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その物語の続きは
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さゆとタキは、早春の若宮大路にそっと二人、佇んでいた。昼間の鶴岡八幡宮の段葛は、人の行き来が多いけれど、さゆは今は、それを気にする素振りは見せなかった。
ピンクの薄い花弁が、海風に乗ってはらはらと散っている。鎌倉という土地の、歴史の奥にある、血生臭さや儚さを象徴するような、早咲きのこの桜は、「玉縄桜」という鎌倉発祥の桜だと、近所の人が教えてくれた。さゆはその花びらを一枚、手のひらにそっと乗せる。タキはそんなさゆと桜をスマフォで撮り、待ち受けにした。
遂に、三月が来た。自分達を探しているかと心配していた義父らの影は、今の所微塵もない。さゆのAVが世の中に出回ってしまう事もタキは密かに気を揉んでいたけれど、タキが調べられた範囲ではそれも無かった。さゆは時々休みながらも、なんとか工場のバイトに出勤している。とても人不足で忙しそうだ。それでも、体調の良い日は、六時間働けるようになった。
五万円、もし五万円今月さゆが稼げれば、なんとか借金無しで月を越せる。
さゆは愚痴を言わない。けれど、相当に無理をして働いてくれているのは、タキにも分かっていた。タキももう、くたくただ。さゆの誕生日も、何も祝わないでしまった。ストレスが酷い時は、ルークを吸って深呼吸している。それでもなんとか、「暮らしていけるんじゃないか」という微かな希望が、この頃見えるような気がしていた。
それはきっとさゆの、前向きさによる所が大きい。
(そうだな、これが、さゆだったな)
彼女はネット通販や配信、グッズ製作など、きっと自分と出会う前からも、色んな事にくじけずに、ひとりで、チャレンジして来たのだろうな、と思う。そしてさゆ自身が築いた人脈や作品に、今回自分も助けられた。
どんなに絶望しても、最後には人生を諦めない。それはきっと、さゆの強さだ。
「タキ。帰りにレンバイで野菜買って、夜ご飯にしようよ」
今日はもしかしたら今月唯一の、二人とも休みの日だ。三十七歳。いつの間にかさゆと出会った頃の、タキの年齢を越えた彼女が、ふわっと微笑んでそう言った。
その日は煮たキャベツと白米だけの質素な夜ご飯を、ひさびさにゆっくりと二人で食べた。電気代を節約したいので、早めに床に就く。ルークはさゆの布団に潜り込んだ。
いつもの事だけれど、タキは横になっても数時間は眠れないので、楠木に渡す予定の文章をまた、推敲している。さゆとの出会いから、時系列に添って、さゆの物語と対になるように書かれた、「物語」と呼べるかも分からないこの文章は、いつの間にか五万字を越えている。
落ち着いたら楠木に連絡してみようと、思う。そして、タキがこの文章を書いたのには、実は別の目的もあった。
タキは真っ暗な部屋の中、ベッドに横たわってスマホの文章を見つめる。
と。
隣の部屋から急に、つんざく様な悲鳴が聞こえた。タキは飛び起きる。
さゆだ。
「さゆ、入るよ!」
鍵の掛かっていないさゆの部屋に踏み込むと、ルークが駆け寄って来た。さゆはベッドに座り込んで、呻りながら毛布にくるまっている。
「どうした、どうしたの、さゆ」
軽く毛布の上からさゆに触れようとすると、驚いたようにさゆは身を捩じらせて奇声を挙げ、両腕を突っ張ってタキを拒絶する。そのまま大声で泣き出した。
「俺だよ、タキだよ、さゆ。大丈夫、大丈夫だから」
さゆはその場から動かず、手を振り回して言葉にならない何かを喚いている。タキはしばらく、根気強く、歯を食いしばってさゆに言葉を掛ける。実は、こんな事は、しばしばある。バイトを始めてからは、特に多い。さゆは寝入りばなに悪夢を見て、パニックになってしまうようだった。
「大丈夫だから、何も怖いことないから、ね?」
泣き続けるさゆに再び手を伸ばすと、少し我を取り戻したようなさゆは、「助けて」「嫌だ」「嫌だ!」とタキにしがみついた。タキはさゆを抱きとめて、ゆっくり背中を撫でる。
「怖かったね。もう、大丈夫だから」
その後も意味のあるような無い様な言葉をずっと口にしていたさゆは、不意に「お父さん」と言い、そのまま小さな子供の様に、しゃくり上げてぐずり続けた。さゆはタキのパジャマに額を擦り付け、パジャマは涙でぐしゃぐしゃに濡れてしまった。さゆが落ち着くまで、永遠に思えるようなその時間を、タキはさゆを抱き締めて耐えた。ルークは少し遠くで見守っていたが、さゆが少しづつ落ち着いて静かになると、ベッドに飛び乗ってさゆにスリスリし始めた。
さゆは唐突に、「もっとまともな人生が良かった」と言うと、身体から力が抜けて、静かになった。眠ったのかと思ったけれど、長い長い沈黙の後、また、急に、
「タキ・・・・ごめんね・・・・」
と言い出す。声のトーンが普通に戻っていた。タキは少し、安心する。
「良いって」
そう返してタキがさゆから離れようとすると、さゆは「このまま、今晩はここに居て」とタキを抱き締めた。タキは少し戸惑いつつ、頷く。
そのまま、暫く二人は、沈黙したまま抱き合った。
呼吸の落ち着いたさゆは、ふと、
「なんで泣いてたのか、分からなくなっちゃった」
