朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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そして、ふたりは

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その日は鈍い色の雲が空を覆い、ぬるい風が頬を撫でる、五月の中旬だった。桜は散ってしまったけれど、前日に降った雨の粒が、新緑の上で小さく、光っている。
 朝、タキが朝食中に「今日は仕事、休みだから俺もイベントを手伝うよ」と急に申し出てくれた。身体の為に、休んだ方が良いんじゃないか、とも思ったけれど・・・。
(出来るだけ、タキが好きな事をしていた方が良いかもね)
 結局、今の無理をしないぎりぎりの状態のシフトでは、タキはもう正社員になるのは難しいらしい。けれど、転職も非常に厳しいのはきっと、タキ自身が一番感じている。決してさゆには当たって来ないけれど、タキの焦燥や鬱々としたやるせなさを、傍にいるさゆも痛感していた。
(世の中が落ち着いて、私がまた古本屋になったら。そしたら昔みたいに手伝ってくれたら、私はそれだけでもう、満足だけどな)
 タキの自分達を養ってくれようとする気持ちは嬉しいけれど、さゆ自身は夫の扶養になりたいとは思わない。自分の好きなように、自分の人生を切り開いてゆきたい。
 両思いで、ただ一緒に生きてゆきたいだけなのに、どうして私たちは、こんなに、擦れ違ってしまうんだろう。
 隣を歩くタキは、重い画材を持って、マスクと帽子と眼鏡を付けて、少し俯いて歩いている。さゆは荷物を左手で持って、右手をタキの左手と絡ませた。
 タキは微かに、苦笑いするような表情を、浮かべた。

「どうも、よろしくお願い致します」
 約束の時間より少し前に着くと、店はもう空いていて、柄シャツを着た店主がクシャッと顔を綻ばせて二人を出迎えた。機材も既にスタンバイしてある。
(すごい。なんか、スタジオみたいだ)
 ステージにスポットライトが当たっていて、眩しい。配信開始まであと一時間半。タキに様々な作業をお願いしながら、さゆも画材やパソコンの設定を四苦八苦しながらこなした。配信開始二十分前になんとか準備を終えて、二人がほっと一息つくと、店主がグラスに入ったお茶を持って来てくれた。
「ああ、ありがとうございます」
「遠慮せず、沢山飲んで下さい。・・・実は、再来月で店を閉めようかと思っていて」
「ええ!?そうなんですか?」
「もしかしたら協力金が出るかも知れないんですけどね。この騒ぎがいつまで続くか分からないし。借金がかさむ前にと思いましてね」
 そこからしばらく、さゆが古本屋だとネットで見ていた店主と、店舗経営の難しさや思い出話で盛り上がった。タキは少し離れた所で、眼鏡をしたまま静かにお茶を飲んでいる。
顔バレするのを警戒しているのかな、とさゆは思った。

「みなさん、こんにちは。朝霧紗雪です。今日はみんなと、大きな思い出のさくらの絵を描きたいなと思っています」
 そうして配信が始まった。さゆは緊張で時々どもりながらも、アパートでリハーサルした通りに、さくらの絵をステージ一杯に広げたキャンバスへ描いてゆく。濃く、薄く鮮やかな花びらの描き方を、分かり易く解説しながら描いてみせると、コメント欄は「自分も出来た」「楽しい」というキッズと保護者の声が流れた。数人しか観てくれないかもと思っていたけれど、なんと五十人以上の方がリアルタイムで視聴している。攻撃的なコメントが入ったらタキが対応する手筈になっていたが、それも心配なさそうだ。
 一時間半かけて描いたのは、太い幹の、はなびらの吹雪が舞う、さくらの樹だった。いつもよりも抽象画に近い。その周りに、百貨店でさゆの絵を観たという方のリクエストに答えて、三日月も描いた。動き過ぎて息が上がりながら、「みんな、来年は、色んな事が良くなって、さくらをゆっくり眺められたら嬉しいね」と呼び掛けて配信は終わった。
店主から拍手が起こる。
(お、終わった・・・)
 疲労困憊になりながら、片付けを始める。さくらの絵は、お店にプレゼントする事になっていた。タキも手際よくパソコンをケースに閉まっていく。
 タキがずっと、一言も発さないのが、さゆは気にかかっていた。

