けてよ。この騒ぎも、きっとずっとは続かないよ。いつかまた、立川にも賑わいの戻る日が来る。その街に、朝霧さんの絵を、飾ってよ」
さゆは頷いた。立川に来て良かったと、思っていた。
まるで、火の雨の様に全てを破壊してゆく。そんな絵をここ数日、さゆは描き続けていた。いつもと違うのは、ここが自宅ではなく、立川の店舗だという事だ。
二千二十年二月中旬。お客様が来ない。ほとんど来ない。街も、見た事のないほど、人の数が少ない。SNSで商品の入荷などを告知すると、常連客からリプは付くけれど、申し訳なさそうに「落ち着いたら欲しい」と言われるばかりだ。タキと以前UPしたネット通販の売上げと、エッセイなどの原稿料があるので、収入はゼロとは言えないけれど、このままでは赤字だ。古本市は軒並み中止になり始めていた。
さゆはネットで見つけた日雇い派遣の仕事も始めた。工場やスーパーなどのイベントの手伝いの仕事だ。それでも、厳しい。銀座の画廊のオーナーからも、「都心もガラガラだよ。毎日正月みたいだ」と連絡が来ていた。
さゆは手が空けば無心で絵を描く。やり場のない怒りと、哀しみと、不安を乗せて。両手を広げるよりも大きいキャンバスに、幾千の火の球を描く。喚起の為に開け放った扉の向こうから、時々通行人がそれを見学していた。
「あ、コーヒー、無料です。召し上がっていきませんか?」
とさゆが呼びかけると、
「いや、このご時勢だから大丈夫」
と、見学していた人々は散っていった。さゆは小さく、溜息を吐いた。
本当は今月がちょうど店の賃貸の更新日だけれど、不動産屋は特例として、来月まで更新するか良く考えて欲しいと言われた。一度契約したら、数年は店を続けないと、確実に多額の借金になる。
もし緊急事態宣言が出たら、商店街のほとんどの店は、一旦閉める事が決まった。百貨店も画廊も、臨時休業する可能性が、出て来た。公的な保証は不透明だ。
長い長い苦闘の果てに、あっけない終わりが、見えそうな気が、していた。
(きっとこの店は、五月までは持たない)
誰もいない店内で、さゆはもくもくと筆を動かし続ける。自分が古本屋でいられる残り日数のカウントダウンが、始まる。
不気味に静かな日々は、そうしてゆっくりと、真綿で首を絞めるように過ぎて行った。タキには今月になってから、ずっと会えていない。時々LINEをしていた。タキは今月になってから、仕事がとても忙しくなり、夜勤も増えたようだ。休みは週に一日程度、それも家で色々勉強しなくてはいけないと、LINEには書かれていた。
二月二十一日、金曜日。さゆは昼間、店を臨時休業にして、昭和記念公園へ出掛けた。タキとここへ来たのは、もう随分昔の事のように思える。何枚も何枚も、美しい花の写真を撮った。セツブンソウ、ウメ、大輪緋梅、フクジュソウ。ポカポカした、春の様な陽気の中で、可憐な花が咲いていた。おしるこの缶を飲みつつ、さゆは写真をたっぷりと撮り、持って来た数本の色鉛筆で、園内の様子をスケッチした。途中声を掛けられた親子連れに、似顔絵を描いて渡す。
独りそっと、曇りの無い青空を見上げた。LINEが鳴ったので開く。
湊からだ。
(そんな)
湊は失業した事と、国境が閉ざされる前に、なんとしても中国に渡る旨が書かれていた。迷った末にさゆは、「頑張ってね。無事でいてね」とだけ送る。戦時中みたいなメッセージだ。世の中が段々、そんな風になって来ているのを、感じる。
来年の今頃、自分は。
どこで、何をしているんだろう。
夕方、帰って来て店を開く。タキに撮り溜めた花の写真を何枚か送ったが、きっと既読が付くのは真夜中だ。さゆは苦笑した。
(何してるんだろうな、私。本当はもっと、するべき事があるんだろうに)
今日は、自分の、誕生日だ。去年はタキとテーマパークへ行った。
さゆはもうどうしようもなくさみしくなって、堪えきれないほどのさみしさが溢れて、店のカウンターの中で、俯いた。背後にはほぼ完成した炎の絵がある。
その時。
「朝霧さん、こんばんは。お邪魔するよ」
商店街の理事長と、何人かの店主が店に入って来た。さゆは何事だろうとカウンターから出ようとする。
「ああ、朝霧さん。いいんだよ。忙しいだろうから、事務とかしてて。大丈夫だから」
理事長はさゆにそう言うと、他の好々爺達と「いや、これが面白いんだよ」「これ孫に良いね」「これ前から気になってたんだよね」と口々に話して、カゴ三つを商品で一杯にしてゆく。
「朝霧さん、これ、みんな買うから計算お願いするね。また後で取りにくるから」
「え、あ、あ、そんな悪いですよ」
「いいんだ、いいんだ。本はね、心の財産になるからね」
「あ、ありがとうございます」
さゆは何度もお礼を言い、頭を下げた。
「朝霧さん、古本屋、ネットだけになってでも続けてよ。この騒ぎも、きっとずっとは続かないよ。いつかまた、立川にも賑わいの戻る日が来る。その街に、朝霧さんの絵を、飾ってよ」
さゆは頷いた。立川に来て良かったと、思っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる