朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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白い二月の光

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「え、僕が開業する、っていう事ですか?」
「そうそう、それが良いんじゃないの?」
 二月初め、寒さの厳しい晴れの日。タキは仕事が休みの日に、ひとりで神保町の古書開館までやって来ていた。さゆに在宅で出来る仕事が何か無いかを探すのが目的だったけれど、以前イベントで顔見知りになった古書店主達に交換会(古書を売買する会)後に聞くと、気の良い店主達から、意外なアドバイスが飛び出した。
「ひとまず榎本君の古物商許可証も取った方が良いね。数万円掛かるけど。榎本君みたいな若いひとが古書店をしてくれると嬉しいなあ」
「・・・・」
 それは今の自分では到底、出せる金額ではない。
「ああ、朝霧さん、まだ悪いんだっけ?治療費とか大変なの?」
「そうなんです。なかなか、難しくて・・・」
 スーパー源氏の古書店開業講座も勧められたけれど、如何せん先立つものが無い。貯金はもうすぐ五桁に迫ろうとしている。
「まあ、バイトでもして貯めるしかないね」
「あ、ウチ、今度の訪問買取の同行者を探してるけど、来れそう?日当出すよ」
「お、それ良いね」
 日程が合いそうな案件が数件あり、タキは二つ返事で引き受け、お礼を言った。タキの会社でも、さゆをタキの社会保険の扶養者にしてくれると言うし、この頃とみに、周りに助けられてばかりだ。
 挨拶をして古書開館を辞したタキは、ここ半年程通っていた医院にそのまま電話をして、自身のカウンセリングをしばらく休みたい旨を申し出た。電話口の事務員には治療の継続を勧められたけれど、もう金銭的にどうしても厳しい。
 じりじりと、生活の底が、抜けようとしている。

「眠いよ、ルーク」
 数日後。タキはルークに前足で顔をくすぐられて眼が醒めた。今日は、貴重な休みだ。ルークは外を見てしきりに鳴いている。なんだろうとタキがリビングに出て箱庭を眺めると、大きな白い鳥が、霧雨の中で、羽根を休めていた。
 鎌倉という古都で、その風景には、奇妙な神聖さと、吉兆のような明るさがあった。
「ああ、ルーク。鳥さんだね」
 そう言いながらタキが撫でると、ルークは眼を細めて落ち着いたようだった。
 ルークにフードをやり、タキは水だけを飲む。さゆは今月に入ってから、朝は起きて来なくなった。食事を遠慮して、一日一食にしているせいだ。暖房を付けない鎌倉の朝は、凍えるほどに寒い。タキはコートを羽織って、洗濯機を回す。そのままもう一度、ベッドに転がり込んだ。遅れて満腹のルークもやって来る。
「・・・タキ・・・・?」
 その時タキは、ドアの外で小さく自分を呼ぶ、さゆの声に気付いた。急いでドアを開ける。
「さゆ、おはよう。早いね」
「タキ。洗濯ありがとう。あ、あのね・・・」
「?」
 さゆはパジャマのまま、スマフォをタキに見せる。なんだろうと覗き込むと、Google mapが数キロ先の地点を指している。
「今日、いらなさそうなものをね、ここに売りに行きたいの」
「いいね、俺も準備しよう。さゆはご飯を食べてて」
 さゆはバッグ二つ分の荷物を、無表情で玄関へ引っ張り出す。
 ここにはさゆにとって、本当は大切な物が詰まっているのかも知れない。
 けれどもう、今の生活には代えられない。
 さゆが豆腐とシリアルを食べている間に、タキも部屋を掻き回して不要品をまとめた。もうもともと物が無い部屋だけれど、この際、本当に必要なもの以外は、売ってしまおうと思う。
 白い鳥はいつの間にか、鎌倉の空に羽ばたいて行った。

 その日は引っ越して来て以来、最大の冒険になった。二人で水筒に白湯を入れ、マスクをして、緊張した面持ちで、大荷物を担いで家を出る。さゆは何度かスーパーへ一人でも行けるようになっていたが、数キロも歩いた事は、まだない。霧雨は止んで、雨上がりの街は静かに、昼を迎えようとしている。
「一キロ歩いたら、一回休もう。無理だったら引き返そう」
「うん!」
 ジーンズ姿の二人は、ゆっくりゆっくり、鎌倉の街を移動した。昨年よりも、街には人が戻って来ていた。営業している店も増えている。一歩一歩、踏みしめながら、少しづつ、冬の街を進んだ。公園やコンビニの脇で休むと、さゆは以前の様な極度に疲れた表情を見せなくなった。回復してゆくさゆへの嬉しさと、生活に困窮してゆく惨めさが、タキの内側に込み上げた。
「あ、あれだ!」
 さゆは嬉しそうな声を上げる。一時間少し歩いて、なんとか二人は店へ辿り着いた。
受付の店員が女性で、二人はほっとする。さゆは店員との受け答えも、つまづきながらもなんとかこなす。タキはそれを、眼を細めて見ていた。
 自分の中の、さゆへの恋愛感情が薄れ、「父性」に近い感情が芽生えているのを、感じていた。

 不要品を売った数千円を、さゆは大事そうに財布に入れて抱え、スーパーに立ち寄った。そこでほんの少しの食料と、最安値の菓子パンを二個買うと、すぐに外で味わって平らげる。タキも、久々のホットコーヒーをちびちび飲んだ。そのまま二人、しばらく沈黙する。
 この頃、めっきり会話が少なくなった。
 なんでもない様な、普段着の人々が行き交う鎌倉の日常を二人、眺めていると。ふと、「あと数ヵ月後に二人していなくなっても、この景色は何も変わらないんだな」という考えが、タキの胸の奥を過ぎる。
 温度の無い白い二月の、昼下がりの光の中で、会話もなく立ち尽くした。
「・・・・帰ろうか」
 ふと、タキがそう言うと、さゆは俯いたまま頷いた。
「あ、ちょっと待ってて」
 さゆは少し歩いた所で百円ショップを見つけると、一人で中に入り、ペット用のアクセサリーを一つだけ買って出て来た。首に掛ける蝶ネクタイだ。
「えへへ。ルークにおみやげ」
 そのまま、またゆっくりゆっくり家路へと向かう。荷物が少ないのでまだ楽だ。
「あ」
 さゆが声を上げるので、タキもある小さな農産物加工工場の前で足を止める。
 そこには、一枚の「パート募集」の張り紙があった。なんでも、一日四時間から勤務出来るという。
「ね、これ、応募してみようかな」
「・・・さゆ、まだ、早いんじゃない?」
 張り紙の写真を撮るさゆを、タキがたしなめる。さゆが男性と一緒に働けるとは、タキには思えなかった。在宅の仕事を探した方が良い。
「うん、でも・・・・やってみたいから」
 写真を眺めながら、さゆは再び歩き出す。
 絶望の底に、一筋の光が揺らめいて、二月が過ぎて行った。
 
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