と呟くと、眼を閉じて眠ってしまった。その顔を間近に、凍りついたように見つめながら、タキは溜息を吐く。
日常はまだ、あまりにも遠い。
ピンクの薄い花弁が、海風に乗ってはらはらと散っている。鎌倉という土地の、歴史の奥にある、血生臭さや儚さを象徴するような、早咲きのこの桜は、「玉縄桜」という鎌倉発祥の桜だと、近所の人が教えてくれた。さゆはその花びらを一枚、手のひらにそっと乗せる。タキはそんなさゆと桜をスマフォで撮り、待ち受けにした。
遂に、三月が来た。自分達を探しているかと心配していた義父らの影は、今の所微塵もない。さゆのAVが世の中に出回ってしまう事もタキは密かに気を揉んでいたけれど、タキが調べられた範囲ではそれも無かった。さゆは時々休みながらも、なんとか工場のバイトに出勤している。とても人不足で忙しそうだ。それでも、体調の良い日は、六時間働けるようになった。
五万円、もし五万円今月さゆが稼げれば、なんとか借金無しで月を越せる。
さゆは愚痴を言わない。けれど、相当に無理をして働いてくれているのは、タキにも分かっていた。タキももう、くたくただ。さゆの誕生日も、何も祝わないでしまった。ストレスが酷い時は、ルークを吸って深呼吸している。それでもなんとか、「暮らしていけるんじゃないか」という微かな希望が、この頃見えるような気がしていた。
それはきっとさゆの、前向きさによる所が大きい。
(そうだな、これが、さゆだったな)
彼女はネット通販や配信、グッズ製作など、きっと自分と出会う前からも、色んな事にくじけずに、ひとりで、チャレンジして来たのだろうな、と思う。そしてさゆ自身が築いた人脈や作品に、今回自分も助けられた。
どんなに絶望しても、最後には人生を諦めない。それはきっと、さゆの強さだ。
「タキ。帰りにレンバイで野菜買って、夜ご飯にしようよ」
今日はもしかしたら今月唯一の、二人とも休みの日だ。三十七歳。いつの間にかさゆと出会った頃の、タキの年齢を越えた彼女が、ふわっと微笑んでそう言った。
その日は煮たキャベツと白米だけの質素な夜ご飯を、ひさびさにゆっくりと二人で食べた。電気代を節約したいので、早めに床に就く。ルークはさゆの布団に潜り込んだ。
いつもの事だけれど、タキは横になっても数時間は眠れないので、楠木に渡す予定の文章をまた、推敲している。さゆとの出会いから、時系列に添って、さゆの物語と対になるように書かれた、「物語」と呼べるかも分からないこの文章は、いつの間にか五万字を越えている。
落ち着いたら楠木に連絡してみようと、思う。そして、タキがこの文章を書いたのには、実は別の目的もあった。
タキは真っ暗な部屋の中、ベッドに横たわってスマホの文章を見つめる。
と。
隣の部屋から急に、つんざく様な悲鳴が聞こえた。タキは飛び起きる。
さゆだ。
「さゆ、入るよ!」
鍵の掛かっていないさゆの部屋に踏み込むと、ルークが駆け寄って来た。さゆはベッドに座り込んで、呻りながら毛布にくるまっている。
「どうした、どうしたの、さゆ」
軽く毛布の上からさゆに触れようとすると、驚いたようにさゆは身を捩じらせて奇声を挙げ、両腕を突っ張ってタキを拒絶する。そのまま大声で泣き出した。
「俺だよ、タキだよ、さゆ。大丈夫、大丈夫だから」
さゆはその場から動かず、手を振り回して言葉にならない何かを喚いている。タキはしばらく、根気強く、歯を食いしばってさゆに言葉を掛ける。実は、こんな事は、しばしばある。バイトを始めてからは、特に多い。さゆは寝入りばなに悪夢を見て、パニックになってしまうようだった。
「大丈夫だから、何も怖いことないから、ね?」
泣き続けるさゆに再び手を伸ばすと、少し我を取り戻したようなさゆは、「助けて」「嫌だ」「嫌だ!」とタキにしがみついた。タキはさゆを抱きとめて、ゆっくり背中を撫でる。
「怖かったね。もう、大丈夫だから」
その後も意味のあるような無い様な言葉をずっと口にしていたさゆは、不意に「お父さん」と言い、そのまま小さな子供の様に、しゃくり上げてぐずり続けた。さゆはタキのパジャマに額を擦り付け、パジャマは涙でぐしゃぐしゃに濡れてしまった。さゆが落ち着くまで、永遠に思えるようなその時間を、タキはさゆを抱き締めて耐えた。ルークは少し遠くで見守っていたが、さゆが少しづつ落ち着いて静かになると、ベッドに飛び乗ってさゆにスリスリし始めた。
さゆは唐突に、「もっとまともな人生が良かった」と言うと、身体から力が抜けて、静かになった。眠ったのかと思ったけれど、長い長い沈黙の後、また、急に、
「タキ・・・・ごめんね・・・・」
と言い出す。声のトーンが普通に戻っていた。タキは少し、安心する。
「良いって」
そう返してタキがさゆから離れようとすると、さゆは「このまま、今晩はここに居て」とタキを抱き締めた。タキは少し戸惑いつつ、頷く。
そのまま、暫く二人は、沈黙したまま抱き合った。
呼吸の落ち着いたさゆは、ふと、
「なんで泣いてたのか、分からなくなっちゃった」
と呟くと、眼を閉じて眠ってしまった。その顔を間近に、凍りついたように見つめながら、タキは溜息を吐く。
日常はまだ、あまりにも遠い。
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