「ふふ、配信だけだと赤字だけど、グッズの注文も入り始めてるね。LINEのアイコンとか、メッセージカードとか。それ全部考えると、やっぱり配信して良かったなあ。続けて行きたい」
 帰り道、さゆはイベントを無事終えて、少し興奮していた。今後していきたい事、描きたい絵について話し続けるさゆを、タキはなんだか浮かない顔で、上の空で頷いている。
(タキ、疲れたのかな?)
「・・・なんかさ、仲良さそうだったよね」
「へ?」
 何の事だか分からない。
「店主とさ。すごい話してたよね」
 低い声でタキは重ねてそう言う。アパートまでもう少しだ。夕方、通行人はまばらな細い道だった。
「そ、それは、仕事を円滑にする為のコミュニケーションだよ。タキだって会社のひとと雑談位するでしょ?」
「俺には、そういう感じには見えなかったけど」
「あの店はもう閉店するんだよ。多分、あの店主とはもう会わないよ」
「・・・・」
 タキはそれきり、言葉を発しなかった。さゆは何だか身体が重い気がして、それきり弁明する気力もなく、下を向いて歩いた。
(どうしちゃったの、タキ・・・)
 こんなタキは知らない。タキはいつも、優しくて思慮深くて、こんな浅はかな嫉妬を向けてくるような人では無かったはずだ。
(あ、あ、どうしよう。アパートに帰るの怖い)
 タキはきっと、精神面での不調をきたし始めている。さゆはそれを自覚して、もう逃げ出したかったけれど、画材などの荷物は、タキが持っている。少し身体を震わせながら、二人とも押し黙ったまま、アパートの階段を登った。
「や、やだ!」
 アパートの鍵を閉め、荷物を床に下ろすと、タキはさゆの手首を掴んだ。強い力だった。それに驚いてさゆは、大きな声を出す。ルークも部屋の隅に逃げ込み、瞳を真ん丸にして二人を見た。
「や、や、やだ!タキ、怖い、離して!!怖い!!」
 悲鳴を上げるさゆを、タキは無言でベッドまで引き摺る。さゆは手首を振りほどこうともがいたけれど、びくともしなかった。そのままベッドに放り投げられる。
「や、嫌だ!!離して!!助けて、助けて!!」
 伸し掛かってくるタキが怖くて、さゆは手を振り回した。平手がタキの顔に当たったけれど、タキは何も言わずさゆの服を乱暴に剥ぎ取った。ボタンが弾け飛ぶ。
「うわああ、嫌だ!嫌だ!タキ、なんでこんな事するの!ひどいよ!!」
 タキは自分の服を脱ぎながら、キスをしてくるけれど、さゆは気持ち悪く感じるだけだった。そのままタキは、強い力でさゆの脚を広げる。
「あ・・・・・痛い!痛い、痛い!!いやああ!!」
 乾いたままの膣に、無理矢理挿入されるあまりの痛みにさゆはシーツを掴んで泣き出した。身体全部が震えて、浅い呼吸を繰り返した。
「・・・やだ・・・助けて・・・いたい・・・いたいよ・・・」
 しばらく腰を打ちつけていたタキは、さゆの泣き声に、我に返ったように動きを止めた。
「・・・俺、何して・・・ごめん、ごめんね・・・」
 グチュッという音がして性器は抜け、静かになった部屋に、さゆの泣き声だけが響いた。
「・・・こんな事されるなら、私はもう無理。無理だよ」
 しばらくして、さゆは腰の痛みに呻きながら、上体を起こして、服を掻き集めた。「ごめんね」とこちらを見ずに言うタキに構わず、指輪を外してテーブルに置き、服を着る。
「わたしは、もう、タキは無理。・・・・・今まで、ありがとう」
 ルークの名前を呼ぶと、怯えた様子で走り寄ってくる。ひと撫でして、「ルーク、お別れだよ。元気でね」と言うと、さゆを見上げて寂しそうに鳴いた。
「さゆ、待って」
 裸のまま項垂れてそう言うタキを一瞥もせず、さゆは持てるだけの荷物を掴み、「本とか、また、取りに来るから」と小さく言って、アパートを出た。
 暗くなった、見知った夜道を泣きながら歩いた。もう、二度とタキに会う事はない。そんな予感がしていた。
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